アート・アーカイブ探求

小林正人《Unnamed #7》──反重力の光「保坂健二朗」

影山幸一

2011年06月15日号

逸脱しつつ生まれる

 人のいない美術館はとても暗い。3階のエレベータを降りると暗い中に白いTシャツ姿の保坂氏が待っていてくれた。1976年茨城県鹿嶋市生まれの保坂氏は、子どものころ海と広い原っぱとあけびが茂る自然の中で育った。東京に引っ越してきたのは小学校二年生。ものを見て、考えるのが好きな少年時代、保坂氏は日曜日の学習塾の後に母からもらったデパート美術館の切符で展覧会にひとりで行くのが楽しみだったと言う。中学から慶應に入り、一時陸上部で100m走と走り幅跳びの選手として活躍するも、身長の生長が止まり徐々に得意な国語に使う時間が増えていった。もともと本を読んで解釈し文章を書くのが好きだったこともあり、高校時代には東京・品川の原美術館に行き、ジャン=ピエール・レイノーの《ゼロの空間》と宮島達男の《時の連鎖》に驚いて「現代美術におけるゼロと無限」というレポートを美術の授業で書いたと言う。学芸員に興味はあったが、展覧会を企画することよりも、作品について鑑賞者と話し合うほうに関心があったそうだ。大学生の時には、現代美術作家とオルゴールを組み合わせた展覧会にボランティアスタッフとして参加。その際に鑑賞者に作品を説明する機会があり、作品を通していろいろな人とコミュニケーションすることの楽しみを発見した。フランシス・ベーコンについての論文を書いて大学院を修了し、2000年より東京国立近代美術館に勤務している。
 保坂氏が小林正人作品と最初に出会ったのは、1995年東京国立近代美術館で開催されたグループ展「現代美術への視点 絵画、唯一なるもの」だった。純粋にただ赤色が好きという保坂氏は、赤色が多かった小林の作品に惹かれるところはあったものの、小林の作品は少し形式的で、無茶をしているように感じ、アプロプリエーション(流用)やオプ・アート(錯視効果を強調した抽象絵画)で知られるロス・ブレックナーのほうが印象に残ったと言う。その後、2000年に宮城県美術館で開催された回顧展「小林正人展」を見に行った保坂氏は、実際に小林と会い藁(わら)の上に置かれた作品《Unnamed #9》に度肝を抜かれ、小林作品を理解する切っ掛けを得る。「それまでは絵がずり落ちていく感じ。二次元から三次元に変わっていくことで、壁から落ちていったのだと思っていた」が、そうではなかったのだと保坂氏。絵から逸脱しつつ同時に生まれていく。藁が喚起する誕生というこの世の神秘を、絵画においてやりたいのがわかったと言う。保坂氏はこの個展で《Unnamed #7》を見ている。

厳然と存在する何か

 小林は絵画の新道を拓くがごとく、独自の制作手法により、絵画そのものをテーマに絵画を制作し続けている。絵画というものが今この世から無くなってしまったら、間違いなく死んでしまうだろう画家のひとり、そんな不吉なことを思い起こしてしまうほど小林の絵画に掛ける情熱が作品から伝わってくる。
 1957年東京生まれの小林は、幼いころ興味を引くものがあっても手に取ることもなく、絵に描いたり写真に撮ったりすることもせず、ただ見ていた子どもだったという。牧師の祖父が創立した教会で育った小林は、何かを創造するのは神であり、人間がすることではないと思っていた。高校時代の小林は、優等生からバイクを乗り回す落第生に変貌していった。画家の道に向かわせたのは、音楽教師だったひとりの女性との恋愛だったそうだ。小林が描いた絵の美しさに目をとめた先生は、絵なら不良を更生させられるかもしれないと、新品の油絵具セットを与え、モデルにもなった。二人はともに高校をやめることにもなったが、小林は芸大を目指した。小林は「神様が全てを作ったわけではない。人間に何かをやらせる余地を常に残している」という恋人の教えを支えに、東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻に進んだ。ものをつくらず見続けてきた小林にとって、ものはたとえ自分がつくるのだとしても、厳然と存在する何ものかでなければならなかった。

星空

 1995年小林に転機が訪れた。東京・神宮前のワタリウム美術館が主催した「水の波紋’95展」のために来日していたベルギーのゲント市立現代美術館館長ヤン・フートが、《画》(1993)を買い上げたことが切っ掛けとなり小林はベルギーに招かれた。1997年からゲントを拠点に活動を開始。《Unnamed》のシリーズは、ゲントで制作した最初の作品であり、初めて小林が自然光の下で絵を描いたモニュメンタルな作品でもある。ゲントのアトリエを訪れた保坂氏が感じたのは、本当に生活と絵画制作が一体化していることだと言う。日常的に作品を見て移り変わりを確認し、耐えられる存在なのかどうか、を考えている。ひとつ何もないフレームを置いてそこで想像するという行為は独特で象徴的だと思った。2007年に広島県福山市の鞆の浦近くにアトリエを移し、2010年より東京藝術大学美術学部絵画科の准教授を務めている。
 小林は、油絵具、キャンバス、そして木枠を徐々に統合していきながら作品を形作っていく。張られたキャンバスを前にして制作を始める一般的な画家ではない。筆を使わず手で油絵具をキャンバスに塗っている。
 「星空を見ていると初心に帰れる。人間の手仕事は造形になりがちだけれど、星空は造形になっていない」「星の持っている一瞬の生の力を感じることで、生きているものに対して全部オッケーになるんだ」(『すばる文学カフェ』より)。小林は造形になっていない星空を創造の源としてきた。

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