アート・アーカイブ探求
田中訥言《百花百草図屏風》復古による独創──「吉川美穂」
影山幸一
2012年11月15日号
屏風の中の時間
愛知県一宮市出身という吉川氏は、名古屋大学を卒業後、徳川美術館の学芸員になった。卒業論文は酒井抱一の《夏秋草図屏風》がテーマだったという。学生時代に近世絵画を研究していたため、《百花百草図屏風》の世界に抵抗なくすーっと入れたそうだ。
吉川氏は、子どもの頃花が好きで一時期は牧野富太郎(1862-1957)のような植物学者になりたいと思っていたそうだ。しかし、ミヒャエル・エンデ(1929-1995)などのドイツ文学や美術への関心もあり、大学では文学部哲学科美学美術史を専攻した。美術史を始めた頃、東京・出光美術館へ行き、室町時代のやまと絵、伝土佐光信の《四季花木図屏風》(出光美術館蔵)を見た。名古屋大学で西洋美術史を教えている木俣元一先生からの「屏風は右から左へ時間が推移して、季節が過ぎていく様子が描かれている」という言葉と、この《四季花木図屏風》とが見事に一致して、屏風の中の時の流れがストンと心のなかに落ちたと言う。《四季花木図屏風》のように一双の画面の中に四季全体をまとめた作品もあれば、抱一の《夏秋草図屏風》のように四季の一瞬を切り取った作品など、屏風作品の時間のとらえ方に何か惹かれるものがあったそうだ。
また、徳川美術館に就職してから田中訥言の作品を見たという吉川氏は、初めて《百花百草図屏風》を見た時は「200年経っているとはとても思えない色の美しさ、色彩の艶やかさを感じた。ダントツに絵具がいい」と思った。殊に吉川氏は俵屋宗達工房の《四季草花図屏風》(根津美術館蔵)が好きだったこともあり、類似しているが何がどう違うのかなど、画家・田中訥言にだんだんと興味が湧いてきた。
僧侶から絵師へ
田中訥言は1767年生まれ。出身地は尾張(愛知県西部)と推定されるが、京都を基盤に活動していた。幼い時に日蓮宗の寺に入門後、比叡山延暦寺で天台宗を学び、また円山応挙をはじめ原在中(はらざいちゅう, 1750-1837)など、独自の画境を拓いた画家を輩出した石田幽汀(いしだゆうてい, 1721-1786)から狩野派の手ほどきを受け、後に還俗(げんぞく)して絵師となった。土佐光貞(1738-1806)に師事し、やまと絵を学んで靜謐な画風を表出していくようになる。訥言の画風に浮田一蕙(うきたいっけい, 1795-1859)、冷泉為恭(れいぜいためちか, 1823-1864)たちが追随したことから、訥言を祖とする「復古やまと絵派」という呼称が後に与えられた。
訥言は1788(天明8)年、弱冠22歳で法橋に叙せられ、1790(寛政2)年には新御所造営にあたり障壁画を制作している。「古式に倣った障壁画を描くようにという老中松平定信(1758-1829)の命により、障壁画は今まで狩野派中心だったが、その頃からやまと絵の一派である住吉派に代わっていった。当時は、京都の公家や定信周辺の画家である谷文晁(1763-1841)や住吉廣行(1755-1811)も京都に赴き、社寺に残る古い絵巻などの古画を研究。訥言もそのメンバーであった」と吉川氏。訥言は《伴大納言絵巻》をはじめ《佐竹本三十六歌仙絵巻》《當麻曼荼羅縁起絵巻》《鳥獣人物戯画》、平等院鳳凰堂の扉絵など、名だたる古典的な絵巻や、やまと絵を精力的に模写・研究していたそうだ。訥言のこの前半生が「復古やまと絵」の基礎となっている。
口を重くして、実践につとめる
しかし、訥言は人生後半になってくると、かなりすさんだ生活になったようだ。名古屋の豪商は訥言のパトロンであった。そのひとつ名古屋城下の打刃物商「笹谷」を創業した名古屋有数の商家岡谷家。その九代惣助(そうすけ)が語ったという逸話によれば、《百花百草図屏風》は同家六代惣助(1777?-1845)の注文品で、訥言が京都へ絵具を買い付けに行くというので、惣助は絵具代として30両を渡したが、訥言は京都へ行くどころか、二度にわたり酒食に使い果たしてしまった。三度目に30両に加え旅費6両を渡したところ、ようやく絵具を手に入れ、製作に打ち込んだという。1両を約10万円として換算してみても破格な絵具代である。
1817(文化14)年尾張の徳川家奥医師であった林良益(はやしりょうえき, 1787-1846)の援助のもと新作の展示即売会「二百幅画会」を催し、1818(文政元)年訥言は唯一の自著である色彩に関する古典研究『色のちくさ』を刊行。その5年後の1823(文政6)年57歳で没した。目が見えにくくなり、舌を噛んで自殺したと伝えられるが事実はわからない。振幅が激しい性格だったのかもしれない。「訥言は職人肌で自分の生活を省みない。宵越しの金は持たないタイプだった。研究家肌でもあるが、普段の生活は破綻しているような人物であったのではないか」と吉川氏は言う。
一風変わった訥言という名前は、孔子の『論語』「君子欲訥於言、而敏於行」から来ていると吉川氏。口を重くして、実践につとめるという意味の名である。訥言の作品は、落款にある訥言の「訥」の漢字の右側の旁(つくり)の癖から、人訥「ジントツ」(訥言20代〜42歳)、入訥「イリトツ」(43〜47歳)、内訥「ウチトツ」(48〜57歳)の三期に分けられる。《百花百草図屏風》は晩年の内訥の時代に制作されており、訥々たる筆致、豊穣な色感、並列的構図など、訥言円熟期の特徴が見られる。
【百花百草図屏風の見方】
(1)モチーフ
草花。右隻55件〔54種〕、左隻41件〔40種〕、合わせて96件〔94種〕の草花が木下稔氏により確認されている(図参照)。
(2)タイトル
百花百草図屏風(ひゃっかひゃくそうずびょうぶ)。「四季草花図」と言わずに「百花百草図」と独特なネーミングを付けた考案者や出典は不明。
(3)制作年
19世紀、江戸時代後期。1810年から1820年代くらいの作品。制作年を記した作品は少ない。
(4)画材
紙本金地着色。檀紙
(5)サイズ
右隻、左隻とも縦155.2×横353.8cmの一般的な六曲一双屏風。
(6)構図
右隻から左隻へ草花の季節が春、夏、秋、冬と移ろうように、また両隻の画面中央で草花が大きく交差するように構成している。上部は低木の花木、中央部は田畑などに自生している身近な草花、下部は沼地などに自生する草花など、各草花の特色を活かした配置。
(7)色彩
金箔上に鮮やかな絵具の濃淡を活かしてカラフルに表現。
(8)技法
輪郭線を描かず、形と色を一度に描いていく没骨法(もっこつほう)。入念な写生と下絵を描いて、写実的に描写。檀紙の上に金箔を貼り着彩するため、下地の金が透けて陽光を照り返すかのように草花がきらめく。
(9)落款
「訥言」の署名に、「癡翁(ちおう)」の朱文円印と「訥言陳人(ちんじん)」の白文方印が両隻にある。
(10)鑑賞のポイント
天上の楽園といえるほどに数多くの草花を全面に配した珍しい屏風。草花が連続して花々の四季を表現し、無背景の画面に心地よいリズムを生み出し、そよそよと微風がそよいでいる。各草花はなよやかな独特の線質で形づくられ、自然で柔らかな質感が伝わるほどに写実的である。琳派であれば一個の草花が自立しているが、この作品は斜めに倒れ掛かっている。俵屋派の観念的な装飾画である《四季草花図屏風》からインスピレーションを得て、客観的な写実画を制作するため、各草花の持つ装飾性に着目している。当時、尾張は特に本草学が発達したためか、植物を見る目が高いことも作品に影響しているだろう。檀紙は金箔を貼るだけでも手間がかかるが、光の扱いなど訥言が特殊効果を狙い挑戦した作品と思われる。右隻中央のひときわ目立つ赤い花が立葵(たちあおい)。その葉のグラデーションから下地の檀紙が薄く透けて光が揺らめいているように見える。生け花が生き生きとして匂うようだ。近世名古屋が育んだ美意識のひとつの到達点。清新な気品に満ちた訥言畢生の名品。重要文化財。