アート・アーカイブ探求

加藤 泉《無題》──今ここにいる遠い私「島 敦彦」

影山幸一

2013年01月15日号

作品の前の孤独

 島氏は、2013年11月に国立国際美術館で開催し、東京国立近代美術館、青森県立美術館へ巡回する予定の「反芸術」世代のひとり、工藤哲巳の回顧展を準備中で忙しそうであった。
 島氏は加藤の作品を2001年の藍画廊や2002年の「VOCA展」、2003年の「ゾーン──不穏な時代の透視者たち展」をはじめ、約10年にわたり見てきている。「最初の頃は形があまり明快でなく、原初的で未分化な生物やサナギのような形体が輪郭をはっきりさせないままに描かれており、まだベールに包まれこれからどうなるのかなと見守っておきたい感じだった」と初期の作品について述べた。
 島氏が一番印象に残ったのは、2007年に開催された東京都現代美術館の「MOTアニュアル 等身大の約束」展だと言う。「この3枚組の《無題》(2006)のときがひとつのピークというか、脱皮というのか、何かふっきれたような印象をこのとき持ちました」。島氏は展評というかたちで加藤の作品を取り上げて、“その場をやり過ごすことを容易に許さず、作品の前の孤独に直面させられる”と新聞で紹介した。国立国際美術館は平成20(2008)年度に《無題》を購入。「絵画の庭展」を予定していたため、加藤作品を収集しておきたいとの思いもあったそうだ。実際「絵画の庭」展では最初の展示室に《無題》ほか加藤作品が展示された。

学芸員の領域

 1956年富山県に生まれた島氏は、子どもの頃から絵が好きだったそうだ。しかし中学、高校では英語と数学に関心が向き美術部には入らなかった。漠然と建築家を目指していたが、早稲田大学の金属工学科へ行くことになり、石膏デッサンなどする絵のサークルに入って具象の油彩画を描いていた。そのときサークルの先輩から初めて学芸員という仕事を聞いて、学芸員資格を取得した。タイミングよく、富山県に近代美術館が開設されるというので1980年卒業後、準備室だった富山県立近代美術館へ就職。そして1992年国立国際美術館の学芸員となり現在に至っている。島氏は、「美術史の論文をきちんと書いていないため学芸員としてはあまり誇れない」と言うが、作家の個展を丁寧に見続け時代が忘れている価値観を発掘し提示してきた。社会の価値観が大きく変貌していくなかで30年以上美術館の現場から現代美術を支えている。学芸員の領域を柔軟に広げてきた先進の仕事であろう。

一見役に立ってないもの

 加藤泉は、1969年島根県に生まれた。武蔵野美術大学の造形学部油絵学科を卒業後、さまざまな職業を経験し、30歳ぐらいから“一人でできて、自分で責任を取れること”として画家になっていった。「絵と私の関係が対等であり、かつ、私にとって新鮮であるよう、持っているもの全てを使って最善を尽くす」(図録『ゾーン』)と、加藤は宣言している。
 伊藤若冲、フィンセント・ファン・ゴッホ、フランシス・ベーコンが好きという加藤は、絵を描く理由について「僕は、人が生きる意味に興味があるし、そこにアートは根ざしていると思っているので、制作を続けることは無意味なことではないと改めて思っています。人が芸術を必要とするときは必ずある。一見役に立ってないようなものが、役に立っているとわかるときがある」(加藤泉『加藤泉作品集』)と言う。
 「加藤にとって、描く主題も、描き方も、たぶん生き方も、何につけいろいろ「やっているうちに」徐々に血となり肉となってきたのだろう。しかも、感覚的な思いつきに頼ることなく、高邁な絵画理論に縛られることなく、まるで画面上で絵という生き物をじっくりと育ててきたように見える」(島敦彦『産経新聞』2007.4.28)と、作品を育てながら加藤自身も成長してきた印象があると、島氏は述べた。

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