アート・アーカイブ探求
呉春《白梅図屏風》変容にみる暗香の余情──「冷泉為人」
影山幸一
2013年05月15日号
テニスから美術史へ
新緑の京都、冷泉家住宅は床が高く気持ちのよい風が通っていた。上冷泉家第25代当主である冷泉氏は、1944年兵庫県に生まれ、1973年関西学院大学大学院を修了し、大手前女子大学教授、池坊短期大学学長を経て現在に至っている。
子どもの頃はがき大将で遊び回っていたと言う冷泉氏。父親がテニス好きで、家の前の田んぼを潰してテニスコートを二面つくり、冷泉氏も兵庫県ではベスト10に入るほどテニスにのめり込んでいた。自宅から通えるテニスに強い大学ということで関西学院を選び、浪人して文学部美学科に入ったがテニスばかりしていたという。
ある日、冷泉氏は雨が降ってテニスができないこともあり、授業の一環として大阪市立美術館の展覧会へ行った。そのとき尾形光琳の《燕子花図屏風》を見てものすごく感激したと言う。「これはなんやねん」。ひょっとしたら美術史というのは面白いと思った。屏風は『伊勢物語』の八橋の段を描いた場面ということがわかってきて、何も知らない自分に気が付いた。「いままで何をしていたのか」と開眼、やはりこれは本を読まないといけない。そのときに唐木順三の『無用者の系譜』や小林秀雄の『古典と伝統について』、加藤周一の『芸術論集』を読んで感心し、いまでも学生に薦めているという。
呉春没後200年にあたっていた2011年。「呉春の絵は強さやピリッとしたところがなく、東京の人には生ぬるいかもしれない。関西の感覚の絵だと思うが、東京の人は見向きもしなかったというので腹立たしくなってきて、近世絵画をやっているものが、四条派の祖を広めなくてどうすんのや」と、止むに止まれぬ思いで、冷泉氏は呉春についての記事を二回にわたり美術雑誌に書いたという。
呉服(くれは)の里
呉春の本姓は松村である。名は豊昌(とよあき)、字は裕甫(ゆうほ)、通称文蔵(ぶんぞう)、号は月溪(げっけい)ほか多数ある。1752(宝暦2)年、京都金座
池田は、古く中国の呉国から渡来した織女工が機織、裁縫の技術を伝えた地とされ、日本書紀にある“呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)伝承”を受け継ぐ呉服(くれは)神社があり、江戸時代は、酒造業で栄え、檀那衆の間では蹴鞠や謡曲、俳諧など、風流な遊びが行なわれていた文化的な町、呉服の里と呼ばれていたそうだ。《白梅図屏風》は現在ここ大阪府池田市にある逸翁美術館が所蔵している。2014年1月11日(土)から3月9日(日)まで開催される展覧会『白梅図屏風と花鳥図(仮)』展に展示される予定である。
呉春は1782(天明2)年の春を呉服の里で迎えたので、姓を呉、名を春、字を伯望(はくぼう)と改め、剃髪した。翌年、師蕪村は《白梅図屏風》を想起させる「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」と辞世の句を詠み、亡くなった。
四条派の誕生
1787(天明7)年、呉春は円山応挙(1733-1795)のもとで兵庫県香住(かすみ)の大乗寺障壁画を制作。同年、絵師として妙法院宮真仁法親王(みょうほういんのみやまさひとほっしんのう)に召される。そして8年間の池田時代を終え、1789(寛政元)年故郷の京都四条へ帰った。この頃蕪村門下といわれるうめと再婚する。
「元来、裕福な家に育ち多芸な才人であった呉春は、早くからさまざまな遊芸に手を染めていた。やっと生活できるほどの貧乏となるが、先妻も後妻も分け知りの女性だった。そういう人と一緒になるということは何なのか。まさに器量があった男ということだと思う。また上田秋成(1734-1809)、村瀬栲亭(こうてい, 1744-1819)、菅茶山(かんちゃざん, 1748-1827)を代表とする同時代の詩人や学者、僧侶らと深く交わり、中国の明画風の文人画、蕪村風の俳画、応挙風の写生画を中心に、山水画、人物画、花鳥画、吉祥画、勧戒画など、あらゆる絵画を見事に描破していった。蕪村は呉春のことを器用なる男(おのこ)と言っていた。その意味では呉春芸術は有閑な檀那衆の遊芸から始まったと言ってよい」と冷泉氏は語った。
中国文人に憧憬を抱いていた呉春は、日本風の文人画を描いた蕪村の絵画と、応挙の写生画を合わせ、呉春独自の写生画を確立させていった。そして軽妙で情趣に富んだ写生画は、京都の市民層に歓迎され、四条派が誕生していく。