アート・アーカイブ探求
菊畑茂久馬《天河 十七》──赤の実在「野中 明」
影山幸一
2012年07月15日号
バロック芸術
野中氏の実家から菊畑のアトリエは自転車で行けるほど近いそうだが、野中氏が憧れの菊畑茂久馬の作品をまとまったかたちで初めて見たのは、1998年徳島県立近代美術館で開催された「菊畑茂久馬:1983-1998 天へ、海へ」展だった。それまで野中氏は、《天動説》が菊畑のイメージだったという。展示されていた新シリーズ「天河」の一、二、十、十一、十二、十三を見て、「こういうところへ行くのか」と感動しつつも、この時点では将来菊畑の絵画展を企画することになるとは思いもしなかったと言う。
福岡に生まれた野中氏は「弁護士になれと親は言っていたが興味がなく、学芸員になろうという思いもなかった」と、青少年時代を消極的だったと振り返ったが、アルバイトをしてローマへ旅行したとき、サンタンドレア・デッレ・フラッテ教会に安置されているバロック芸術の巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作の天使像を見て感動し、九州大学文学部哲学科美学美術史専攻へと進学を決めたと言う。しかし先生がみな仏教美術の専門家だったため、急遽方向転換をして運慶など藤原時代末期から鎌倉時代初期の仏像を学んだ。1995年米子市美術館の学芸員となり現代美術を視野に入れて研究していたが、2001年長崎県都市再整備推進課へ転職。長崎県美術館の設立準備段階から美術館業務に関わり、2005年の開館と同時に学芸員となった。
《天河 十七》を野中氏が最初に見たのは2006年頃、菊畑のアトリエだった。「度肝を抜かれました。アトリエの光線の具合だったかもしれませんが、画面の両肩がギラッとして迫力があった。ただちょっと気になったのは、絵具を削って基底材が見えるような虫食いみたいなところが若干つくり過ぎに見えた」と語った。《天河 十七》は、天河シリーズのなかでも色として赤が強く出てきた特徴のある作品で、特に左右に意識が働いている絵。8つある絵画シリーズのなかで初めて横長の画面となり、天河シリーズ最後のシンボリックな作品だ。《天河 十七》を長崎県美術館が購入した理由もここにあると言う。
母の耳
独学で絵画を学んだ菊畑茂久馬は、徳島県出身の父と長崎県五島出身の母との間に1935年長崎市に生まれた。茂久馬という名は、「四国の交通王」と呼ばれた実業家・野村茂久馬から父親が付けたと言われている。子どもの頃から絵が好きで、クレヨンとスケッチブックを与えていれば軍艦や飛行機などを描いておとなしくしていた。日中戦争、太平洋戦争を体験し、3歳で父を、15歳で母を亡くしたため自立を余儀なくされた。
「母は終戦直後、春の彼岸の日の夜明け前、少しばかりのチョコレート色の吐きものをして死んだ。わたしは母が死にいく直前から彼女の体にしがみついていた。その格好は丁度両の耳を手綱のように握りしめて早馬にまたがって駆けるような姿になっていた。小さな借家の一隅で母子二人の奇態な黙劇であった。(略)だが不思議なことに、しびれた手の中で耳だけは、いつまでたっても生温かかった。〈もの〉とも生きものともつかない奇妙な感触は、今もわたしの両の手から消えない」(三田晴夫『美術手帖』No.645, p.172)。母の耳の実感が、信ずるに足る母の存在として菊畑の「もの」に転化していったように思えてくる。
タブローの世界
1953年、菊畑は福岡市新天町商店街にあった共同アトリエ「青の家」で画家の木下新と出会い、翌年岩田屋百貨店の楽焼きコーナーで絵皿や似顔絵を描く仕事を得て、画家人生を19歳でスタートさせた。1956 年第24回独立美術展に入選。1957年から1961年前衛美術家集団「九州派」に参加し、主要メンバーとして活動。1961年「第13回読売アンデパンダン展」と「現代美術の実験」展に、土俗の妖気を漂わせた《奴隷系図(貨幣)》を展示し、菊畑の名を一躍広めた。1964年には精神的な師匠となる「炭坑記録画」を描き続けていた炭鉱労働者で画家の山本作兵衛(1892〜1984)と出会う。この記録画は2011年ユネスコの世界記憶遺産に登録された。1964年南画廊で《ルーレット》シリーズを発表後、菊畑は太平洋戦争記録画や日本近代美術史の研究、執筆、壁画制作、舞台装置制作、テレビ番組の構成、美学校講師など、表現の根源を探るオブジェやドローイングを制作しながらも19年間は発表しなかった。そして1983年東京画廊に展示された大作《天動説》(1983-88)から画家菊畑のタブロー世界が始まる。《月光》(1986-88)、《月宮》(1988-89)、《海道》(1990-97)、《海 暖流・寒流》(1991)、《舟歌》(1993-97)、《天河》(1996-2003)、《春風(しゅんぷう)》(2010-)を連作形式で次々と発表している。「前衛の時代」「絵画の模索期(オブジェと思索の時代)」「絵画の時代」を経てきた、戦後美術を語るうえで欠かすことの出来ない画家である。海外に旅行へ行ったことがないのが自慢だそうだ。
【天河 十七の見方】
(1)タイトル
天河 十七。天の川を指していると思われる。当初「海宮(かいぐう)」というタイトルだったが、発表直前に「天河(てんが)」に変更。
(2)制作年
2003年。2005年『第3回円空大賞展』(岐阜県美術館)にて初展示。
(3)画材
油彩、蜜蝋、キャンバス。蜜蝋を油絵具とともに煮て、物質性のある絵肌をつくっている。
(4)サイズ
縦260.0cm×横583.0cm。河の幅を現わすため横長の画面が用いられた。200号Fのキャンバス3枚をひとつに合わせている。作品を三分割しているのはすべてを自分の手で取り扱う菊畑の流儀の表われ。
(5)構成
左右対称形。上部に舟、あるいは鳥の翼を思わせる逆三角形のフォルムが描かれ、下部は大瀑布のように絵具が垂直に流れ落ちている。
(6)色彩
赤、黒、茶色。血のような真っ赤な色彩は《奴隷系図─円鏡による》の赤い円盤の生命力を呼び戻す色かもしれない。
(7)技法
画面の上部、左右の絵具の凹凸はアイロンのようなもので絵具を引き伸ばしたり、突起物で削っている。縦に流れる線は、スポンジを竹などに挟んで絵具を制御する部分と、自然にまかせる部分を調整しながら描いている。
(8)サイン
裏に「菊畑茂久馬」と署名。