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熊斐《登龍門図》中国名画受容のエネルギー──「成澤勝嗣」

影山幸一

2012年03月15日号

代表作に位置付ける

 成澤氏は1958年名古屋市生まれ。高校生時代ロックが好きで、レコードショップやライブが多い東京へ出ることを考え、1977年早稲田大学へ入学、そして勧誘を受けた古美術研究会へ何気なく入部したのがきっかけで美術の道に入ったのだと言う。古美研では、夏の研究会合宿時に奈良・京都の寺院を巡る際、絵画班として京都の非公開寺院で桃山時代の襖絵などを見たことが特に印象深かったそうだ。1984年より神戸市立博物館の学芸員を務め、2008年から母校である早稲田大学で美術史の教鞭を執っている。ロックから古美術、そして近世絵画史へ、人があまり興味を示さないフィールドに関心を持つタイプなのだと自己紹介してくれた。
 熊斐の作品を成澤氏が最初に見たのは、神戸市立博物館に就職後、館が所蔵する2、3点の作品だった。しかし、展覧会「特別展 花と鳥たちのパラダイス─江戸時代長崎派の花鳥画─」を企画したときに初めて見た実物の《登龍門図》は、他の熊斐作品とは出来が違う、別ものに感じたそうだ。成澤氏は《登龍門図》を熊斐の代表作と位置付けている。

通訳であり画家

 熊斐は、一途な画家ではなかった。1712(正徳2)年に長崎で生まれ、当時唐通事と呼ばれた中国語の通訳である神代(くましろ)右衛門の養子となり、通称を彦之進のちに甚左衛門、神代甚左衛門として唐通事の職につき、唐風に熊斐と名乗った。熊(ゆう)が中国姓で、斐(ひ)が諱(いみな)、字(あざな)を淇瞻(きせん)、号を繍江(しゅうこう)と称した。「いくつも名前があって、普通に友達付き合いであれば字を呼ぶ。斐と呼んでいいのは両親や兄弟などのごく親しい人だ。繍江は絵を描くときの雅号で淇瞻を使うこともある。神代は長崎で生活するときの名字である。名字が2回続いてしまう神代熊斐や熊代熊斐は間違い」と成澤氏。
 奉行所に抱えられる役人である唐通事の元をたどると、だいたい江戸初期に長崎に住み着いた中国人で、代々通訳の仕事をしている。出自は低いと考えられており、中国から帰化して唐通事になった家が20、30はあったという。

絵描きが来た

 8代将軍徳川吉宗(1684〜1751)は、中国の古画である宋元画の名品を輸入したいと希望していたが、十分な作品を探すことができず実現されなかった。その代わりに1731(享保16)年12月3日、長崎にやって来たのが中国清代の画家・枕銓(しんせん, 1682〜?)、日本名では沈南蘋(しんなんぴん)だった。中国浙江省出身で号を南蘋、字を衡斎(こうさい)といい、精緻で華麗な花鳥画を描いた画家であった。
 この《登龍門図》の解説は、まず沈南蘋から始めることになると、成澤氏は言う。「18世紀の前半に中国から新しい絵画の波がやってきた。それも生身の絵描きが来た。作品が来たとか、画論が来たとか、描き方の解説書が来たのではなく、実際に人間が来た。沈南蘋がなぜ来たかというと、絵画を好んだ吉宗が“名画輸入令”を発布し、当時中国とオランダと貿易を行なっていた両国に名画を持ってくるよう要求した。中国には宋元時代の名画を、日本でいえば室町や鎌倉時代の古い絵。オランダには油彩画を。オランダはすぐ輸出して将軍に献上した。というのはオランダは国営貿易。国が出資している東インド会社なのですぐ対応できるが、中国との貿易は中国政府が関与していなかった。民間の貿易会社の商人たちが長崎に来て取り引きをしており、中国には貿易という概念がなかった。朝貢により貢物を持ってきたらお返し物をする。だから宋元の名画を持って来なさいと言われても、困ったのでしょう。“滅多にあるものではない。時間がかかる”と返事をしたらしい。その何年か後に沈南蘋が来日した。これは想像ですが沈南蘋というのは、ひょっとしたら宋元画の代理として長崎へ派遣されたのではないか。沈南蘋は宋・元風の絵を描き分けられる画人であり、宋の誰それに習った絵であるという、そういうサインをしている。また中国へ帰国後、自分は日本国王の招きで日本に行って来たと言っており、滞在中は吉宗に会っていないが作品は献上していると思う。吉宗に気に入られたらしく売り込み作戦を成功させて本国へ帰り、浙江省の自分の工房で弟子たちを動員して絵を描き、それを輸出して儲ける。そのための長崎支店として、たぶん熊斐は沈南蘋の絵の輸入総代理店役もしていたのだろう」。

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