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片山楊谷《竹虎図屏風》獣毛の生気──「山下真由美」

影山幸一

2013年09月15日号

先進の因幡画壇

 「最も驚いたのは20代前半の見知らぬ若者に絵を描かせる人がいたということ。絵筆だけを頼りに村々を渡り歩く楊谷の勇気も凄いが、それを受け入れる地盤が京や江戸だけでなく各地方にあった。楊谷の力を発揮させる場を提供した地方の人の気概。楊谷が“瓊浦”と絵にサインしているように、当時は長崎に対する憧れが地方にもあり、新しい文化を吸収するだけの余裕があったのだろう」と《竹虎図屏風》を鑑賞した山下氏が語る。楊谷の門人一覧が載っている『画伝誓文』には、備前(岡山)、大坂、甲斐(山梨)、江戸、甲斐、但馬(兵庫)へ旅した流れが見える。おそらく鳥取の片山家に入るまでは、何らかの伝手、例えば楊谷の父親が医者だったところから医家つながり、あるいは黄檗宗の関係、またいまの私たちでは窺い知ることができないルートを通じて移動していたのかもしれない、と山下氏は言う。
 神戸の南蛮美術コレクターとして著名な池長孟(いけながはじめ, 1891-1955)と、大坂泉大津のコレクター細見古香庵(ここうあん, 1901-1979)は、江戸時代に活躍した鳥取にゆかりの絵師・土方稲嶺(ひじかたとうれい, 1741-1807)や楊谷たちを早くから評価していた。南蛮美術に詳しい早稲田大学文学学術院准教授の成澤勝嗣氏は「池長は戦前という早い時期からすでに、江戸時代における『日本製異国趣味美術』の中心地のひとつとして、因幡画壇の進取性や独自性に注目していたのであった」と述べている(成澤勝嗣「因幡画壇の黄金時代と中国趣味」図録『因幡画壇の奇才 楊谷と元旦』p.6より)。
 画壇が形成されるほどの文化的素養が因幡国(鳥取県東部)にあったことを知り、鳥取藩の情報収集能力の高さと審美眼の確かさを感じる。全国にはまだまだ眠っている文化力がありそうだ。地方の潜在的な力をいかに表出させ活用していくのかが問われている。

42歳の生涯

 片山楊谷は、清人画家の費漢源(ひかんげん, 生没年不詳)を師と位置付け、唐絵を描く画家として諸国を巡るが、1793(寛政5)年楊谷34歳、鳥取藩西館(にしやかた)の茶道家・片山宗把(そうは)の養子に入り家を継ぐまで、長崎を示す「瓊浦」と画中に書き入れ、長崎の出身であることを謳っていた。
 鳥取における楊谷は、17歳のとき黄檗宗の興禅寺に滞在し、医師の中山東川に厚くもてなされ、ついには中山の娘を妻にしたという。鳥取藩主・池田の分家にあたる西館の当主池田冠山(かんざん, 1767-1833)にその画技を認められ片山家を継ぐことになるが、これを機に「稲葉楊谷」の落款を用い、その後も異国風の作画で京都でもその名は知られた。
 1795(寛政7)年京都・西本願寺に寓していた楊谷は、妙法院宮(真仁[しんにん]法親王[1768-1805])の文墨の会に招かれ、《蓮華鯉魚(れんげりぎょ)図》を描いた。楊谷の名は光格(こうかく)天皇(在位1780-1817)の耳に届き、楊谷は従五位下に叙され拝謁をたまわり、数十幅の絵画制作の命を受け作品を天皇に捧げた。褒美として山城名産の石王寺(しゃくおうじ)硯(すずり)を与えられた楊谷は喜んで終生これを離さなかったという。また1796(寛政8)年京都東山で開催された書画会『東山新書画展観』の目録には「著彩鯉図 絹本 片山楊谷 称宗馬 因州人」の記載があり、「片山」姓を残した珍しい資料である。
 1800(寛政12)年には兵庫県の山路寺に楊谷晩年の代表作《老松図襖》《渓流猛虎図襖》《牡丹孔雀図襖》を描き残した。墨の濃淡を巧みに活かした水墨画の大作である。しかし翌年1801(享和元)年兵庫県の湯村温泉に入浴中、にわかに発病して42歳の生涯を終えてしまう。墓碑は鳥取市の黄檗宗興禅寺にある。

痛覚をツンとさせる楊谷の毛描き

 地元にゆかりのある絵師として、かつて楊谷がフォーカスされたことはなかった。2010年に山下氏らが企画した「楊谷と元旦(げんたん)─因幡画壇の奇才」展で初めて楊谷の作品が一堂に収集され、楊谷の存在が明らかになってきた。展覧会開催中に発見された《竹虎図屏風》は、鳥取市内の旧家に秘蔵されてきた作品を雲龍寺が入手し、急遽展覧会の後期に特別展示され甦ったのである。
 楊谷作品は全部で200点ほどあると山下氏は推測している。楊谷の作品は贋作が多く、山下氏がボストン美術館所蔵の楊谷作品を調査したところ、疑わしい作品が含まれていたと言う。楊谷そっくりに似せて描く上手な絵師に楊江(ようこう)と世鵞(「せが」あるいは「せいが」と推測される)の二人がおり、楊谷と同一人物なのかとも考えさせられるが不明である。
 楊谷は多様な画法を身に付けたが、どちらかというと山水より人物と鳥獣が得意だった。黄檗宗の造形表現が、日本の宗教界や文化に与えた影響は大きく、その異質さが日常を活性化したように、楊谷も痛覚をツンと刺激するような獣毛の毛描きによって人々の生気を回復させていたのではないか。野性味溢れる楊谷の気質が生命力に満ちた“楊谷の毛描き”を成立させた。「どこから描いたと思いますか」と山下氏は問いかけた。



山下真由美(やました・まゆみ)

鳥取県立博物館主任学芸員。1978年大阪府生まれ。2001年同志社大学文学部文化学科(美学・芸術学専攻)卒業、2003年京都大学大学院人間・環境学研究科文化地域環境学(現、共生文明学)専攻修了。同年鳥取県立博物館学芸員を経て、現在に至る。専門:日本近世絵画史。主な受賞:2006年美連協大賞《奨励賞》(展覧会「沖一峨─鳥取藩御用絵師」、2006)、第5回ゲスナー賞「目録・索引」部門銀賞(展覧会図録『沖一峨─鳥取藩御用絵師』、2008)。所属学会:美術史学会、国際浮世絵学会。主な展覧会企画:「沖一峨─鳥取藩絵師」(2006)、「石谷コレクション展」(2007)、「楊谷と元旦─因幡画壇の奇才」(2010)、「新 収蔵&修復 2007-2011」(2012)など。主な論文:「伝沖探容筆『因幡八景図』に関する一考察」『美学芸術学』第20号(同志社大学美学芸術学研究室, 2004)、「沖一峨における画風の多様性について─人的交流との関連性から」『美術史』第164冊(美術史学会, 2008)、「島田元旦の青年期における谷文晁の影響」『鹿島美術研究:年報第27号』(鹿島美術財団, 2010)など。

片山楊谷(かたやま・ようこく)

江戸時代の絵師。1760〜1801(宝暦10〜享和元)年。医師・洞雄山の子として長崎に生まれ、4歳で父を亡くし、1772(安永元)年、13歳の頃に故郷を離れ諸国を遊歴したとされる。通称は宗馬、名を貞雄、号を楊谷または画禅窟、ときに洞楊谷。19歳備前国で弟子をもち、甲斐国、江戸、京へ行く。異国情緒漂う長崎の出であることを謳い、奇抜でエネルギッシュな画風を新機軸に打ち立て、見知らぬ土地で画力を頼りに生き抜いた。鳥取藩池田家の分家・西館の池田冠山に絵の才能を認められ、西館に仕える茶道家の片山家を継ぐ。人物の髪や動物の毛を1本ずつ丁寧に描く“毛描き”は楊谷の特徴的な技法。髪を伸ばして紫の糸でくくるなど、特異な容姿で酒豪、他にへりくだらない傲岸の厳しい気性だったと伝わる。兵庫県の湯村温泉に入浴中42歳で没。代表作は《竹虎図屏風》《猛虎図(三幅)》《花王獣王図》《菊慈童・花鳥図》《鷲図》《蜃気楼図》《老松図襖》《渓流猛虎図襖》《牡丹孔雀図襖》《雪梅図》など。

デジタル画像のメタデータ

タイトル:竹虎図屏風。作者:影山幸一。主題:日本の絵画。内容記述:片山楊谷, 1782(天明2)年頃, 紙本著色, 六曲一双(各153.4×358.7cm), 個人蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:個人, 鳥取県立博物館, (株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:右隻=Photoshop, 10.2MB・左隻=Photoshop, 10.4MB(共に350dpi, 8bit)。資源識別子:竹虎図屏風(右隻:FUJIFILM RDPIII 05582 BGGJAH, 左隻: FUJIFILM RDPIII 05582 BGGJAJ)。情報源:個人, 鳥取県立博物館。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:個人, 鳥取県立博物館

【画像製作レポート】

 《竹虎図屏風》の写真は、鳥取県立博物館が管理。作品を所有する個人から写真使用の承諾書を得て、博物館の指定用紙「物品借受申込書」と共に博物館へ郵送。後日宅急便で4×5カラーポジフィルム(カラーガイド付)2枚が届いた。フィルムのスキャニングはプロラボへ。各350dpi・20MB・TIFF、ポジフィルム2点で3, 990円。博物館の使用代金は無料。
 iMacの21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって調整後、画像の色調整作業に入る。画面に表示したカラーガイドと作品画像に写っているカラーガイドを参照しながら、右隻を時計回りに0.9度、左隻を時計回りに1.0度回転。目視により色を調整し、縁に合わせて切り抜く。Photoshop形式:右隻=Photoshop, 10.2MB・左隻=Photoshop, 10.4MB(各350dpi, 8bit, RGB)に保存。モニター表示のカラーガイド(Kodak Color Separation Guide and Gray Scale Q-13)は事前にスキャニング(brother MyMiO MFC-620CLN, 8bit, 600dpi)。セキュリティーを考慮し、画像には電子透かし「Digimarc」を埋め込み、高解像度画像高速表示Flashデータ「ZOOFLA」によって、コピー防止と拡大表示ができるようにしている。
 六曲一双の屏風では、右隻と左隻の変形率が異なるため、2つの画像をバランスよく見せることに配慮した。原画像を四角く切り抜くことを原則にしているため、ゆがみ補正など形を変えることはせず、画像の回転だけで対応したが、右隻・左隻とも画像左下を少し切り取った程度でまとまった。作品撮影時に作品の垂直と水平を確認してから撮影することが大事だと思う。博物館資料のデジタル化がさらに進化し、作品画像がダウンロードで入手できることを期待している。
[2021年4月、Flashのサポート終了にともない高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」に変換しました]

参考文献

『鳥取県文化財調査報告書 第5集』1965.3.31, 鳥取県教育委員会
『因伯記要』(再販)1968.7.15, 鳥取県
鶴田武良「費漢源と費晴湖──來舶畫人研究 三──」『國華』1036号, p.15-p.24, 1980.7.20, 國華社
『鳥取県史(5) 近世 文化産業』1982.3.31, 鳥取県
木村重圭「山路寺(兵庫県大屋町)の障壁画──片山楊谷の襖絵──」『日本美術工芸』通巻第550号, p.64-p.71, 1984.7.1, 日本美術工芸社
成澤勝嗣『片山楊谷の伝記と画業』2005.5, 成澤勝嗣
図録『因幡画壇の奇才 楊谷と元旦』2010.5, 鳥取県立博物館
『日本海新聞』「情熱の両虎」1面, 2010.6.1, 新日本海新聞社
『日本海新聞』「片山楊谷の屏風絵発見」19面, 2010.6.1, 新日本海新聞社
Webサイト:meme「「楊谷と元旦─因幡画壇の奇才─」鳥取県立博物館」『あるYoginiの日常』2010.6.15(http://memeyogini.blog51.fc2.com/blog-entry-1105.html) meme, 2013.9.10
Webサイト:「片山楊谷の屏風」「開運 なんでも鑑定団」2010.9.26(http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20100928/03.html)TV東京, 2013.9.10
山下真由美「片山楊谷筆「竹虎図屏風」について」『鳥取県立博物館研究報告 第49号』p.127-p.132, 2012.3.23, 鳥取県立博物館
Webサイト:山下真由美「資料紹介 DATA 片山楊谷筆「竹虎図屏風」について」『鳥取県立博物館研究報告書』No.49, p.127-p.132, 2012.3.23(http://site5.tori-info.co.jp/photolib/museum/7134.pdf)鳥取県立博物館, 2013.9.10
Webサイト:「議案第3号 鳥取県文化財保護審議会への諮問について」2012.10.19(http://www.pref.tottori.lg.jp/secure/724697/241019gian3.pdf)鳥取県, 2013.9.10
『日本海新聞』「「奥田家住宅」(鳥取市) 片山楊谷「菊慈童・花鳥図」など 県保護文化財指定へ」24面, 2013.2.5, 新日本海新聞社
Webサイト:「資料4 鳥取市管内の新指定の文化財等について」2013.2(http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1367368024465/files/2402004.pdf)鳥取市, 2013.9.10
安村敏信『日本文化 私の最新講義01 江戸絵画の非常識──近世絵画の定説をくつがえす』2013.3.23, 敬文舎


主な日本の画家年表
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2013年9月

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