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熊斐《登龍門図》中国名画受容のエネルギー──「成澤勝嗣」

影山幸一

2012年03月15日号

南蘋派誕生

 鎖国政策を行なっていた徳川幕府は、中国とオランダとのみ正式な通商を許し、朝鮮と琉球から国王の使節を迎えるだけであった。2世紀半の間、外国からの脅威におびえることなく、国内は平和な状態が保たれ、自国の文化をじっくりと育てることができたのだ。
 外国との窓口だった長崎には“唐絵目利(からえめきき)”という絵を描く役人がいたが、通訳である熊斐は家職の便宜もあって、直接、沈南蘋に師事することができた唯一の日本人となった。なぜ熊斐が沈南蘋から絵の手ほどきを得ることになったのか、その経緯はわからないが、沈南蘋と出会い新たな画流を興すに至った。熊斐から発信された写実的画法を伴った南蘋画は、鶴亭(かくてい)によって京都の円山応挙や与謝蕪村、伊藤若冲、また宋紫石(そうしせき)によって、江戸の司馬江漢や酒井抱一、葛飾北斎など、日本の絵画界に一大旋風を起こし、のちに南蘋派と呼ばれるまでに広まった。1733(享保18)年9月18日、2年足らずで帰国した沈南蘋の活動は後世まで語り継がれているが、功労者である熊斐については存外その人となりについて知られていない。

【登龍門図の見方】

(1)モチーフ

鯉、滝、桃、岩。

(2)題名

登龍門図。誰がどのように付けたかはわからない。

(3)構図

縦長の画面と垂直に流れ落ちる滝を組み合せたことで、ダイナミックな力強さが増している。

(4)色彩

多色淡彩。透明感のある水色、画面上部にはピンクの桃の花と緑の岩が利いている。

(5)描法

音が聞こえてきそうな迫力のある描線と透明感のある色彩。滝の直線は、定規を使い消し炭などで下書きをし、その上を筆で描いていると思われる。

(6)サイズ

縦129.7×横53.0cm。基本サイズ。

(7)制作年

1751〜1764年(宝暦年間)頃。

(8)画材

絹本着色掛軸装一幅。ごく普通の鉱物性の顔料を絵具にしている。

(9)落款

繍江熊斐冩。印章:「熊斐」(白文方印)「繍江」(朱文方印)、遊印:「遊於芸」(朱文方印)。

(10)鑑賞のポイント

画面全体は模様的である。垂直の画面を単純に活かした絵は日本に少なく、また日本画は水中にあるものをあまり描かない。「中国の黄河上流にある龍門の滝を登った鯉は龍になる」という登竜門の故事から立身出世を、また鯉のぼりと桃は、端午と桃の節句を表わし子どもの成長を願う。一方、二匹の鯉(図参照)の腹がくっついて夫婦和合、子沢山、家内円満、健康、長寿など、中国人の民間信仰も反映されている。当時長崎に来ていた中国人たちが日常的に部屋に飾っていためでたい絵柄で、言い換えれば道教的な現世利益信仰。これらを水しぶきの表現に見られるように、南蘋流の写実で明快に描いたというのがポイントである。


作者不明《吊鯉図》1770年頃, 成澤勝嗣氏所蔵

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