2019年08月01日号
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アート・アーカイブ探求

レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》──人間存在の神秘「岡部昌幸」

影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)

2019年07月15日号

レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》1503-05年、ポプラの板・油彩、79.4×53.4cm、ルーヴル美術館蔵
Photo © RMN-Grand Palais (musée du Louvre) / Michel Urtado /distributed by AMF-DNPartcom
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あなたは何者か

今年(2019)はレオナルド・ダ・ヴィンチの没後500年にあたる。レオナルドは未完でありながら不朽の名作として名高い《モナ・リザ》(ルーヴル美術館蔵)を描いた画家である。《モナ・リザ》は荒涼とした薄暗い背景に、ひとりの女性がヴェールを被り、簡素な黒服を着て、両手を静かに重ねて座り、謎めいた微笑みをたたえながらこちらを見ている。聖母マリアにも能面のようにも見えるが、逆にじっと見つめられて「あなたは何者か」と存在を問われているような気持ちになってくる。

画家であるレオナルドは、彫刻家、建築家、天文学者、解剖学者、また現在のビオラに近いリラ・ダ・ブラッチョを演奏する音楽家でもあったという。さらに地図を作成するために始めた登山や、結婚祝祭などの舞台演出や服飾デザイン、大砲や戦車を設計する軍事技師といった広範な分野で活躍した万能の人であった。

1974年、東京国立博物館で開催された「モナ・リザ展」は、50日間で約150万人が訪れて社会的事件になったようだ。《モナ・リザ》からインスピレーションを得た美術家は多く、マルセル・デュシャン(1887-1968)は、《モナ・リザ》の複製絵葉書に口髭、あご髭を描き入れ、性と芸術の権威を意識させた。またアンディ・ウォーホル(1928-1987)は、《モナ・リザ》をシルクスクリーンで複製化し、大量消費社会における大衆文化の虚無感を象徴させた。《モナ・リザ》は、日常生活でもよく目にすることが多いためか、ルーヴル美術館で実物の《モナ・リザ》を見ても確認で終わってしまうところがある。没後500年、あなたは何者か、と改めて《モナ・リザ》と向き合ってみたい。

群馬県立近代美術館館長であり、帝京大学教授の岡部昌幸氏(以下、岡部氏)に《モナ・リザ》の見方を伺ってみたいと思った。岡部氏は東洋・西洋と美術に広く通じ、『教養としての名画─「モナ・リザ」の微笑はなぜ神秘的に見えるのか』(青春出版社、2004)などを出版されている。東京・八王子の帝京大学へ向かった。



岡部昌幸氏

リヴィジョニズムとグローバル・アート・ヒストリー

バス停を降りるとすぐに青空に映える高層の大学校舎がそびえていた。丘陵地帯にある大学の7階からは丹沢の山並みや新宿のビル群も見える。広い美術史・文化遺産実習室で岡部氏から《モナ・リザ》の見方を伺うことができた。

岡部氏が《モナ・リザ》を見たのは1980年代の半ば。ルーヴル美術館の展示室はいまと状況が違っていたようだ。「《モナ・リザ》は現在ほど有名ではなく、多くの作品のなかにごく普通に展示されていた。しかし、渋めで神秘的、独特な古風の格式はあった。若干陰気臭い感じがレオナルドの特徴であるが、これかという感激はあった」と岡部氏は述べた。

1957年に横浜市に生まれた岡部氏は、歴史と美術が好きで、中学、高校と美術部に入って絵を描いていた。高校の先輩にはサンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)研究で高い評価を得た美術史家の矢代幸雄(1890-1975)がおり、画家でもあった美術教師はとても熱心で、友人と東京・上野の国立西洋美術館で開催されたセザンヌ展を見に行ったりと、楽しい思い出があるという。

江戸末期に開港し、国際貿易港として発展した横浜に、1861年、開国間もない日本を欧州へ紹介する目的で、英国人ジャーナリストで画家・漫画家のチャールズ・ワーグマン(1832-1891)が来日した。横浜に居を定め、報道画家として活躍。また、1865(慶応元)年には油絵を近代日本洋画の草分けとなる五姓田(ごせだ)義松(1855-1915)や高橋由一(1828-1894)らに教えたことでも知られ、横浜は近代洋画発祥の地となった。加えて横浜は生糸貿易によって財を成した実業家・原三溪(富太郎)の近代日本画コレクションが名勝三溪園に所蔵されている。岡部氏は、ワーグマンや高橋由一を研究したこともあった。

早稲田大学の第一文学部へ入学し、美術史を専攻した岡部氏は、学生時代に有名な作品を論証しようと同人誌に「モナ・リザ レオナルドの自画像説」という原稿を初めて書いた。またアルバイトで「日展史」をまとめたことにより、日本の近代美術に親しむ機会となった。

岡部氏は、「リヴィジョニズム」と「グローバル・アート・ヒストリー」の二つの柱を掲げて研究をしている。リヴィジョニズムは、忘れられていたり、注目されないものをもう一度見直すこと。グローバル・アート・ヒストリーは、従来の西洋史や世界史の見方をとらえ直す見方で、単眼的でなく複眼的思考を指すという。

開花したアナロギアの思想

1452年、レオナルド・ダ・ヴィンチはイタリア中部フィレンツェの郊外にある小村、ヴィンチ村に生まれた。ダ・ヴィンチという呼び名は、「ヴィンチ村出身の」を表わす。当時は一部の由緒ある家系を除いて名字はなかったため、出身地などが姓の役割を果たした。父セル・ピエロは、公証人として地元の名士だったが、母カテリーナはダ・ヴィンチ家の小作農の娘と伝わる。ピエロとカテリーナは結婚せず、ピエロはアルビエーラというフィレンツェの靴製造業者の娘と結婚し、カテリーナは窯焼き職人に嫁いだ。レオナルドは祖父に育てられ、長男だが私生児のため家業を継ぐことは許されず、芸術の道を歩み始める。

実母と四人の継母、16人の異母弟妹(ていまい)がいたレオナルドは、万能の片鱗を見せていたが、移り気で長続きしない内向的な面もあった。フィレンツェ文化が華やかな13歳の頃、父の勧めでフィレンツェのアンドレア・デル・ヴェロッキオ(1435-1488)の工房に絵画と彫刻の修業のため弟子入りする。兄弟子にボッティチェッリがいた。金髪巻き毛の美少年で同性愛者でもあったレオナルドだが、制作に励むボッティチェッリに羨望と同時に嫉妬を覚えていたようだ。1472年、20歳になったレオナルドは、サン・ルカ画家組合に親方として登録、《受胎告知》(ウフィツィ美術館蔵)が実質的デビュー作となった。しかし、遅筆で未完成癖があり、仕事が思うようにいかないまま30歳を迎える。その間レオナルドは軍事に関することを学んでいた。当時、フランスがイタリアへ領土拡大を図っていた。

レオナルドは仕事を求めてフランスに近いミラノ公国へ自薦状を出し、権力者ルドヴィコ・スフォルツァ(1452-1508/通称イル・モーロ)と出会い、フィレンツェの工房を整理してミラノで“宮廷付き技師”となる。この1482~1499年(30~47歳)の「ミラノ時代」に、レオナルドは建築家や演出家としても活動の領域を広げ、《最後の晩餐》(サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会蔵)を完成させ、数学者ルカ・パチョーリとも親交を深めた。恩師ヴェロッキオや、万能人の先輩格である工学者フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ(1439-1501)と並び、パチョーリもレオナルドに多大な影響を与えた人物であった。「万物の形態に比を見出し、次いで機能においても万物に類似を見出す『アナロギア★1』の思想は、まさにパチョーリとの対話から発したのである」(池上英洋『レオナルド・ダ・ヴィンチ』p.113)。自然の形態に内在する比率や幾何学、類似、数学的なものに関心を寄せるようになったレオナルドが、多才ぶりを開花させたミラノ時代は、フランス軍の侵攻によるイル・モーロの逃亡によって終わった。


★1──個々の物事の間に成立する比例関係や類似性に基づいて、論理的な推論を行なうこと。古代ギリシア哲学に通じた概念である。

科学者であり哲学的な画家

ミラノを後にしたレオナルドは、北イタリアの宮廷都市マントヴァの侯妃イザベッラ・デステ(1474-1539)の依頼により、肖像画を描くためにマントヴァを訪れた。しかし、絵を仕上げないままヴェネツィアを経由してフィレンツェへ帰還してしまう。1502年、50歳になったレオナルドは、イタリア統一の野望に燃えるローマ教皇軍総司令官のチェーザレ・ボルジア(1475-1507)のもと、建築家兼技師として従軍するが1年ほどで辞し、またフィレンツェへ戻ってしまった。《モナ・リザ》の制作が1503年頃に始まる。1504年から翌年までのフィレンツェには、ライバル関係にあったダイナミックで男性的なミケランジェロ(1475-1564)と、ロマンティストで世俗的なラファエロ(1483-1520)、そして科学者であり哲学的な画家のレオナルドと、いわゆる「ルネサンスの三巨匠」が会していた。

フィレンツェの政府とミラノのフランス政府との間で揺れるレオナルドは、1508年にミラノへ向かい工房を設ける。貴族出身の愛弟子フランチェスコ・メルツィ(1491または1493-1570)や手癖の悪い美少年の召使いサライ(ジャン・ジャコモ・カプロッティ/1480-1524)らとミラノを制圧していたフランス政府関係の仕事をした。思いついた思索を手稿に書き留め続けた。解剖による人体の観察研究成果が多くあったのはこの頃である。

1513年、教皇レオ10世の弟ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ(1479-1516)の招聘により、レオナルドはメルツィとサライと一緒にローマへ赴いた。しかし、《モナ・リザ》の注文主とも言われているヌムール公は、3年後に病に倒れ亡くなってしまう。晩年64歳になったレオナルドを招いたのは、先進の文化を欲していたフランス王フランソワ1世であった。メルツィとサライ、召使いをひとり伴い、《モナ・リザ》《洗礼者ヨハネ》《聖アンナと聖母子》や手稿などを携え、フランスのアンボワーズまで1,000キロメートルを超える旅に出た。破格の高額俸給とアンボワーズ城からほど近いクロ・リュセ城とが与えられたという。フランソワ1世と波乱万丈の生涯について話し、レオナルドは1519年5月2日に永眠、67歳だった。すべての知的財産を弟子メルツィに託した。

【モナ・リザの見方】

(1)タイトル

モナ・リザ。「ラ・ジョコンダ(La Gioconda)」ともいわれる。英題:Mona Lisa

(2)モチーフ

理想の人間像。モデルは、イタリア・フィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの二度目の妻リザ・ゲラルディーニ(1479-?)と言われている。そのほか、マントヴァ侯妃イザベラ・デステ、母親像、自画像説などもある。

(3)制作年

1503-05年。盛期ルネサンス。レオナルド51~53歳。

(4)画材

ポプラの板、油彩。

(5)サイズ

縦79.4×横53.4cm。

(6)構図

頭を頂点とする三角形の安定した構図。「3/4正面」を向いたポーズ。画面を左右に二分割する中心線は、左目を通る。心理学者クリストファー・タイラーの言う中心線原理★2である。安定した美感を与える黄金比を各所に用いている。

(7)色彩

多色。ぼんやりとした不明確な暗い色彩。空気を通して色彩の微妙な変化をとらえようとしている。

(8)技法

絵具の盛りや筆跡は見られず絵肌は平面である。キアロスクーロ(明暗法)のひとつで、レオナルドのものは特に“煙のかかったような”を意味する「スフマート★3」と呼ばれる。顎や目の周囲、鼻、口元にも輪郭線はなく、色彩のトーンとグラデーションだけで描かれ、画面全体に透明感を出している。暖色は突出し、寒色は後退して見える特性を利用した「色彩遠近法」と、遠くの風景ほど青味がかり、対象物が霞む「空気遠近法」を加えて静謐な立体的空間を表出した。

(9)サイン

なし。

(10)鑑賞のポイント

商人の妻ジョコンダを描いたと言われるが、人物は理想化され、注文主に渡されずレオナルドの死まで手許に置かれた。スフマートによる柔らかな陰影は、眉毛のない八方睨みの目[図1]や、指に未完成の部分があるが皮膚の温もりを感じさせる手[図2]を描出し、ミステリアスな微笑みを表わす。身体を斜めに構える「3/4正面」のポーズが立体感を強め、キアロスクーロによって明確には表現せず、陰影で隠すことによって暗示させる。レオナルドは、解剖学を通じて人間の生命の神秘を、また地質学や水力学を通して、山岳や湖、河川や橋などの風景や大自然の動きの原理を探究したのだろう。《モナ・リザ》に自己を投影して見る分身性と、鑑賞者を他者として見返す対面性の循環構造が生まれ、《モナ・リザ》は永遠性を宿す。盛期ルネサンスに活躍したレオナルドのミクロとマクロの宇宙観が集約されている。



図1 眉毛のない八方睨みの目(《モナ・リザ》部分)


図2 皮膚の温もりを感じさせる手(《モナ・リザ》部分)

★2──肖像画では人物の左右どちらかの目を中心線が通るという理論。
★3──レオナルドの創造した技法。薄く溶いた絵具を指先などにつけ、何度も重ね塗りをしてグラデーション効果を描出する。

明確性が生む謎と神秘

《モナ・リザ》の特徴は、「3/4正面を向いたポーズと、どこから見ても目が合う八方睨みである」と岡部氏は述べた。そして、絵画で表現しなければならないものが二つあるとレオナルドは言っているという。「ひとつは人間の姿、もうひとつは心の動き」である。解剖学に支えられた完璧な人体のデッサンと、深遠な心の動きをスフマートの陰影によってレオナルドは描出した。

《モナ・リザ》は「モデルはいても実在の人物ではなく、理想の人間像、特定されない類型の肖像・トローニーを表わす。レオナルドは写実の画家ではなく、理想を追求した画家。端的に言えばアンドロギュノス(両性具有)の人間を理想としていた。レオナルド自身も美青年として、誰もが羨むほど美しく優雅さをもっていた。《モナ・リザ》に眉毛がないのは、15世紀風の表現で、この時代は描かなくて当然だった。縦長の長方形のポプラの板は、黄金比を用いた“黄金長方形”★4と考えられ、黄金長方形に内接する楕円形を“黄金楕円形”と呼び、顔・胸・手に用いたと考えられる。スフマートや空気遠近法によってできる水墨画のような《モナ・リザ》。その画面は、明確性を追求しているのに不明確になっていき、不安定で不穏なところに奥深い微笑が生まれた。微笑んだ初めての肖像画と言われており、“謎と神秘”の表現が、宇宙の真理や神に至る超絶的な存在を感じさせる」と岡部氏は語った。

レオナルドが普通の画家と違うことがますますわかってきたと岡部氏。「かつてレオナルドは画家として尊敬されていたが、現在はルネサンス時代そのものの思想や世界観を表現した人物ととらえられている。また絵画を、森羅万象あらゆる学問を追究するための手段として使った人として評価されている。レオナルドから起きた神秘的な画派にフォンテーヌブロー派があるが、レオナルドは芸術に向かう姿勢がほかとは異なっていた。肖像画を描いても人間の分析になり、美を追求しているわけではない。本質を追求し、真理を追究する。それが美につながっていく」。《モナ・リザ》の謎は永遠でなく、分解するように少しずつ解かれ、そして《モナ・リザ》が永遠となる。


★4──黄金比(1:1.6180339……)を縦と横の比率に当てはめた長方形。



岡部昌幸(おかべ・まさゆき)

群馬県立近代美術館館長、帝京大学文学部史学科、大学院文学研究科日本史・文化財学専攻教授。1957年横浜市生まれ。早稲田大学第一文学部美術史専攻、同大学院で学ぶ。西洋近代および日本近代美術を専攻。リヴィジョニズムとグローバル・アート・ヒストリーの視点で、特に世紀転換期のアメリカ美術、アール・ヌーヴォー/アール・デコなどの装飾美術、ジャポニスム、写真史、日本近代洋画、日本画などを研究。所属学会:美術史学会、日本フェノロサ学会、ジャポニスム学会など。主な著書:『教養としての名画─「モナ・リザ」の微笑はなぜ神秘的に見えるのか』(青春出版社、2004)、『すぐわかる作家別水彩画の見かた』(東京美術、2004)、『すぐわかる作家別西洋絵画の見かた』(東京美術、2010)、『レンブラントとフェルメール』(新人物往来社、2011)、『JAPAN:ロバート・ブルーム画集』(芸術新聞社、2015)、『渡辺省亭: 花鳥画の孤高なる輝き』(東京美術、2017)、訳書に『アーノルド ヤポニカ』(エドウィン・アーノルド著、雄松堂出版、2004)。企画・監修をした主な展覧会:「カラヴァッジョ」展(2001)、「ジャポニスムのテーブルウェア」展(2007)、「サラ・ベルナールの世界」展(2018)など多数。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)

イタリアの画家。1452~1519年。イタリア中部フィレンツェ郊外のヴィンチ村に生まれる。父は公証人だが、実母カテリーナとは結婚せず、父方の祖父の家で育つ。1465年頃フィレンツェのヴェロッキオ工房に入門。1472年サン・ルカ画家組合に親方として登録。1482年ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァに仕える。1494年頃《最後の晩餐》の壁画を委嘱され、1498年に完成。1499年頃北イタリアのマントヴァの侯妃イザベッラ・デステから肖像画の依頼を受ける。1502年ローマの教皇軍チェーザレ・ボルジアの建築家兼技師となる。1513年ローマ教皇10世の弟ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチの招待でローマに移る。1516年フランス王フランソワ1世に招かれ、愛弟子メルツィとともにフランスに移住。1519年アンボワーズにあるクロ・リュセ城にて死去。享年67歳。主な作品:《モナ・リザ》《受胎告知》《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》《岩窟の聖母》《白貂を抱く貴婦人》《最後の晩餐》など。

デジタル画像のメタデータ

タイトル:モナ・リザ。作者:影山幸一。主題:世界の絵画。内容記述:レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》1503-05年、ポプラの板・油彩、縦79.4×横53.4cm、ルーヴル美術館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:パリ・ルーヴル美術館、Michel Urtado、アジャンス・デ・ミュゼ・フランセ、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Jpeg形式439.0MB(300dpi、RGB、8bit)。資源識別子: RMN18543404(Jpeg、439.0MB、300dpi、RGB、8bit、カラーガイド・グレースケールなし)。情報源:(株)DNPアートコミュニケーションズ。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:ルーヴル美術館、Michel Urtado、アジャンス・デ・ミュゼ・フランセ、(株)DNPアートコミュニケーションズ。



【画像製作レポート】

《モナ・リザ》の画像は、DNPアートコミュニケーションズ(DNPAC)へメールで依頼した。後日、URLが記載されたDNPACのメールから作品画像をダウンロードして入手(Jpeg、439.0MB、300dpi、RGB、8bit、カラーガイド・グレースケールなし)。作品画像の掲載は1年間。 iMac 21インチモニターの画面をEye-One Display2(X-Rite)によって調整する。モニター上の《モナ・リザ》の画像と、Webサイト「Louvre」の《モナ・リザ》画像や印刷物とを比較しながら色彩調整を行なった。どこまでが絵画鑑賞の対象範囲なのか悩むところだが、絵の描かれた部分だけを切抜かず、そのままデジタ画像ル全体を表示させた。支持体のポプラ板に厚く施された下塗りの様子や、朽ちた木の端、数個開いている釘穴のような穴、苦心して《モナ・リザ》を描いたレオナルドのリアリティを感じる。Jpeg形式439.0MB(300dpi、RGB、8bit)。また、セキュリティを考慮して、高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」を用い、拡大表示を可能としている。



参考文献

・図録『モナ・リザ展』(モナ・リザ歓迎委員会、1974)
・ルネ・ユイグ『モナ・リザ:レオナルド・ダ・ヴィンチ(巨匠の名画)』(高階秀爾訳、美術出版社、1974)
・針生一郎「モナ・リザの謎─その文明史」(『美術手帖』No.381、美術出版社、1974、pp.176-197)
・井上靖・高階秀爾『世界の名画 別巻 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(講談社、1974)
・『モナ・リザ展記録』(文化庁、1975)
・後藤茂樹編『世界美術全集5 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(集英社、1977)
・木村重信・高階秀爾・樺山紘一監修『名画への旅7 盛期ルネサンス モナ・リザは見た』(講談社、1992)
・嘉門安雄監修『美の発見シリーズ モナ・リザの微笑』(求龍堂、1998)
・図録『モナ・リザ100の微笑』(日本経済新聞社、2000)
・中村英樹「「モナ・リザ」の真相」(『現代思想』第29巻第12号、青土社、2001、pp.8-17)
・三浦篤『まなざしのレッスン1 西洋伝統絵画』(東京大学出版会、2004)
・岡部昌幸『教養としての名画 「モナ・リザ」の微笑はなぜ神秘的に見えるのか』(青春出版社、2004)
・田辺清監修『図解 ダ・ヴィンチの謎』(宝島社、2004)
・北川健次『「モナ・リザ」ミステリー 名画の謎を追う』(新潮社、2004)
・池上英洋『西洋絵画の巨匠8 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(小学館、2007)
・田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチの世界像』(東北大学出版会、2008)
・田中英道『モナ・リザは、なぜ微笑むのか レオナルド・ダ・ヴィンチ傑作の構造』(PHP研究所、2008)
・井出洋一郎『巨匠の代表作でわかる 絵画の見方・楽しみ方』(日本文芸社、2008)
・ビューレント・アータレイ/キース・ワムズリー『ダ・ヴィンチ 芸術と科学の生涯』(藤井留美訳、日経ナショナル・ジオグラフィック社、2009)
・岡部昌幸『この一冊で日本と西洋の名画がわかる!』(青春出版社、2010)
・岡部昌幸『すぐわかる 画家別西洋絵画の見かた 改訂版』(東京美術、2010)
・H・アンナ・スー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 天才の素描と手稿』(森田義之監訳、小林もり子訳、西村書店、2012)
・西岡文彦『モナ・リザはなぜ名画なのか?』(筑摩書房、2013)
・マルコ・カルミナ―ティ『名画の秘密 レオナルド・ダ・ヴィンチ モナ・リザ』(森田義之訳、西村書店、2016)
・西岡文彦『謎解きモナ・リザ 見方の極意 名画の理由』(河出書房新社、2016)
・斎藤泰弘『ダ・ヴィンチ絵画の謎』(中央公論新社、2017)
・岡部昌幸監修『世界の美術家 その生涯と作品』(ポプラ社、2018)
・池上英洋『レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と芸術のすべて』(筑摩書房、2019)
・池上英洋監修『別冊太陽 レオナルド・ダ・ヴィンチを旅する 没後500年』(平凡社、2019)
・Webサイト:「フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リーザ・ゲラルディーニの肖像」(『Louvre』)2019.7.1閲覧(https://www.louvre.fr/jp/moteur-de-recherche-oeuvres?f_search_art=Joconde#tabs
・Webサイト:「La Joconde/Focus」(『Louvre』)2019.7.1閲覧(https://focus.louvre.fr/JA/%e3%80%8a%e3%83%a2%e3%83%8a%e3%83%bb%e3%83%aa%e3%82%b6%e3%80%8b



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2019年7月

  • レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》──人間存在の神秘「岡部昌幸」

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