アート・アーカイブ探求

鳥居清長《美南見十二候 六月 品川の夏》五感を刺激する直線美──「藤澤 紫」

影山幸一

2014年05月15日号

絵にしか描けない美しさ

 鳥居清長の作品を高校生のときから目にしていたという藤澤氏。当時はすごく異質な感じがしたそうだ。「なんでこんな風に描くのだろう」と、そのときは絵の世界にリアリティーを求めていて疑問に思ったという。いまでは鈴木春信喜多川歌麿の間をつなぐ重要な絵師として、また春信とは好対照だが好きな絵師として美人画と名所絵の両面から研究を進めている。清長の作品は健康的で、陽の光が似合う女性たちが多い。喜怒哀楽で“喜と楽”を全面に押し出したのが清長という。
 藤澤氏は、1967年東京都渋谷区に生まれ、幼稚園から大学院まで学習院に通っていた。学習院初等科の部活動を切っ掛けに油絵を始め、高校時代にジャポニスムの展覧会を見に行き、そこで浮世絵が並んでいるのを見た。海外の好きな画家たちが日本の美術に憧れていたことを知ったとき、少女漫画のような鈴木春信の作品が好きになったという。また同時に、歌舞伎や相撲、歌や演劇も好きになったが、できれば画家の世界に入りたいと考えていたそうだ。大学生になってからは演劇とバンドのボーカルなど、表現者になる夢ももっていたが、恩師の小林忠氏のもと美術史の魅力にはまり、博士論文『鈴木春信絵本研究』を執筆するころには、すでに大学で教鞭を執っていたという。
 藤澤氏の研究は美人画から始まり、浮世絵以外にも琳派や円山四条派など広く近世絵画史を扱っている。現在は“遊び”をキーワードとした江戸庶民文化の研究や、美人画の流れをくむものとして幽霊画をはじめとする異界研究にも関わっている。「美術史は文化史のひとつで、歴史学の一分野でもある。絵画は美術作品として“見る”だけでなく、暮らしを知る史料として“読む”こともでき、そこから人々の暮らしや、喜怒哀楽の感情をも知ることができる。とりわけ浮世絵に引かれた要因は、そこにあるのかもしれない。私も油絵などを描くことが好きなので、絵師の線描やタッチを目でなぞり、描くように観賞することがある。絵師のもつ技術と想像力が交差し、どのように“絵にしか描けない美しさ”をつくり出すのかを探る、それも絵画研究の面白いところ。例えば幽霊画。私はこれを“究極の美人画”と呼ぶが、幽霊を巧みに描く絵師はたいてい写生などのスキルが高いように思う。現実世界をしっかりと見つめているからこそ、見えない幽霊をも怖く美しく描けるのでしょう」と藤澤氏は述べた。

鳥居派の継承

 鳥居派は、上方で歌舞伎の女形を勤めていた鳥居清元(1645-1702)が、絵看板を描いたことに始まった。鳥居家初代として江戸歌舞伎の得意とする荒事と結び付き、独自の鳥居様式をつくり上げたのは、清元の子の清信(1664-1729)であった。そして清信を継いだ清倍(きよます、生没年未詳)が二代目となり「ひょうたん足・みみず描き」といった絵看板の様式や、役者絵にみる豪放闊達な表現を鳥居派の特徴としていった。鳥居家三代目にあたる初代清満(1735-1785)に弟子入りした清長は、細判の役者絵や黄表紙(通俗的な絵入りの読物)の挿絵から始め、徐々に江戸の庶民風俗を主題とする作画を増やしていった。
 鳥居清長は、1752(宝暦2)年に江戸の書肆(しょし, 本屋)、白子屋市兵衛の子として生まれ、姓は関あるいは関口で、俗称新助のち市兵衛と伝わる。鈴木春信(1725?-1770)、北尾重政(1739-1820)、礒田湖龍斎(1735-1790)の次世代の美人画を担った。大判の画面を用いて、自然景を背景に長身で健やかな美人群像を描き、清長風美人画を完成させ、天明の浮世絵界を風靡した。《美南見十二候》《当世遊里美人合(とうせいゆうりびじんあわせ)》《風俗東之錦(ふうぞくあずまのにしき)》は、清長の三大揃物として高く評価されている。一方で、役者似顔絵で台頭してきた勝川春章(1726-1792)や一筆斎文調(生没年不詳)に対抗するために、芝居をする役者の背景に太夫や三味線弾きを登場させた《四代目岩井半四郎の小春と三代目沢村宗十郎の次兵衛》などの出語り図も描き、役者絵の流れにも新たな足跡を残し、鳥居派の再興を遂げた。また数は少ないものの肉筆画や春画《袖の巻》といった逸品もある。
 1785(天明5)年、血族を継承する鳥居派であったが、清長は鳥居家の養子として四代目を継ぐことになった。しかし、師である清満の長女の聟(むこ)である松屋亀次に、1787(天明7)年、庄之助が誕生したため、清長はこの子が成長するまで鳥居家を預かった。のちに清峰(きよみね, 1787-1868)となる庄之助は、1815(文化12)年5月21日清長が64歳で没した後、二代目清満として鳥居家五代目を継いだ。
 鳥居派継承の一連の出来事は清長の家に不幸をもたらしたようだった。1795(寛政7)年、清長の息子の清政(1776-1817)は19歳の浮世絵師に育っていたが、清長に筆を折らされたというのだ。庄之助が9歳になって清長に画技を学び始めた頃である。鳥居家五代目継承で争いごとを含めた予測のつかない事柄に備えて、清長はこのような処断に出たのだと、清長の人間性を垣間見る美談としていまに伝えられており、鳥居派は現在も続いている。
 清長の二百回忌が今年2014年6月20日に清長の眠る東京・両国の無縁寺回向院で営まれ、翌21日には一日だけの展覧会が同院で開催される。地震や戦災など度重なる災禍にあって、いままで清長の墓碑は消失していたが、回向院では、六大浮世絵師に挙げられる清長の偉業を永く顕彰していこうと、2013年4月慰霊碑「清長碑」を建立した。

【美南見十二候 六月 品川の夏の見方】

(1)タイトル

美南見十二候 六月 品川の夏(みなみじゅうにこう ろくがつ しながわのなつ)。“茶屋の酒宴”や“座敷の遊宴”と付くものもある。「美南見」とは、南の遊里、すなわち江戸城の南方、東海道の最初の宿場町である品川宿を指す。四季を意識した名所絵や風俗画の伝統に則り、月次(つきなみ)風俗画的に制作された2枚一組の12カ月シリーズのうちの6月。英名:The Twelve Months in the Southern Quarter:The Sixth Month-Enjoying the Cool in a Teahouse。

(2)サイズ

大判(約39×26.5㎝)竪二枚続(つづき)。錦絵は、中判(約26×19㎝)や細判(約33×15㎝)が主であったが、礒田湖龍斎などの先例を踏まえ、清長以後は大判が錦絵の標準サイズとなったと言われる。清長の大判錦絵は二枚続、三枚続と発展し、当時ワイド画面は画期的なものだった。

(3)モチーフ

ファッショナブルな男女6名。遊女、芸者、茶屋の女中ら女性と、海の方を指すひとりの若い男性。人物のモデルはいたかもしれないが、特定の人ではないと思われる。手は小さいが八等身の堂々たる体躯が特徴。

(4)構図

大判を2枚つなげたパノラマ的横長構図。一枚ずつ離しても、また左右をつなげても鑑賞できるようにフレキシブルなつくりになっている。一点を凝視する集中的構図ではなく、視点は画面を越えて外へ広がっていく。画面下から3分の2に引かれた水平線を基軸に、人物の形の組み合わせが考慮されており、視線や身体の動き、提灯や小物の配置、実在感のある背景などが相まって、画中の視点は巧みに誘導されていく。この絵の構図を模したアメリカ人画家ジェームス・マクニール・ホイッスラー(1834-1903)の作品《Variations in Flesh Colour and Green-The Balcony》(The Arthur M. Sackler Gallery and the Freer Gallery of Art〔The Smithsonian Institution〕)が知られている。

(5)画材

和紙、墨、絵具(植物性を中心とした水溶性染料)。

(6)色

白、黄、緑、紫、赤、黒など。青は退色した。

(7)技法

錦絵(多色摺り木版画)。写実が基本。男が着る透けた絽の黒い紋付の長羽織や、右画面3人の異国情緒漂う更紗風の帯模様に、線描表現の多彩さと技量を見る。

(8)署名

左画面下中央と、右画面右中ほどに墨版で「清長画」。

(9)制作年

1784(天明4)年頃。清長33歳。《当世遊里美人合》(天明2〜4年頃)、《風俗東之錦》(天明3〜4年頃)と合わせ、清長の三大揃物は同時期に描かれている。

(10)版元

不明。「西村屋」や「高津屋」の可能性が指摘されている。

(11)鑑賞のポイント

品川の海を臨む茶屋の一室である。左側には前掛けを着けて立つ茶屋の女と若い男、暑そうに座って腕まくりした女中、右側の真っすぐ立っている女性は前帯ではなく、かつ紋付の振袖なので若い芸者であろう。そして後ろ向きのしどけない遊女と座って杯を持つ遊女が配され、夕暮れ時の宴席の模様がソフトな遠近感をもって表わされている。「天明期の大らかな空気を反映した図」としばしば称される。1720(享保5)年、洋書の輸入制限の緩和による影響を感じさせる眼鏡絵や銅版画に似た丁寧な背景描写と人物の豊かな表情が現実感を増している。八頭身の人物のほか、提灯の円形、すだれや欄干の四角、帆かけ舟の三角といった基本図形を知的に配置し、直線美を基本に合理的な視覚を提供し、破たんなく全体を調和させている。写実と虚構の両面を有する絵からは、会話が聞こえてくる。清長絶頂期の代表作。

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