アート・アーカイブ探求
目賀多信済《山水図屏風》みなぎる清新の気──「遠藤友紀」
影山幸一
2018年02月15日号
対象美術館
満ちている神気
今年(2018)5月に丸10年となるこの連載「アート・アーカイブ探求─絵画の見方」は、多くの方の協力を得て120回を迎える。毎月日本の絵画を1点採り上げているが、約1,200年前奈良時代の正倉院の宝物から現代美術まで、時空を超えた画家の出身地を振り返ると、47都道府県のなかで山形県出身の画家の絵を探求していないことに気づいた。
山形美術館から送っていただいた図録『郷土日本画の流れ展』の資料には、「南北目賀多家を通じ最も傑出した画技」と注釈に記された画家がいた。その名は目賀多雲川信済(めかたうんせんのぶずみ。以下、信済)という米沢藩の御用絵師。ネットで検索すると米沢市上杉博物館に作品が所蔵されており、目賀多の展覧会(「米沢ゆかりの絵師たち 4」展、3月18日まで)を準備している最中という。サムネイルで見た画像には、神気が満ちている大自然が描かれていた。早速、目賀多信済の代表作といわれる《山水図屏風》の特別観覧を申請し、雪の米沢へ向かうことにした。東京駅から新幹線つばさ号で2時間ほどである。
JR米沢駅の観光案内センターでは長靴を貸してくれていたが、ウォーキングシューズのままバスを待たずに米沢城を目指して約2キロの雪道を30分ほど歩いた。米沢城は天守閣のない平屋建ての城で、お濠のみが現存する。初代仙台藩主となる独眼竜の伊達政宗(1567-1636)が出生した城であり、最強の戦国武将で米沢藩の藩祖として祀られている上杉謙信(1530-1578)や、「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬ成けり」で有名な第9代藩主の上杉鷹山(ようざん、1751-1822)といった名将、名君ゆかりの地である。
米沢城二の丸の跡地に建てられたのが、米沢市上杉博物館だ。狩野永徳(1543-1590)筆の国宝《上杉本洛中洛外図屏風》をはじめ4万点以上の収蔵品を有している。その博物館の畳のある部屋で《山水図屏風》が迎えてくれた。展覧会の企画を担当している主任学芸員の遠藤友紀氏(以下、遠藤氏)に《山水図屏風》の見方を伺った。
目賀多家との出会い
遠藤氏は、1980年山形県南陽市に生まれ、父が材木商を営む8人家族に育った。三人姉妹の次女である遠藤氏は、子どものころから絵を描くのが好きで絵描きになりたいと思い、絵や手芸をしていた祖母から絵の手ほどきを受けていたそうだが、中学生になると姉を真似て剣道を始め、結婚するまでずっと剣道を続けた。現在、3歳の子どもの母でもあり、学芸員としても美術と教育普及を担当し、近世から郷土ゆかりの現存作家までと幅広い研究をしている。
20世紀以降の美術に興味があったという遠藤氏は、入学した筑波大学で美術史や芸術理論を学び、卒業論文はイサム・ノグチ(1904-1988)について書いた。2003年に筑波大学を卒業し、米沢市上杉博物館
へ就職した。目賀多という米沢藩の御用絵師を知ったのは博物館に入ってからである。遠藤氏は、2009年に目賀多家に焦点をあてた「米沢ゆかりの絵師たち 3」展を担当し、本格的に目賀多作品に接したという。一般的に米沢では「目賀多」を「めがた」と濁音で呼んでいる。しかし江戸時代以前の文献や粉本(手本・模写・下書き等の総称)などを見ていくと「目加多」「目方」という記載が散見され、清音の「めかた」ではないかとの指摘が以前からあったという。遠藤氏は、目賀多家のルーツや関係者をたどり調べたところ、「めかた」と濁らずに読んでいた可能性が高いことがわかった。米沢藩の御用絵師だった目賀多家は、狩野探幽を祖とする江戸の鍛冶橋狩野家に入門し、狩野派の画風を継承している。北目賀多家(幽雲系)と南目賀多家(雲川系)の二家に分かれ、北が本家で南が分家にあたる。信済は南目賀多家であった。
《山水図屏風》について遠藤氏の第一印象は「墨で描く楽しさみたいなものを感じた。描き方が面白く、結構すごいのではないか」。10年ほど前は、現代美術が好きで近世絵画に対する苦手意識を克服中だったそうだが、絵の迫力を実感したことは覚えているという。
雪舟を目指した狩野派
目賀多信済は、1786(天明6)年出羽国(山形県)米沢に生まれた。藩主の身の回りの世話をする小納戸(こなんど)役の矢嶋欽右衛門長寄の三男であったが、目賀多信与(信與)の養子となり、雲川と号す。ほかに雲林、幽石、適意斎などとも号した。
1801(享和元)年、信与の隠居に伴い16歳で家督を継ぎ、1805(享和4)年第9代藩主上杉鷹山による席画が催され、のちに第11代藩主上杉斉定(なりさだ、1788-1839)の絵事勤仕として仕えた。1819(文政2)年、34歳のときに信済は自由な教育をしたという鍛冶橋狩野家七代の狩野探信守道(1785-1836)に入門。浮世絵や文人画などにも刺激を受けて修業を積んだと思われる。山水、人物、竜虎、花鳥のいずれにも優れ、信済の弟子には若井牛山(ぎゅうさん)、百束幽谷(ひゃくそくゆうこく)らがいた。
信済は、豪放にして酒を好み、気宇高邁、興が湧き、意に適したときにのみ筆を執ったといわれ、画風は中国の南宋時代(1127〜1279)の諸大家や明時代(1368〜1644)の浙派(せっぱ)雪舟(1420-1506?)を範としていた。好んで竜を描いたが、壬辰の日に筆を執り、雨が沛然(はいぜん)として雷鳴(らいめい)の轟く日を選んで点睛したといわれ、逸話や日記など周辺資料が多く残っている。
など、多様な様式学習を経た遠藤氏は「信済は、豪放な天才というよりは、古画を勉強しながら雪舟を理想とし、狩野派の画風を堅実に守りつつ描くことに努力した人。8冊の日記があるが、最初の日記は24歳のとき。その頃は80歳で亡くなった父の看病に明け暮れる毎日だったことが書かれている。父が没した年の12月29日には、年が明けると自分は25歳になるのに、絵の技量の拙さ、絵師としての行ないの未熟さが嫌になると書いている。また、先祖の絵手本をよそで見せてもらい、本当は家のものなのに誰かが手放して、よそにあることが情けないと嘆くなど、信済は決して豪放ではない印象を受ける。生活は大変だったが、信済は絵に関しては勉強熱心だったと思う。のちに法橋に叙されたというが、典拠記録は現在不明」と述べた。1847(弘化4)年信済62歳で死去。米沢の信光寺に眠る。
【山水図屏風の見方】
(1)タイトル
山水図屏風(さんすいずびょうぶ)。
(2)モチーフ
山、川、岩、木、楼閣、家、舟、馬、人。
(3)制作年
1828(文政11)年。信済43歳頃。
(4)画材
紙本墨画金彩。
(5)サイズ
六曲一双。右隻左隻ともに縦161.0×横353.0cm。
(6)構図
右隻は夏から初秋の景、左隻は冬から初春の景。広々とした眺望が立体的に見えるパノラマ的な広角構図。近景を大きく濃墨で描き、遠景を小さく薄墨で描いて、遠近感を強調している。
(7)色彩
黒、灰、金。深みのある濃い黒と、自然の大気を思わせる細かい金が特徴。金は、右隻に黄色みを帯びた金を、左隻に赤みを帯びた金を装飾的に用い、季節感と呼応させている。
(8)技法
水墨技法、切箔(きりはく)、砂子(すなご)
。(9)落款
各隻ともに「信済筆」の署名と、「適意」の朱文ひさご形印の印章
。適意(てきい)とは「心のまま、迷わず思いどおりにする」という意味が込められている。(10)鑑賞のポイント
勢いのよい筆運び、一気に描き上げたような迷いのない筆遣いである。スピーディで大胆な描き方ながら、墨の濃淡の巧みな使い分けにより大地、水、光、霞が表現され、民家や舟
、人馬 と人々の生活も細やかに描写している。幽寂な情景に神聖な気持ちが湧いてくる。男性的で強固な右隻と、女性的で柔軟な左隻。離れたり近づいたり、あるいは右から左へ、左から右へと身体を動かすと、見えてくる風景が異なり楽しさがある。所々に描かれたアクションペインティングのような激しいタッチ は、ライブ感が伝わってきて、江戸時代の作者との距離が縮まり、時空を超える感覚になる。雪舟を思わせる強い筆致による簡略化された皴法(しゅんぽう) や、調和のとれた画面構成に華やかな金の砂子を加え、伝統を踏まえた山水画は高貴な理想郷となった。目賀多信済の代表作。
「適意」は思いどおりにすること
「目賀多家門人で、明治・大正期に日本画壇旧派の指導者として活躍した下條桂谷(げじょうけいこく、1842-1920)は『墨色やや濃しと雖も、谷文晁に匹敵すべき大家なり』(『米沢市史 第三巻 近世編2』p.834)と信済を激賞した。桂谷が弟子入りしたのは年代や桂谷の回想録から、信済の次の世代の目賀多幽雲信清と判断されるが、名手と伝わる信済の作品にしばしば触れていたのであろう。信済は、作画期は長いが、参勤交代で江戸へ行くことはあっても、基本的には米沢にいた絵師であり、米沢で名人でも全国的に知られている存在ではなかった。《山水図屏風》の制作背景についてはよくわかっていないが、信済の日記から推察すると、しかるべきところからの注文制作だったと思われる。屏風を保護する畳紙(たとうがみ)の表には『山水之画 雲川信澄筆』 と、裏には『文政十一戊子(つちのえね)年 張師 佐藤幸四郎』 と記されており、制作年代がわかる。信済の作品はほとんどが墨彩で、大抵『雲川』あるいは『信済』と署名しており、印章は『適意』、思いどおりにすることを意味している」と遠藤氏は語った。
《山水図屏風》は、裏側にも作者不明の絵が描かれていた。信済の実像や作品解釈など、まだ課題は残されているが、研究は少しずつ進められている。
現在、米沢市上杉博物館のコレクション展「米沢ゆかりの絵師たち 4」(2018.2.3〜3.18)では、目賀多家の仕事と暮らしが展示され《山水図屏風》も鑑賞できる。水墨画であるが金彩の表現にも着目してもらいたい。屏風における金の存在感を強化した狩野派の影響だろうか、墨のタッチやグラデーションと同様に金砂子の集密や色調の変化にも配慮が見られる。狩野派に雪舟様を併せた信済の《山水図屏風》は、壮大で清新の気がみなぎっている。
遠藤友紀(えんどう・ゆき)
目賀多信済(めかた・のぶずみ)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献