アート・アーカイブ探求
土佐光信《清水寺縁起絵巻》静に動を重ねた室町のクリエイション──「相澤正彦」
影山幸一
2011年12月15日号
近世を先取りする中世
相澤氏は現在、東京の成城大学で、12世紀末鎌倉幕府成立から16世紀末室町幕府滅亡までの中世の絵画を専門としている文芸学部芸術学科の教授である。1954年生まれの相澤氏は、家が鎌倉に近かったこともあり、子どもの頃から古美術に興味を抱き、中学生のときから親戚のいる京都にも行き、古寺巡礼をしていたそうだ。早稲田大学大学院生のときに『日本美術絵画全集 第5巻 土佐光信』(集英社)が発刊され、その色鮮やかな近世を先取りしている中世の絵を見て、心を動かされたと言う。1982年同大学院博士課程修了後、神奈川県立歴史博物館の学芸員となり、2004年より成城大学で教鞭を執っている。
日本的情趣に富むやまと絵に関心を持った相澤氏は、土佐派、巨勢派(こせは)、六角派、粟田口派(あわたぐちは)、窪田派などのやまと絵画壇から、本道である土佐派、なかでも比較的作品が多く残り、ある程度事歴も押さえられている中世に活躍した光信と、その子の光茂(みつもち)の研究を始めた。
「光信は、肖像画、特に芸能者の《桃井直詮(なおあきら)像》が素晴らしい。光信の絵巻のなかでは《硯破(すずりわり)草子》など小型の巻物がいいですが、本格的絵巻としては《清水寺縁起絵巻》がいいですね。最初に見たときは、鹿の場面(上巻第六段)などが創造的で面白いと思った。でも日本の絵巻全体のなかでは大傑作というところまではいきません。《清水寺縁起絵巻》は特筆すべき表現はあるが、これは素晴らしいという感動ではなく、研究者の眼で今までとは違う軽さや、枯れた感じの個性的な絵の魅力に惹かれる」と述べた。
やまと絵を革新した文人絵師
土佐光信の生没年は1434年頃から1525年頃と推定されている。土佐家において最も華やかに活動をした絵師で、92歳という生涯だったようだ。死の直前までの半世紀にわたり、絵師一生の名誉である宮廷の作画機関・絵所預(えどころあずかり)職に在任し、同時に宮廷官人として刑部大輔(ぎょうぶたいふ)従四位下まで上り、丹波大芋(おくも)社領をはじめ5カ所あまりの所領を得ている。この乱世の時代に、絵師としてはこの上ない栄誉を手中に収めたが、そのためにはかなりの政略的手腕に長けていたとも思われる。
また、光信の作品は、やまと絵に中国からの水墨画の技法を取り入れ、目に見えぬ大気の流れや光の明暗などを表現し、今までにない新しいやまと絵を創出した。粗く速い筆線と淡泊な彩色が光信の特徴である。現在のところ60歳以降の作品しか見つかっておらず、相澤氏は光信の作品にはそこはかとしたはかなさが漂っている、と指摘している。
そして相澤氏は、「光信は絵画の伝統を順守する機関の長官ですから、きちっとした輪郭線の中に極彩色を入れる古典的なやまと絵を描いてもいいのですが、光信は伝統を引かなかった。普通トップに立った人はあまり大冒険はしないでしょう。これは光信の資質だろうと思う。光信自身も新しいものを求めたいという気持ちと、混乱期である足利義政の時代も新しさを求めたのかもしれない。もの寂し気で情趣深い文学性を強く求める時代の要請があったのだろうが、光信自身もやまと絵の革新者と言っていい。絵描きが自分勝手に好きな絵を描くのは許されない時代において、光信には職人的な絵描きとは違う部分があった。それは連歌をやる文人だったことだ。宗祇をはじめ当時の有名な連歌師たちともつきあい、貴族の連歌会にも参加し活躍している。和歌を詠むときは平等というが、要するにヒエラルキーが取り払われる。光信は文才もあり、絵も上手い文雅の人、単なる職人ではなかった。文化を背負っている文人絵師と言ってもいいくらいの人、そのあたりが貴族も認めたのだろう。」。
【清水寺縁起絵巻(中巻第一段)の見方】
(1)モチーフ
水火雷電神(すいからいでんしん)、坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)、官軍、蝦夷(えみし)
、舟、海、樹木など。(2)題名
清水寺縁起絵巻(きよみずでらえんぎえまき)。
(3)構図
天と地の間につくられた横に走るジグザグ形に、事象を俯瞰的にとらえたモダンで斬新な構図。一段が長く、構図的に連関している鎌倉時代の形式と様式を持っている。
(4)色彩
淡泊な赤、青、黄、緑、白、黒と金。薄塗りでさっぱりしている。
(5)描法
粗いタッチ。ラフであるが、シュシュと筆速のある手慣れた迫力のある描線。
(6)サイズ
全三巻33段のうち中巻(33.9×1894.9cm)の第一段。33段は衆生の求めに応じ姿を変える観音三十三身にちなんだ数字。
(7)制作年
1517(永正14)年。
(8)画材
紙本着色。墨、岩絵具、鳥の子紙。微妙なニュアンスを出すために、花びらや葉、草などからつくった有色の天然染料も使われている可能性がある。
(9)鑑賞のポイント
本来脇役である木を、大胆に画面の真ん中に配置している。木は風で大きく揺れ、蝦夷と官軍のすさまじい戦闘の状況を感覚的に伝えている。また雷神は怖い存在のはずだが、明るく軽い表現にしており、逃げてやっと舟に乗った兵が波に揺られて嘔吐する様子まで活写している。タッチはラフで絵がガサガサして乱暴な描き方に見えるが、これは光信の計算。絵描きの生命は描線である。墨の濃淡やかすれ具合、波のうねりを表わしたリズム感ある規則正しい線が光信の技量を示している。水墨画の描き方をやまと絵に取り込み、風が吹いて波が立つ様子や空気の流れ、光が差す感じなどをクローズアップし、生動感溢れるよう劇的に描いている。水墨画の技法を、やまと絵に反映させた絵師は、光信以前にはいなかった。その要因のひとつは、絵を享受する貴族や武士が、やまと絵と水墨画は別ものとして区別していたことにある。枯淡の趣がつのる《清水寺縁起絵巻》全巻のなかで、この「水火雷電神の場面」は、白眉というべき部分。中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の日記『宣胤卿記(きょうき)』の1517(永正14)年9月17日に、この絵巻が「土佐刑部大輔光信筆」とあり、光信80歳代の作。美術史家の谷信一は「七十年或は八十年に及ぶ光信の全生涯の畫技は、實にこの淸水寺繪一本に凝結されてゐると言つても過言ではないであらう」(『美術研究』No.103, 1940 より)と言っている。