2021年07月15日号
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アート・アーカイブ探求

林 十江《鰻図》本質をとらえた“うぶな筆”──「藤 和博」

影山幸一

2014年12月15日号

継続していく価値

 JR水戸駅からバスで15分ほどの茨城県立歴史館は、日本三名園に挙げられる偕楽園に隣接する位置にあり、広い敷地の中にはこの歴史館以外にも、江戸時代の農家建築や明治時代の洋風校舎、野草園、茶室がある。黄色に輝く銀杏並木では、ウエディングドレスを着た花嫁が花婿と一緒に写真を撮っていた。歴史館は文書館と博物館機能を併せ持つ施設として1974年に開館した。茨城県の歴史に関する資料や美術工芸品などのほか、古文書やマイクロフィルムを収蔵し一般公開している。
 藤氏は、2008年より歴史館の学芸員として美術工芸を担当し、それ以前は茨城県下の県立高校で歴史の教師を18年間務めてきた。1965年水戸市に生まれ、子どもの頃から歴史好きで、小学校2年生頃には大河ドラマを見たり、歴史の本を読んだりしていたと言う。大学入試試験では日本史と世界史の両方を選択し、入学した中央大学では歴史を広くとらえようと西洋史学を専攻した。
 日本絵画との出会いは、藤氏18歳。歴史館で開催されていた「特別展 室町水墨画・近世絵画」(1983)を偶然見たことに始まる。《蜻蛉図(とんぼず)》や《松下吹笛図(しょうかすいてきず)》を見て、「水戸にこういう画家がいるのか」と、同郷の十江を認識した。そして31年後、18歳で出会った十江を、同じ歴史館で自ら企画展示することになるとは思いも寄らなかっただろう。
 水戸といえば、水戸黄門として知られる藩主徳川光圀(1628-1700)、日本画家で水戸生まれの横山大観(1868-1958)を思い浮かべるが、水戸には四画人と呼ばれる人たちがいるそうだ。林十江、萩谷遷喬(1779-1857)、立原杏所(1785-1840)と娘の立原春沙(しゅんしゃ, 1818-1858)だ。藤氏は、この四画人の中から近年展覧会を開催していなかった十江と遷喬を選んだ。まだ有名ではないが優れた画家が水戸にいることを発信し、継続して展示していく価値を感じていると言う。

翠軒との出会い

 十江は、茨城県水戸の豪商で酒造業を営み俳人でもあった高野惣兵衛之茂(ゆきしげ)の長男として、1777(安永6)年水戸に生まれた。画家でありながら町人でもあるのだ。名は長羽(ちょうう)、字(あざな)を子翼(しよく)あるいは雲夫(うんぷ)、通称は長次郎。また、十江、風狂野郎(ふうきょうやろう)、水城俠客(すいじょうきょうきゃく)、草巷販夫(そうこうはんぷ)、金眼鳥(きんがんちょう)など、さまざまな号を用いている。十江という号は、下町本七町目(現在の本町三丁目)の十江の家の近くを流れる堀割の十川(じっせん)に因んでいるといわれる。
 実父の高野惣兵衛は、俳号を梧井(ごせい)とする俳人で岡山県出身の俳人遅月(ちげつ)上人に学び、上人のパトロン的存在でもあった。十江はのちに伯父にあたる同じ町内の醤油業、林市郎兵衛枝茂の養子となる。十江の父が林家から高野家へ婿入りしているところから、十江が入れ替えの形で林家の養子となったと考えられている。
 十江の絵の才能を最初に見出したのは、水戸藩主光圀が設けた『大日本史』の編纂所であった彰考館の総裁で水戸随一の儒学者、水戸藩士の立原翠軒(すいけん, 1744-1823)であった。遊びに来ていた十江に翠軒が絵を描かせてみると、雷神が墜落したところや、狂犬が噛み合う様子をたちどころにすらすらと描き上げ、居合わせた人はみなその見事さに驚いてしまったという。翠軒は、画論『此君堂後素談(しくんどうこうそだん)』を著し、大坂の文人・木村蒹葭堂(けんかどう, 1736-1802)とも親交を結ぶ文化人でもあった。十江は、翠軒の長男で9歳年下の杏所に絵を教えることになった。町人でもある12歳頃の十江が、武家で40歳を越えた翠軒と交流していたという伝記は、年齢や身分にこだわらない翠軒の人柄や、激動する幕末期の水戸の様子を想像させる。
 十江の師については明らかではなく、独学によるものと思われるが、円山応挙や桜井雪館(1715-1790)に絵を学んだ尾張の画僧月僊(げっせん, 1741-1809)の影響を受け、書画や篆刻、和歌にいたる諸芸をたしなんでいたようだ。月僊は乞食月僊と呼ばれた。しかし晩年には財を投じて伊勢山田に寂照寺を再興したユニークな画僧である。十江に弟子はなく、また商人にも関わらず利益を求めなかった。人の意表を衝くことが多く、家産はやがて傾いてしまった。
 1812(文化9)年、立原翠軒と杏所は一家を挙げて江戸に移った。晩年となった十江は、1813(文化10)年病身のまま江戸へ上ることを決意する。しかし江戸でも思わしくなく、間もなく水戸へ戻り、その年の9月19日37歳の若さで生涯を閉じた。水戸市の浄土宗清巖寺に眠る。十江の墓石の正面には「十江林雲夫之墓表」と書かれ、墓石の三方には翠軒の撰文や、杏所の手に成る書の碑文が刻まれており、十江の貴重な伝記資料となっている(写真参照)。


清巖寺にある十江の墓

  • 林 十江《鰻図》本質をとらえた“うぶな筆”──「藤 和博」

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