アート・アーカイブ探求

杉戸 洋《two tree songs》──知覚の転換「松井みどり」

影山幸一

2011年07月15日号

美術評論家

 「ドローイングは、マイクロポップ・アートの主要な方法であり、その創造原理だといえる。それは、ドローイングが、自由な連想の過程や、未成年の不定形な精神が生む心の神話を媒介するのに最も適した手段だからだ」(『マイクロポップの時代:夏への扉』より)と、ドローイングについて指摘する松井氏は、1988年から2001年まで英米文学の研究者として東北大学に勤務し、1990年より言語文化部助教授、93年より国際文化学科アメリカ科助教授。1997年、米国のプリンストン大学大学院で「Beyond the Failure of Modernism:Contradictions in the Poetics and Politics of T. S. Eliot and Kobayashi Hideo」の論文により、比較文学博士号を取得した頃から、主に海外の媒体に日本の現代美術家について評論を書き始めている。当時の英米文学研究は、理論的な枠組みが要求される状況であり、文学で学んだ理論を使い日本の社会を考えることが有意義に思えた、と松井氏は語る。特に1994年国際比較文学会で、「(De)constructing where there is no structure? : the debate over postmodernism in the 1980s in Japan and the formation of the new critical trend in visual art」というテーマで、日本研究という観点から、日本の80年代の近代主義を超えようとする議論と視覚芸術の新しい批評傾向の様式について、村上隆の作品を取りあげ発表したことが美術評論家への切っ掛けとなったようだ。

変容するという気づき

 2001年アメリカで開催された「Painting at the Edge of the World展」(Walker Art Center)と「Public Offerings展」(The Museum of Contemporary Art, Los Angeles)において松井氏はアドバイザーのひとりとなり、論文も図録に掲載された。現代の具象絵画を考える前者の展覧会に日本から杉戸が村上と共に選ばれた。松井氏は次のように語る。「この二人の選択は、日本の現代美術の海外における理解にとって、非常に重要な意義を持っていたと思う。彼らが選ばれた理由は、村上は前近代と思われていた日本の安土桃山時代のなかに、普通にものを見る目とはまったく違うものの見方を引き出すようなバロック的──今は奇想という形で有名になっている──非写実的な表象があることに気がつき、現代のアニメにおける造形との血縁関係を強調したことで、新しい絵画ジャンルをつくり出していった。それは、単にアニメの影響を受けて利用するのではなく、西洋近代の輸入によって、日本の近代が抑圧した文化的なアイデンティティを、日本の絵画表現の独自性である奇想を軸に、前近代とポスト近代との美学の連続性を明らかにするコンセプチュアルアートだったと考えていい。それに対し、より若い世代の杉戸が選ばれたのは、世代による絵画造形への意識の違いを明確にするという点で、とても大事なことだった。杉戸が選ばれた理由は、彼の絵が二次元の平面の枠の中に現実とは異なる自立した世界をつくり上げるフォーマルな絵画であると同時に、そこでは、常に、具象と抽象、細部と全体との間の逆転現象が起こっている──つまり、知覚を刺激する絵画であることが評価されたからだと思う。そこでは、一見色面にしか見えないものが、よく見ると具象的な形を持っている。たとえば、小さな色の点が、実はボートだとわかるように。その絵の本当の目的は、通常の常識や慣習によって固定されているように見える事物が、視点や距離などのずらしによって変容するということに気づくことにある。そして、絵はそのことを、知覚体験を通して鑑賞者に知らせる。つまり、杉戸の絵画の、繊細で鋭敏な視覚体験を引き起こす細部の描き方や構成によって、鑑賞者に彼ら自身の感覚の鋭敏さを意識させる“コンセプチュアル”な面が評価されたのだと言える」。

初期作品に表われた幾何学形

 松井氏は1990年代半ばから杉戸作品を集中的に見ており、その特徴を整理してとらえている。「1995年から99年までの作品では、非常に小さなものと大きなものを同時に見せる工夫がなされている。《shark man》(1998)のような作品では、抽象的に見える色面構成を通して、具象的な形が表われてくる。それは、観客が、両極端な要素を、ひとつの極から別の極へと自分の認識を調整しながら統合することを要求する絵画だと言える。杉戸の絵画ではしばしば、自然界のなかに発見される有機的な形を見出したり、ひとつのものを共通の構造や細部を通してまったく違うものと結びつけたり、美がないはずのところに美を見出したり、という効果が得られる。そうした気づき、つまり、日常を通したその先にある美の認識のための切っ掛けとして、幾何学形が使われていたのだ。そこでは、マクロとミクロの視点の共有や、幾何学形と有機的な環境との両立や、その間を鑑賞者の視点が行ったり来たりすることが重視されており、その視点の運動を鑑賞者自身が持つことができるような工夫がされていた。杉戸の絵画に頻繁に表れ、その構造の基本形を成しているのが、(1)グリッド、(2)三角形、(3)壁の両脇にカーテンのある部屋といった構図で、その応用としての台形や「橋」がある。これらの要素を組み合わせ、大きな図形の中に小さな別の図形や構造(しばしば、窓の形をとる)を内包させたりすることで、杉戸は、マクロとミクロ、内と外、二次元と三次元の間に観客の視線や想像力を遊ばせ、フラットな二次元の平面が、伸縮したり、空間が奥に向かって開いていったり、ひとつの窓を通して今の空間が別の空間に通じていったりする感覚をつくり出している」。

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