アート・アーカイブ探求
秦 致貞《聖徳太子絵伝》「和を以て貴しと為す」和国教主の神話──「村重 寧」
影山幸一
2012年01月15日号
法隆寺絵殿障子絵
村重氏は、1937年東京に生まれ、大学生のときは奈良時代の彫刻を専門とする安藤更生氏に師事した。当時早稲田大学には絵画史の先生がいなかったそうだ。日本の絵として繊細な絵が肌に馴染むという村重氏は、主にやまと絵や、そこから出てきた琳派が好きで独自に調査研究を進めていくこととなった。
村重氏が最初に《聖徳太子絵伝》を見たのは、1967年東京国立博物館の学芸員になってからだった。初めて実物を見たときは「随分傷んでいるなあ。大きい物だなあ。壮観だな」と思ったそうだ。現在、東京国立博物館内にある法隆寺宝物館2階の第6室に展示・保管されている《聖徳太子絵伝》は、かつて法隆寺の東院伽藍(がらん)の絵殿と呼ばれる堂宇三方の壁面五間を障子絵として飾っていた。法隆寺に設置されていた当時は、作品の状態が悪く保全のために外され、1788(天明8)年には二曲五隻の屏風に改装された。1878(明治11)年皇室に献上され、1949(昭和24)年に国有、1965(昭和40)年国宝に指定され、そして1968(昭和43)年から1972(昭和47)年にかけて、屏風から現在の10面の額装に改められた。法隆寺の絵殿の壁にはいま、江戸時代の1786(天明6)年から1787(天明7)年に吉村周圭充貞(しゅうけいみつさだ)によって模写された障子絵が納められている。なお障子絵は、現在の明かり障子とは異なり、ふすま絵という意味である。
貴重な大画面説話画
現存最古の聖徳太子絵伝といわれる国宝《聖徳太子絵伝》は、1227(嘉禄3)年に著された『太子傳古今目録抄』などに記録が残っている。法隆寺の絵伝よりはるかに古い奈良時代後期の752年頃(太子没後130年目)に、太子信仰が始まり、大阪市・四天王寺には絵伝の壁画があった。それは度重なる災禍にもかかわらず近世まで描き伝えられ、現存する板絵は元和時代の再興時に描かれた、伝狩野山楽といわれている。また1983(昭和58)年に杉本健吉筆の障壁画が絵堂に設置され、毎月22日に開扉している。平安時代には法隆寺の絵伝より、四天王寺の絵伝の方が都によく知られていたという。
絵伝は、もともと仏教とともに伝わり、人物の功績や事蹟などを描いた絵を寺の僧が信者に対して絵解きを行ない、絵の内容を後世に伝えていくために描かれる。「聖徳太子の絵伝は、障子絵、絵巻、掛軸と形態はさまざまあり、橘寺、広隆寺、斑鳩寺、談山神社、油日神社など、いまも各地で所蔵されている」と村重氏は言う。
574年から622年まで活躍したとされる聖徳太子(本名は厩戸〔うまやど〕皇子)。その生涯を絵画化した法隆寺の《聖徳太子絵伝》は、1069(延久元)年に絵師の秦致貞(はたのちてい)によって描かれた大画面説話画である。広大な山水を背景に寺院や寝殿などを配したうえ、太子の約60の事蹟をちりばめて構成している。これらは917(延喜17)年藤原兼輔撰の『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』に拠って描かれ、絵とともに色紙形題銘が付けられている。「全面に補絹、補彩、補筆が施されており、制作当初のものはわずかに綾絹のみといわれるほどだが、図様は当初のまま忠実に再現している」と村重氏は述べている。唐代の大画面仏教説話画に源流をもつ、11世紀の貴重な作品である。
初期やまと絵
秦致貞は、生没年が不明だが、現在の大阪府西部と兵庫県東部一帯にあった摂津国の大波郷に在住していたという記録が残っている。法隆寺に伝わる『異本法隆寺別當次第』(1347頃)、『法隆寺別當次第』(1360頃)、『嘉元記』(1364頃)に書かれている文字を「致真」と読んできた時代があったが、近年は「致貞」に落ち着いている。致貞は《聖徳太子絵伝》の制作年と同年、法隆寺に現存する国宝《聖徳太子童形像》の彩色を行なっており、明治41、42年の修理時にこの胎内から墨書銘(ぼくしょめい)が発見された。「致真」を知っていた調査官らが「致貞」と判読し、それを『造像銘記』に活字として残している。致貞の制作活動は現在のところこの法隆寺以外では見当たらないが、奈良時代において秦姓を持つ絵画技術者の名が『正倉院文書』のなかに見出されており、秦という姓から推測すると、致貞は帰化人の血統であるかもしれない。
村重氏が《聖徳太子絵伝》の描かれた社会的背景について語った。「794年に都が奈良から京都に移り、京都の風土が、文学や彫刻などいろいろな和様の文化を生み出していった。それまで日本の絵は中国の模倣、見たこともない唐のゴツゴツとした想像上の山の風景などを描いていた。そして平安時代の後期、京都の宮廷、貴族を中心として、日本人の目で見た風景や風俗、人物などを描くようになり、中国の唐絵に対するやまと絵が誕生した。ちょうど《聖徳太子絵伝》の頃で、この時代の絵画作品は少ないが、平等院鳳凰堂の扉絵と東寺の山水(せんずい)屏風が、初期やまと絵として現存している」。
【聖徳太子絵伝の見方】
(1)モチーフ
聖徳太子ほか人物と風景。
(2)題名
聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)。
(3)構図
高視点による俯瞰的な構図。各情景を大小遠近の差なく等価に扱い、ひとつの面にちりばめる。すやり霞や丘陵などで区切りをつけつつ、自然景や建物の共有によって事蹟間の連続性も感じさせる。桜井、明日香、斑鳩、難波といった太子ゆかりの地域が、東から西(第1面〜第10面)に概ね並んでおり、事蹟は時間軸に沿わせず、地理関係を考慮して配置されている(図参照:今岡英子「法隆寺旧蔵『聖徳太子絵伝』研究」を参考)。
(4)色彩
赤、青、黄、緑、白、黒など多色だが、現在残る色彩の多くは江戸時代に補彩されたものと考えられる。
(5)描法
初期やまと絵と呼ばれ、自由な人物の表現と岩や樹木の遠小近大的な扱い、また建物は平行四辺形の枠を構成規準とし、一方衡山(こうざん)など大陸の風景を唐風のまま画面に取り入れてもいる。
(6)サイズ
10画面(右から第1面:縦185.5×横136.6cm、第2面:縦185.5×横136.6cm、第3面:縦186.2×横137.1cm、第4面:縦186.2×横137.15cm、第5面:縦185.6×横145.9cm、第6面:縦185.6×横145.8cm、第7面:縦185.7×横135.4cm、第8面:縦185.7×横135.6cm、第9面:縦185.2×横134.5cm、第10面:縦185.2×横134.9cm〔秋山光和『平安時代世俗画の研究』参照〕)。
(7)制作年
1069(延久元)年。
(8)画材
綾本著色。大柄な立涌文を織りだした綾絹に顔料で彩色を施している。絵絹に綾織りを用いのは滅多にない。
(9)落款
なし。当時は絵に署名する習慣はない。作者名は古文書『嘉元記』『法隆寺別當次第』『異本法隆寺別當次第』に記録される。
(10)鑑賞のポイント
『聖徳太子伝暦』に基づいた、太子誕生、神童ぶり、戦での活躍、政治家としての成熟、仏教への帰依、予告通りに迎えた死などの事蹟をもとに、聖徳太子の緯業を後世に伝える大画面説話画。太子信仰が盛んな平安時代、太子ゆかりの法隆寺に装飾的に描かれた。絵の見どころは、「法興寺落慶」「十七条憲法を制定」「小野妹子を隋に派遣」「勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)を執筆」「宴を設けて群臣に物を賜わる」など、奈良の都で活躍した太子が描かれている絵の中心部にある。自然と神と仏への信仰心が集い、描かれたこの絵伝は、絵巻や本のように順序を追って展開しているのではなく、時間と地理的空間を風景の中に組み合わせて描き込んでいる。識字率が低い時代に文字に変わって絵画がメッセージを伝達する機能を発揮していた点が注目される。数ある聖徳太子絵伝のなかで最古であり、規模、作風において最も優れた作品である。