アート・アーカイブ探求
岡本神草《口紅》──乱調にある官能美「田中圭子」
影山幸一
2014年09月15日号
衝撃
2013年より京都造形芸術大学で日本美術史と博物館学を教えている田中氏は、小学校の卒業アルバムに“学芸員になりたい”と書くほど子どもの頃から美術館の学芸員に憧れていたと言う。両親が働いていたため祖父母に預けられることの多かった田中氏は、小学校の教師だった祖父母によく美術館や博物館へ連れて行ってもらった。そして将来は美術館で働きたいと思ったそうだ。2009年から東京藝術大学大学美術館の学芸研究員として勤務していたが任期がきたため転職し、現在に至っている。
もともとは19世紀の西洋絵画、特にイギリスの絵に興味があった。なかでも《オフィーリア》を描いたサー・ジョン・エヴァレット・ミレー(1829-1896)などのラファエル前派や挿絵画家オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(1872-1898)などの象徴主義に関心があったと言う。19世紀後半西洋に始まった象徴主義は、同時代に起こった印象主義が事物から受けた直接的な視覚の印象を表わすのに対し、内的な思考や夢の世界を象徴作用と装飾形式によって詩的、宗教的、観念的に表現した。
さまざまな展覧会を見ていた田中氏は、1997年山種美術館の「特別展 美人画の誕生」で岡本神草の《口紅》と出会った。そして明治学院大学3年生の専攻選択時には日本美術を専攻することに決めた。ビアズリーが描いた《おまえの口に口づけしたよ、ヨカナーン》など邪悪で魅惑的な女性像を思い出したと言う。「これ何?日本画でこういう特殊な美人画があるの」。西洋と同じような表現を試みている日本画家がいたことに衝撃を受けた。さらにその翌年、東京・小田急美術館で開催された「国画創作協会の画家たち展」で再び岡本神草の作品に遭遇、神草の虜になったそうだ。神草の作品は少ないだけでなく、作品所蔵館が京都に多いため東京で神草作品を鑑賞できる機会は滅多にない。田中氏と神草の出会いは運命的だった。それからは神草をテーマに卒論から博士論文と書き上げ、現在まで16年間神草を研究している。
第一回国展デビュー
岡本神草は1894(明治27)年神戸に生まれた。早くに父を失い、母ソノは菓子の卸売、小売業を営み、2人の妹がいた。京都市立美術工芸学校(美工)絵画科で学んだのち、京都市立絵画専門学校(絵専。現京都市立芸術大学)に進学した。気に入った対象をとことん追求していくタイプで遅筆だが、切れ者で鋭くサーベルのあだ名が付いた。神草は学生時代からすでに文部省美術展覧会(文展)に出品してもよいと言われるほど評価が高く、1918(大正7)年校友会展に卒業制作として出品した《口紅》は、舞妓の顔がまだ描かれていないにもかかわらず新聞に掲載された。
民主化が進む大正時代、神草は完成した《口紅》を文展には出品せず、1918年11月、日本画革新の熱気に包まれた第一回国画創作協会展(国展)に出品、入選したことにより鮮烈なデビューを果たした。そして精神性や内面性を重んじる村上華岳(かがく, 1888-1939)が推薦する甲斐庄楠音(かいのしょう・ただおと, 1894-1978)の《横櫛》と、色彩や造形的な美しさを評価する土田麦遷(ばくせん, 1887-1936)が推す《口紅》が、樗牛(ちょぎゅう)賞を競い合った。両者譲らず最終的には監査顧問である竹内栖鳳(1864-1942)の采配で、金田和郎(かなだ・わろう, 1895-1941)の《水蜜桃》が受賞し、最高賞である国画賞には入江波光(はこう, 1887-1948)の《降魔(ごうま)》が選ばれた。
その後神草は、1920(大正9)年第3回国展に画面を切断した《拳を打てる三人の舞妓の習作》(京都国立近代美術館蔵)を出品、選にもれるも展示されたいわくつきの作品となった。この頃菊池契月(1879-1955)に師事し、文部省管轄下の帝国美術院展覧会(帝展)に移る。1921(大正10)年、第3回帝展に習作切断前と同じ構図の《拳を打てる三人の舞妓》が入選。1987年習作の切り取られた外側の部分が発見され、習作は元の構図に復元された。また2008年には同じ構図の《拳を打てる三人の舞妓の未完成》(1919)が発見されている。
1922(大正11)年には表具屋の福村祥雲堂の主宰する九名会展に、堂本印象(1891-1975)や福田平八郎(1892-1974)らとともに参加し、1928(昭和3)年第9回帝展に《美女遊戯》が入選、1932(昭和7)年第13回帝展に《婦女遊戯》が入選したのを最後に、翌年脳溢血により死去。38歳だった。夫人の実家である若松家の京都・真如堂の墓地に、神草没後半年で亡くなった妻緑とともに葬られた。戒名はない。
【口紅の見方】
(1)タイトル
口紅(くちべに)、英名:Rouge。女性性を強調する題名。
(2)サイズ
縦135.9×横137.4cm。ほぼ正方形。卒業制作作品であるため、学校の規定内で大きさが選択されたのであろう。
(3)モチーフ
舞妓。髪型と髪飾りの飾り方が、通常とは異なる様相から、京都の花街で節分に行なわれる「おばけ」という風習の髪型と考えられる。邪気を払う鬼払いのために、いまでも花街では節分の日には伝統的な約束事にとらわれない変装をする風習があり、自由な髪型で自由に髪を飾っている。規律から解き放たれた一年に一夜限りの幻想的な舞妓の姿。
(4)構図
正方形の画面左上から右下斜め下半分のみに絵が描かれている。歌川国貞の《思事鏡写絵(吸い付け煙草)》に影響を受けたと推測されている。
(5)画材
絹本着色。二曲一隻の屏風。
(6)色
赤・黒・白の色彩の対比に金の輝きが特徴。濃い赤色と黒色は官能美を表わす。特に袖口の赤は特徴的で裏彩色(うらざいしき)により、深みのある色調を生み出している可能性がある。
(7)技法
円山応挙を祖とする円山四条派の写生の伝統に連なる描写法である。祇園井特(ぎおん・せいとく, 生没年不詳)に代表される、女性を理想化して描くのではなく、モデルの容貌や性格をとらえる上方美人絵の伝統を受け継いでいる。
(8)落款
画面右上に「神草」の署名と、朱文角印「神草」の印章。
(9)制作年
1918(大正7)年、神草24歳。
(10)鑑賞のポイント
蝋燭の灯りで口紅を直す妖気漂う舞妓の姿が描かれている。鮮やかな色彩と、大胆にデフォルメされた舞妓の姿は、それまでの美人画の概念を覆す。華やかなぼたん柄の着物に蔦の紋が入った帯を着けた女性を、狐か猫に思わせるような姿態に描き、なまめかしい官能美を表わした。大きな頭と対照をなす華奢な身体つき、真紅の長襦袢から突き出た白く細い腕と、源氏香