アート・アーカイブ探求
伝藤原信実《北野天神縁起絵巻(承久本)》(天拝山の段)謎を呼ぶ神気──「竹居明男」
影山幸一
2015年11月15日号
稚拙美
文化の日が過ぎ、寒さを感じる日が徐々に増えてきた。四季が移り変わっていくことへのありがたさを実感している。近年夏の酷暑と集中豪雨が続き、大地震が現実的に予測され、噴火の予知が難しいという活火山が110を数える火山大国日本。地球の変動は人知の及ぶものではないかもしれない。しかし自然に対する畏怖の念が強くなるほど、自然が織りなす四季の変化は救いとなる。美術史家で、ボッティチェリの研究でも著名な矢代幸雄(1890-1975)が『日本美術の特質』のなかで、国宝《北野天神縁起絵巻(承久本)》(北野天満宮蔵)の「天拝山の段」について、「日本人の感ずる最も素直な世界観であろう」と述べ、また「最も日本的に美しき秋の景色」だと書いていることに目を開かされた。矢代は縁起絵巻の一段を、一幅の風景画として見ていたのだ。
《北野天神縁起絵巻(承久本)》のユーモラスな風貌の雷神の場面はよく知られているが、秋の風景は思い出せなかった。学問の神様として実在の人物であった菅原道真(845-903)の神霊を祀り、天神さんで親しまれる北野天満宮の由来を、絵と詞書(ことばがき)によって鑑賞できる《北野天神縁起絵巻(承久本)》は、神殿に奉安されているご神宝である。
「天拝山の段」を見ると、大らかな画風で、風景画というよりも急斜面の山の頂上のさらにその天辺に道真公が立ち、両手で杖のようなものを握り大事そうに捧げ持っている。高峰に屹然と立つ道真公と山の比率がアンバランスにも見えるが、鮮やかな緑色の山々の曲線形状にダイナミズムと繊細さ、明るさを併せ持った不思議な稚拙美を醸し出している。
承久本の「天拝山の段」について、『北野天神縁起を読む』の編著者である同志社大学文学部の竹居明男教授(以下、竹居氏)に見方を伺いたいと思った。竹居氏は、美術史学会にも所属し、天神信仰に詳しく平安時代の院政期の絵巻についての造詣が深い。京都市の北野天満宮に参拝し、今出川通でつながっている同志社大学の今出川キャンパスへ向かった。
『日本絵巻物全集』
煉瓦建築が建ち並ぶ大学キャンパス内には建物を写生している人たちがいた。洋風の建築だが、建物の名称が有終館や彰栄館など漢字を使っているところが京都らしい。
竹居氏は、本の山となっているという竹居研究室とは違う部屋でインタビューに応じてくれた。1950年京都府に生まれた竹居氏、北野天満宮は子どもの頃の遊び場でもあったという。小学生のころはあまり本を読まず、担任の先生から心配されたほど身体を動かす方が好きで、中学生のときには飛行機少年となったが、高校時代に理数系科目が苦手なことを思い知った。ある日の古典の授業で先生から角川書店の『日本絵巻物全集』シリーズの一冊「信貴山縁起」を見せてもらい、絵巻物に興味をもったことが、文学部志望に転じる決定的な契機となったと言う。大学受験に際して絵巻物にかかわる日本史、美術史、国文学のどこに焦点を当てるか随分と迷った挙句、すべてできるのが歴史と思い、同志社大学文学部の日本文化史専攻へ進んだ。
卒業論文は、後白河院(1127-1192)を中心とする院政時代(平安時代後期)の文化を勉強しているなかで、関心のあった《伴大納言絵巻》の成立事情をテーマに考えてみようと選んだ。絵巻物を文化財のひとつとして多面的に見たいという竹居氏。同志社大学で教えることになり、《北野天神縁起絵巻(承久本)》の研究を始め、天神縁起絵巻の諸本に天満宮の由諸と神徳の歴史的背景を探っているうちに、天神縁起、天神信仰の広大なる世界へ入り、同大学での研究は35年を超えた。
2002年、100年に一回という菅原道真公歿後1100年の節目を迎えたとき『天神信仰編年史料集成──平安時代・鎌倉時代前期編』を上梓し、天神信仰研究に専念していく決心を新たにしたそうだ。林達夫・久野収『思想のドラマトゥルギー』の林氏の至言「歴史家というものは、ほんとうにその名に値する者であるならば、……常に臨機応変、時代・時間を逆行したり、横すべりしたりして、自在にとび廻っている人間のことである」を理想としている。好きな画家は、デザイナーとしての側面もある独特の空間感覚をもつ俵屋宗達(生没年未詳)、西洋ではブリューゲル(1525頃-1569)とレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)という。
最も謎の多い国宝
「承久」とは鎌倉時代の年号である。絵巻の詞書の冒頭に「承久元年己卯(つちのとう)今にいたるまで」の句が含まれていることから承久本とも呼ばれる。画家は明らかではないが、北野天満宮には藤原信実(1176-1265年頃)と伝わり、父の隆信に始まった似絵(にせえ) を完成させた貴族出身の画家で、歌人である。承久本の詞書は、4筆に分かれており、そのうち3筆が後京極流(ごきょうごくりゅう)、1筆が世尊寺流(せそんじりゅう)の書風で、特定の人物を当てられないが、公家の寄合書と考えられている。
承久本は、現存する多数の「北野天神縁起絵巻」のうちの最古作であり、「根本縁起」とも言われる。しかしこの承久本から派生した同様の絵巻は確認されておらず、独立した存在となっている。平安時代の初期、醍醐天皇(885-930)の御代にいた道真公が、政敵の藤原時平(ときひら、871-909)のたくらみで右大臣を辞めさせられ九州の大宰府に左遷される。山に登り天道に流罪の無実を訴えると道真公は天満大自在天神に変わり、雷神となって清涼殿を襲い死者が出て、次いで醍醐天皇も死んでしまう。人々は道真公の祟りを恐れ、やがて神として祀り、道真公は天神様になる。その神となった菅原道真を祀るためにつくつくられた北野天満宮の縁起(成立の由来)を語るのが《北野天神縁起絵巻(承久本)》である。
承久本では、第一巻から第六巻までが道真公の生涯、死、怨霊と化してからの活動。第七巻と八巻はまったく詞書がなく、日蔵(にちぞう)上人が鬼神と六道巡りをするシーンで終わる。肝心の北野社(北野天満宮)創建以降には及んでいない。第九巻は白描(はくびょう)下絵の断簡をつないで明治時代に仕立てられたもの。承久本は、未完のまま終わり、制作年代、作者、制作の動機や注文者など、未解決の問題点が少なくない。国宝のなかで一番謎が多いのが承久本ではないかと竹居氏は述べた。
フェノロサと日本美術
竹居氏は、美術作品として《北野天神縁起絵巻(承久本)》の価値を最初に発見したのは、米国の哲学者・美術研究家のアーネスト・F・フェノロサ(1853-1908)で、「全世界の美術上の最貴重物、希世の宝物」と北野天満宮に直筆の手紙が届けられていると言う。フェノロサは、明治新政府のもとで思想家・美術行政家の岡倉天心(1863-1913)と本格的な宝物(文化財)調査を行なった際に承久本を見て感激したそうだ。
フェノロサは、1882(明治15)年8月4日付「米国人フヱノロサ御縁起評」 に「此国ノ美術上ノ重宝ノ中ニテ此巻物二比スヘキモノナシ。(略)世ノ人ガ此巻物ヲ以テ全世界中ノ美術上ノ最貴重物ノ内ニ算入スルニ至ルノ日ハ屈指シテ待ベキノミ。去レバ此巻物コソハ希世ノ宝物トシテ、又日本国ノ偉大ヲ示スベキ標記トシテ十分ノ注意ヲ尽シ保護シ置クヲ要ス可キモノトス」(竹居明男「アーネスト・F・フェノロサと承久本北野天神縁起絵巻──承久本絵巻の価値の『発見』をめぐって」『文化学年報』第63輯、p.93)と記し、また森東吾訳『東洋美術史綱』(上巻1978・下巻1981、東京美術)の「日本封建美術」の章の一文には「物語風の印象主義作品の中で、これが世界でも最大の傑作である」(同p.95)と、フェノロサの日本美術に対する熱い思いが語られている。
ただしフェノロサの評価は、現在では直ちには認めがたい見解があると竹居氏は言う。藤原信実作を終始前提にしており、道真歿後の怨霊の祟りなどが、あたかも信実の創作かのように記し、また未完に終わった理由を、信実の死によるとしている点などである。
【北野天神縁起絵巻(承久本〔天拝山の段〕)の見方】
(1)タイトル
北野天神縁起絵巻(承久本〔天拝山の段〕)。英文:Illustrated Legends of the Kitano Tenjin Shrine(Jokyu-bon: Painted in the Kamakura period,13th century〔Sugawara no Michizane on Mt.tempai〕)
(2)モチーフ
道真公、山、霞、鹿、樹、草花、茅屋、僧侶など。
(3)制作年
鎌倉時代、13世紀。1219(承久元)年の説がある。
(4)画材
紙本著色。和紙、墨、顔料。
(5)サイズ
縦52.0×横171.9cm。第5巻(縦52.0×横924.6cm)の第3紙〜第7紙。通常料紙を横に継ぐが縦に継いで使っている。現存絵巻中最大の紙幅(画面上下の幅)。画家の情熱が紙幅の広さを求めたのかもしれない。
(6)構図
画面中央に高山と束帯姿の道真公を配置し、背後には水平に棚引く薄霞が引かれ、遠近感をもたらしている。道真公と山、花と鹿など自然の比例で見れば、不合理な大きさに表現されている。
(7)色彩
淡彩と濃彩を織り交ぜた重厚感のある表現。道真公の袖口にのぞく単衣(ひとえぎぬ)の赤と、平緒(ひらお)の青が黒い袍(ほう)に映える。山々は緑青の地塗りに群青で隈取りされている。鮮やかな色彩については、制作年が下るか、補筆と見るかなど、研究者でも意見がわかれている。
(8)技法
粗豪な観はあるが、秋草の自然描写には、繊細で華麗な表現が見られる。
(9)落款
なし。未完という意味でも署名や印章はない。
(10)鑑賞のポイント
絵巻でありご神宝である《北野天神縁起絵巻(承久本)》の第五巻第一段に登場する菅原道真公が神に変わる劇的な一場面。道真公は、天拝山に登り、身の潔白を祭文にしたため、天道に無実を祈った結果、天満大自在天神となる(図1)。天拝山の背後には薄霞がかかり水墨画のような山が見え(図2)、山麓には野菊や桔梗など秋の草花が咲き(図3)、森では鹿が遊んでいる(図4)。夏から冬へ移りゆく季節に人も変わる。画面左下、屋根に植栽のある茅屋(ほうおく)では、五人の僧侶が祈りを続けている(図5)。壮大さと優美さとが、必ずしも理想的に和合しているとは言えないが、保存状態がよいためか色彩が新鮮でみずみずしい力強さを感じる。多様な線描表現、独特な濃彩、右から左へ流れる時間、平面的画面などが合わさった、深刻な物語に反した諧謔的なアンバランスの美。国宝。
饒舌な絵画
「詞書の内容をそのまま忠実に描き起こすのではなく、そこからイメージを膨らませて、人物の表情や情景を発想し、場面一杯に描き加えていることは他の天神縁起と比べて大きな特色となっている。特に茅屋の僧侶。建物は何なのか、僧侶は何をしているのか。この絵に対応する詞書はないうえ、後続する絵巻にも出てこない。これを魅力と考えるかどうかは難しいが、主題では本来、高い山と道真公を描けばいいところを、茅屋や秋草を描き、遥か彼方の光景も描く。横一杯に雲があるということは、一種の遠近感を強調しているところもあるが、筆致を見ると後世の補筆とも思える。情熱がほとばしる画家なのだろう。単なる説話画に終わらず、絵画的饒舌と言ってもいい。しかし主題を壊してはいない。ある意味では主題の意味をより強めていると言えるかもしれない。場合によっては詞書がなくても絵画として、一幅の絵として鑑賞することができる。絵の一部を切り取っても琳派になるようだ。しかし逆に信仰を進める側面がある天神縁起としてはどうなのか。また、このシーンの詞書には、梵天と帝釈天が出てくるが、これは仏教の根本的な考え方のひとつとして仏の教えを守護するインドの神様だ。その地位と同じくらいに自分の地位を引き上げることを道真公は祈願している。天の神に祈り、自分が天の神になる。肝心の祭文は改めて見ると描かれていないが、本来は杖の先にあることになる。祭文が描かれていないところが、ほかの天神縁起にはないところ。謎を呼ぶ点が面白い」と竹居氏は語る。
天拝山は天判山
天満宮は、全国に大体1万2,000社あると言われている。神社として極めて異例であるのは、神が歴史的実在人物だということ。江戸時代以前には、天満宮は非常に仏教色が強く、お宮とお寺がくっついた宮寺(みやでら)と称された存在だった。《北野天神縁起絵巻(承久本)》にとってフェノロサの影響は大きく、外国人や西洋美術の専門家が、承久本の価値を見出しており、世界の美術と比較して日本美術の特質を明らかにした。フェノロサ、岡倉天心の開かれた見方があって、その流れの上に矢代幸雄もいた。
「中世末期以前の天神縁起及び絵巻詞書には、道真公が無実を訴えた山の名称を“天拝山"と明記しているものはひとつもないことは案外注意されていない。室町時代の連歌師、宗祗(そうぎ。1421-1502)の旅日記『筑紫道記(つくしのみちのき)』(1480)に“天拝が嵩(たけ)"、近松門左衛門の浄瑠璃『天神記』四(1713)、菱屋平七の『筑紫紀行』(1806)に“天拝山"などが見られるが、むしろ『筑前州大宰府安楽寺菅丞相祠堂記』(1100〔康和2〕年が記事の最下限年代)や、元禄本『天満宮縁起』(1692)、『太宰府天満宮故実』巻下(1817、いずれも神道大系『太宰府』所収)が伝える“天判山(てんぱんざん)"の名称の方が古様と見られる。天判とは、まさに己の行為の正邪・当否の判定を神仏に委ねることであり、その趣旨を付した天判祭文こそ起請文の発生の一淵源であった。おそらく“天判山"が“天拝山"に変わっていった。詞書に“天拝山"があると思っているようだがないのです。もうひとつの問題は、道真公がこういう形で無実を祈ったという事実が基本的に歴史的裏付けを欠いていることである。歴史的実在人物がどうして神になったのか、そのプロセス、転換点としてこの場面を入れないことには、神としての道真公はありえないのです」と竹居氏。松と梅のペアが神紋となっている947(天暦元)年に創建された北野天満宮は、全国の天満宮の拠点となって、いまも人々のあまたの願いを受け入れている。
●《北野天神縁起絵巻(承久本)》第五巻第一段詞書
「筑紫におはしましける間御身に罪なきよ
しの祭文をつくりて高山にのほりて七箇日の
程とかや天道に訴申させ給ける時此祭文漸とひ
のほり雲をわけていたりにけり帝釈宮をも
うちすき梵天まてものほりぬ覧とそおほえし
釈迦菩薩は往劫に底沙仏の御もとにて七日七夜
足の指をつまたてゝ
天地此界多門室 逝宮天処十万無
丈夫牛王大沙門 尋地山林辺無等
と讃嘆せしかは九劫を超越して弥勒にさきた
ちて仏になり給にき菅丞相は現身に七日七夜
天に仰きて身をくたき心をつくしてあなをそ
ろし、天滿大自在天神とそならせ給ける」
(小松茂美『日本絵巻大成 21 北野天神縁起』p.127)
竹居明男(たけい・あきお)
藤原信実(ふじわら・の・のぶざね)
菅原道真(すがわら・の・みちざね)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献