アート・アーカイブ探求

斎藤義重《作品7》──二重構造性が示す実存「千葉成夫」

影山幸一

2014年03月15日号

現代美術を批評する

 「ヤン・フートが亡くなりましたね。77歳」と、千葉氏はS.M.A.K.(Stedelijk Museum voor Actuele Kunst, 旧ゲント現代美術館)創設者であり、ベルギー気鋭の現代美術キュレーターとしても名高いヤン・フートが、2014年2月27日逝ったことを少し寂しそうに話した。千葉氏はベルギーで開催された「ユーロパリア'89日本フェスティバル」で斎藤義重展のコミッショナーを務めたこともあった。
 千葉氏は、新聞記者をしていた父親の実家がある岩手県で1946年に生まれ、東京で育った。千葉氏は子どもの頃より絵が好きで、高校生のときは美術部に入り絵を描いていたと言う。早稲田大学ではギリシア美術の専門家である澤柳大五郎先生(1911-1995)、そしてオリエントやヨーロッパの中世美術史を研究していた柳宗玄先生(むねもと, 1917-)に学び、パリ大学付属美術考古学研究所へ2年間留学し、「ヴォルスの作品」でパリ第I大学博士号を取得した。
 「実は留学以前、最初はマルセル・デュシャン(1887-1968)に一番関心があり、留学のテーマもデュシャン周辺を調べようと思い『両大戦間のフランス美術の前衛動向』というのが最初のテーマだった。美術考古学研究所で、昔から関心のあったアンフォルメルのドイツ人画家ヴォルス(1813-1951)の本を読んでいたら、年配の女性がヴォルスに興味があるのかと声を掛けてきた。彼女はヴォルスを研究したことがあってヴォルスの未亡人を知っているという。その出会いがきっかけで、研究テーマをヴォルスへ変更、博士論文を書き上げた。卒業論文は『幻想芸術史論』、修士論文は『パウル・クレー論』、デュシャンは帰国後に調べた」と千葉氏。フランス人の美術に対する歴史認識、美術という言葉で考えているものが日本とは違うと思ったという。そして、評価の固まった作品を扱う美術史ではなく、評価の固まらない現代美術を対象に、美術批評で生きようと決心した。

絵画におけるイリュージョニズムの否定

 斎藤義重は、第二次大戦前後を通して、前衛であり続けた現代美術のパイオニアと言われる。1904(明治37)年、青森県弘前市に父斎藤長義の次男として誕生。国際的に知名度の高い「具体美術協会」のリーダー吉原治良(1905-1972)の1歳年上である。陸軍軍人であった父の書斎でヨーロッパの建築や絵画などの絵葉書を見ており、幼少期から美術に興味を示していた。国粋論を唱えた思想家でもある杉浦重剛(しげたけ, 1855-1924)が創立した日本中学校に学んだ。しかし、早熟だった斎藤は外国に目を向け、セザンヌやゴッホを手がかりに、油彩による風景画や人物画を制作していた。
 1920年秋にダヴィド・ブルリューク(David Burliuk, 1882-1967)らロシア未来派の「日本に於ける最初のロシア画展覧会」をひとりで見に行った中学生の斎藤は、彼らが作画する光景を偶然目撃した。絵というものは必ず対象を見て描くものだと思っていた斎藤は衝撃を受けて、後の斎藤の絵画制作の基軸となる思想“絵画におけるイリュージョニズムの否定”を築く契機となった。20歳を過ぎた頃この展覧会の印象が逆に屈折して作用をおよぼしたのか絵を描くことの壁にぶつかり「絵画とは何と非力なものであろうか」と美術に絶望感を感じるようになった。また1923年ドイツから帰国して「意識的構成主義」の主張を掲げていた村山知義(1901-1977)のダダ的傾向の作品に接したことも重なり、文学へ向かって行った。1929年斎藤は、ヨーロッパの前衛美術に関する画集や雑誌を目にし、初めてロシア構成主義やダダイズムに触れた。絵画に対する懐疑心から文学を志向した斎藤にとっては意識改革に近いものであり、1933年小説を書いていたが再び美術の世界へ戻ってきた。
 1931年27歳になった斎藤は、第18回二科展にレリーフ状の作品《トロウッド》を出品しようとしたが、絵画部門にも彫刻部門にも受け入れられず持ち帰ることになった。1939年第1回九室会(きゅうしつかい)展に出品、美術文化協会の結成に参加。しかし53年に退会。以後どの団体にも所属しなかった。いろんな理由があったようだが兵役には行かなかった。

絵画を疑う

 1957年第4回日本国際美術展に《鬼》を出品し、K氏賞。1958年瀧口修造の紹介により東京画廊で初個展、作品13点が完売した。1960年第30回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品するため初渡欧し、キャンバスに切り込みを入れた空間主義のルーチョ・フォンターナ(1899-1968)のアトリエを訪問。パリでは古い石壁に彫られた落書きを見つけ、その美しさを語っていた。1961年第6回サンパウロ・ビエンナーレ展に《作品7》を含む13点を出品し、国際絵画賞を受賞した。1964年多摩美術大学教授に就任し、斎藤教室から「具体」と並ぶ、戦後の前衛美術運動である「もの派」につながる作家や、それに対し問題提起をしたポストもの派の「美術家共闘会議」の中核メンバーなど、ユニークな作家を輩出した。1973年大学紛争の渦中では理事会と対立し、多摩美術大学を退職。1978年には東京国立近代美術館で千葉氏が担当した斎藤義重展が開催された。1982年、斎藤独自の教育理念を具現化させた東京芸術専門学校(TSA:Tokyo School of Art)を開校し、講師に着任。1985年TSA校長に就任、「多年の実験的制作活動による現代美術への貢献」として昭和59年度朝日賞受賞。1989年「ユーロパリア'89日本・斎藤義重展」(ベルギー・ブリュッセル)開催。1993年横浜美術館徳島県立近代美術館において「斎藤義重による斎藤義重展──時空の木」開催。1999年神奈川県立近代美術館で斎藤義重展。2001年没、享年97歳。
 画家・斎藤について「絵を描いていることと、時代の変化という間に齟齬を感じていたと思う。絵画とは何だろう、美術とは何だろう、と問いかけること自体が画家としての成長をうながして行く。そういう作家だった。別の言い方をすると絵画を疑う。画家として絵画以外に“芸術の形式”はありうるだろうか、そういう問いかけから始まった画家というのが重要だ」と千葉氏は言う。

【作品7の見方】

(1)タイトル

作品7(さくひんなな)。

(2)サイズ

縦91.0×横130.0×奥行5.4cm。規格品の合板を断裁して使用したと思われる。

(3)画材

合板、油彩、電気ドリル。斎藤が電気ドリルを選んだのは、自らの意思のほかに、意図と反する要素を作品に取り入れることで、自己と作品との距離を図ろうとしたのだろう。

(4)色

赤、青、黄、青、茶、紫、グレー、白。一見は全面赤に見えるが多色である。赤色は斎藤自身の感覚から出てきた光沢のないマットな赤。もともと赤、青、白、黒の原色を斎藤は基本色に用いているが、《作品7》では細部に茶や紫、グレーといった中間色が使われている。

(5)技法

合板にチョークで大雑把な当たりを付けて、リズム感を大切に電気ドリルで直感的に合板を削る。その後凹凸のある画面にローラーやナイフで壁塗りをするように絵具を摺り込み、溝や穴はささくれやエッジを処理し、絵具を塗る。平面(絵画)でもなく、立体(彫刻)でもない、厚みのある二重構造性を持たせている。

(6)サイン

作品の裏面左上に縦書きで「斎藤義重」と、横書きの二行で「Y.Saito 1960」と署名。

(7)制作年

1960年。斎藤56歳。

(8)鑑賞のポイント

ドリル絵画について斎藤の言葉「私にとって選ばれたドリルと木の板はモチーフであり、板の上の広がりはテーマである」(中原佑介『斎藤義重』より)。画面は木だが絵肌には石の硬質さと重量感がある。いびつな楕円形の板の周囲がのこぎり歯のように複雑な形をし、表面には弓矢を象ったような線が大きく自由に彫られ、中央の上部からまっすぐに鋭利な細い線が下へ向かっている。虫食いのような穴、絵具の染みや点が独特の美意識で無造作にちりばめられている。赤い色彩で描かれた朽ちた作風だが、細部の処理が工芸的に行き届いている。マットな平面を熟覧するほどに想念が湧いてきて知的でクールな印象を残す。絵画としての幻影を求めず、現実の凹凸をつくり、実体としての絵画を示し実存を表わしている。1961年の第6回サンパウロ・ビエンナーレで国際絵画賞を受賞した連作13点のなかの1点。斎藤中期にあたる“ドリルの時代(1960-64)”の代表作。

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