アート・アーカイブ探求
アブラデ・グローヴァー《タウン・パノラマ》──きらめく群衆のエネルギー「川口幸也」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2019年08月01日号
アフリカ大陸の1点を求めて
人類は約700万年前にアフリカで誕生したという。まだ樹上で暮らすことも多く、地上で未熟な直立二足歩行をはじめ、6万年をかけてアフリカから世界中に拡散したと言われている。人類が誕生した大地にはいま、どのような絵が生まれているのだろう。母なるアフリカ大陸の絵画を見てみたいと思った。日本列島から遠く離れ、実像がつかみにくい未知の大陸に期待が膨らむ。54か国あるというアフリカのなかで、絵画1点を求めて、『アフリカの同時代美術』(明石書店、2011)の著者、川口幸也氏(以下、川口氏)を訪ねた。
川口氏は東京・世田谷美術館の学芸員と大阪・国立民族学博物館・総合研究大学院大学の准教授を経て、現在は立教大学の文学部教授として、アフリカ同時代美術、展示表象論を研究している。日本における現代アフリカの美術研究のパイオニアで、川口氏の企画した「彫刻家エル・アナツイのアフリカ展」(2010-11)を記憶している人は多いだろう。アフリカを代表するような絵画とは、一体どのようなものだろうか。
ガーナの現代絵画
川口氏は、多様なアフリカにおいてアフリカを代表する絵画という選択基準では難しいと言いながらも、ガーナの画家アブラデ・グローヴァーの《タウン・パノラマ》(世田谷美術館蔵)を教えてくれた。ガーナ美術界だけでなく国際的にも活躍している画家で、今年(2019)の4月まで世田谷美術館の「ミュージアムコレクションⅢ アフリカ現代美術コレクションのすべて」展(2018年11月3日~2019年4月7日)に出品されていた作品である。
印象派を想起させる中間色を使い、無数の細かなタッチによって画面全体を埋め尽くした抽象画に見える。明確な色彩で単純化された形態といったようなアフリカンアートのイメージとは違っていた。これがアフリカの現代絵画なのだ。近づくと点描画のように四角いタッチが無数にあり、目が慣れるにしたがいタイトルとあわせて見ていると、賑わいの音とともに、果てしなく軒を連ねる町が現われてきた。
西アフリカの熱帯の国ガーナでは、英語が公用語だが、42にも及ぶ民族が異なった言語を話しているそうだ。日本の3分の2の面積、人口約2,883万人。約70%がキリスト教徒で、主要な産業は農業、鉱業だという。ガーナといえばチョコレートだが、その原料になるカカオの産地で、ほかに金や石油などを輸出し、伝統工芸によるビーズや色鮮やかな織物のケンテクロスがいまもつくられている。サハラ砂漠以南の植民地のなかではいち早く1957年イギリスから独立、1960年にガーナ共和国になった。
細菌学者の野口英世(1876-1928)は、1928年に黄熱病に感染し、ガーナの首都アクラで亡くなったが、コレブ病院には記念館と日本庭園が残され、またガーナ大学には日本政府によって野口英世記念研究所が設立されるなど、ガーナと日本の友好関係は続いている。
前衛書道
川口氏は1955年、福井県福井市に生まれた。福井市は当時、繊維産業の盛んな町として知られていた。戦後の子どもの多い時代、川口氏も多分にもれず近所の子どもたちと草野球に興じていたという。また福井県は書道が盛んで、母親が見つけてきた書道塾で書道も習っていた。母はとくに美術に関心を持っていたわけではなかったらしいが、習った先生はたまたま抽象的な書を書く前衛書の流派に属していたという。
高校時代には、毎日、図書館長を務め、美術に造詣の深かった英語の先生から美術に関わる話を聞いたり、愛蔵の品を見せてもらうのが面白く、知らず知らずのうちに美術に近づいていったのかもしれないと川口氏は振り返る。大学では川口氏は、はじめ日本の近代美術史を専攻した。ある講義で古賀春江(1895-1933)のことを聞いて関心をもったという。「様式的にはまったく日本にないものを西洋から取り入れて、何かを表現していくこととはどういうことなのか」と思ったそうだ。
大学院を修了後、1985年に世田谷美術館の開設準備室に入り学芸員となった。開館記念展に向けて民族美術の部門を担当することになり、国内にあるアフリカやオセアニアの仮面や神像を見て、それらが新鮮に感じたという。80年代半ばのバブル経済を背景にエスニックブームなどがあり、アジアやアフリカのファッションや料理、音楽が流行していた。非西洋圏の文化が断片的に消費されている状況に疑問をもちながら、川口氏は次第にアフリカに関心をもつようになっていった。
現代美術から“同時代美術”へ
1984年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」展では、西欧近代の底にある他文化理解が炙りだされ、近代そのものが問い直される契機となった。パリのポンピドゥー・センターでは、これを受け止めるかたちで「マジシャン・ドゥ・ラ・テール(大地の魔術師たち)」展(1989)を開催し、欧米の現代美術だけではなく、アフリカやアジア、中南米などの現代の造形を紹介したが、一部からは、作家と作品を選ぶ基準が恣意的であるとして、ネオ・コロニアリズムとの批判を浴びることになった。また同じ頃日本では、外務省の主導でアフリカ文化を全国規模で紹介する「アフリカ・カルチャー・キャンペーン’89」が開かれ、世田谷美術館でのオープニングセレモニーには皇太子殿下(現在の天皇陛下)のご臨席を賜った。
これが機縁となり川口氏に外務省から声が掛かり、そして国際交流基金の長期研究者派遣のスキームで、初めてアフリカへ行くことになった。ひとりで約半年間、赤道を挟む8か国、セネガル、マリ、コートジボワール、ガーナ、ナイジェリア、コンゴ、ケニア、タンザニアの7,500キロメートルを走破し、各地で手探りでつくり手と作品を探し求めた。どの国でも、大きく分けると、美術大学で専門教育を受けたプロのアーティストと、街なかで自己流の造形を売って生活しているフリーのアーティスト、いわば職人の二つの流れがあった。
川口氏は二つの流れの両方に目配りをした。当時は、いまとは違ってパソコンもスマホもなく、通信手段が貧弱で連絡が取りにくく、いかにして現地のアートワールドのなかに入り込んでいくのかが最大のテーマだったという。またフィルムのカメラのため撮影できる枚数にも制限があり、記録を残すのも相当の難題だったらしい。
川口氏は「“現代美術”というのは、必ずしも現代に制作された美術品という意味ではない。現に、日本には日本画家がたくさんいるが、彼らの作品はコンテンポラリーアートとは呼ばれていない。現代美術という言葉には、戦後のニューヨークやパリ、ロンドン、東京などでつくられた抽象的な様式をもつアートである、という意味合いがある。考えてみるとこれは不思議。その意味では現代美術は、特殊な領域を形成していると言える。英語のコンテンポラリーアートという言葉を、使い勝手が悪いのを承知で、あえて私は“同時代美術”という言葉に置き換えた。何度もアフリカへ行って見てきた造形物には、現代美術もあるが、それ以外の豊かな造形もある。ジャンルは関係ない。それらに対して現代美術という言葉を持ち出した途端、指の間からこぼれ落ちてしまうものがあまりにも多い」と語った。
情熱の「インサイド・ストーリー」展
グローヴァーと川口氏が出会ったのは1990年11月、初めて行ったアフリカの旅での途中のことだったという。ノーベル平和賞を受賞したガーナ出身のアナン元国連事務総長(1938-2018)が卒業したというクマシにあるクワメ・ンクルマ科学技術大学へ事前の約束もなしに飛び込んだところ、美術学部部長のグローヴァーと会った。「アーティストを紹介する」とグローヴァーから言われ、翌日もう一度行ってみると10人ほどアーティスト(教員)がいて、紹介を兼ねた簡単なセレモニーが行なわれ、その後彼らひとりずつの作品を見ることができた。このときグローヴァーは《タウン・パノラマ》に関連する絵を描いていたそうだ。川口氏はさかのぼって同年の2月、まだアフリカに行く前にニューヨークでいくつかの展覧会を見ており、スタジオ・ミュージアム・イン・ハーレムで開催されていた「Contemporary African artists : changing tradition」展でグローヴァーのことは、すでに知っていたという。
アフリカの旅を終えてから4年半後、川口氏が情熱を注ぎ、多くの人々の協力を得て日本での展覧会「インサイド・ストーリー──同時代のアフリカ美術」展(1995)が実現し、最終的には全国6館(世田谷美術館・徳島県立近代美術館・姫路市立美術館・郡山市立美術館・丸亀市猪熊弦一郎現代美術館・岐阜県美術館)で巡回した。
《タウン・パノラマ》は「インサイド・ストーリー」展の開催が決まり、準備を進めるなかで、グローヴァーにいくつか作品を見せてもらったなかから川口氏が選んだ1点だった。川口氏ははじめニューヨークで本作のシリーズを見たときはなんだかよくわからなかったそうだが、実際にクマシへ行き、街の中心にある巨大な市場の風景を見た瞬間、あっと息を呑んだ。目の前にグローヴァーの描く世界が広がっていたからだ。そして世田谷美術館に《タウン・パノラマ》が、アフリカ・コレクションとして収蔵されることになった。
波動する色彩
画家のアブラデ・グローヴァーは、1934年にガーナの首都アクラに生まれ、85歳になった現在も西アフリカのアーティストを紹介する「アーティスツ・アライアンス・ギャラリー」を運営しながら、ガーナで制作を続けている
。クマシにあるクワメ・ンクルマ科学技術大学の美術学部で絵画を学んだあと、テキスタイルデザイン研究などの奨学金を得て、1950年代末から70年代にかけてイギリス、アメリカに留学した。1964年、美術教育を学んだニューカッスル大学(英国)の先生から、パレットナイフで直接キャンバスに描くことを教わり、その後グローヴァーにとってパレットナイフ描画がトレードマークとなっていった。1974年にはオハイオ州立大学(米国)で博士号を取得し、帰国後はクマシの母校で教授として後進の指導にあたった。
ガーナは、他のアフリカ諸国に比べてかなり早く1930年代に美術大学が開設され、国家の独立も1957年とサハラ砂漠以南のアフリカでもっとも早かった。グローヴァーは、ガーナでは、独立を挟む時期に美術界の一線で活躍していた第一世代の次の第二世代にあたる。新生ガーナの勢いにそのまま押し出されるようなかたちで、欧米に留学したのではないか、と川口氏は言う。
グローヴァーは、ガーナの彫刻家ヴィンセント・アクウェテ・コフィ(1923-1974)や、ナイジェリアの美術家ブルース・オノブラクペヤ(1932-)など、多くの芸術家からインスピレーションを得て、西アフリカのアートシーンで精力的な活動をしてきた。《タウン・パノラマ》に見られる市場シリーズのほか、イスラム教のモスクで一心不乱に祈るムスリムたちの群像や、お祭りの行列に集う群衆、デモ行進する都会の群集などを描いた絵画で知られる、波動する色彩の画家である。
グローヴァーは、ガーナの芸術賞最優秀賞のフラッグスター賞や、ロンドンの王立芸術協会ライフフェローでもあり、ユネスコの本社やシカゴのオヘア国際空港などのパブリックコレクション、また日本の高円宮家をはじめ世界の名門個人コレクターにも収集されており、ガーナのみならず欧米でも数多くの展覧会が開かれるなど、国際的にも評価を得ている。川口氏は「美術の分野で独立直後の時代を支えたエリートで人柄も大変円満な方だ。忘れがたい人」と述べた。グローヴァーの生誕85年を記念する展覧会「ABLADE GLOVER Wogbe Jeke - We Have Come a Long Way」がロンドンのオクトーバーギャラリーで開催(2019年7月4日~8月3日)された。
【タウン・パノラマの見方】
(1)タイトル
タウン・パノラマ。英題:Town Panoramic
(2)モチーフ
ガーナにある西アフリカ最大級のクマシの市場。
(3)制作年
1994年。
(4)画材
綿布、アクリル。
(5)サイズ
縦148.6×横148.6cm。正方形。
(6)構図
市場を俯瞰した構図であるが、画面下から上へと徐々に離れていく遠近感も出ている。
(7)色彩
オレンジ、ピンク、黄色、黒など多色。明るく柔らかな色彩。
(8)技法
柔らかな色彩ながらフォーヴィスム
の様式。下描きなく直接描き始め、重ね塗りをし、混色した絵具の層を形成することで、複雑な画面の表情にスピード感を与えている。パレットナイフを用いた凹凸のある粗いタッチで、密集する露天商のトタン屋根を、色とりどりの小さなひし形で表し、遠近法を考慮して画面全体を埋めている 。(9)サイン
画面左下に、黒で「94 glo」とタッチに紛れ込ますような縦長の署名
。(10)鑑賞のポイント
歴史の名残を色濃くとどめた落ち着いた佇まいの古都クマシにある市場の賑わいを俯瞰した大画面。クマシは首都アクラから北西へ200キロメートル離れ、標高は約250メートルで内陸に位置することから朝晩はやや涼しい。ガーナではアクラに次ぐ第二の都市である。市内の中心部にはかつて繁栄していたアシャンティ王国(1670-1902)の宮殿がそびえ、そのすぐ近くに広がる巨大なすり鉢状のくぼ地にクマシ市場
がある。《タウン・パノラマ》は、その市場の一部を切り取り、そのまま画面全体に拡げ、絵具をチューブから直接パレットナイフで掬い取っては画面に刻み表わした。無数のトタン板の屋根と、その下に集まる多くの人々が織りなす熱気と生命力を丸ごと画面に描き込んでいる。民主運動によってイギリスの植民地時代を超えて1957年に独立したガーナ。固有のアイデンティティを求め、日常目にする市場の情景を、画家は自らの存在の拠りどころとして描出した。抽象とリアリズムのあいだで揺れるように、色彩豊かな風景画は、微妙に震えつつパワーを発揮し続ける。人間集団が放つエネルギーは尊く、ガーナを象徴している。
情念と巨大なエネルギー
《タウン・パノラマ》を所蔵する東京・世田谷美術館の塚田美紀学芸員は、「“アフリカ”というと強烈な原色がイメージされがちだが、グローヴァーの《タウン・パノラマ》は、強烈な原色というよりむしろ中間色を巧みに使っているのが印象的。一種の柔らかさ、それでいて活気を感じさせる魅力がある」と述べている。
《タウン・パノラマ》は、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)から影響を受け、モダン・アートの巨人のひとりモーリス・ド・ヴラマンク(1876-1958)のフォーヴィスム様式を取り入れたと川口氏は見ている。また、斜めの線を入れない遠近感の表現力は、基本に裏打ちされている、と述べた。
グローヴァーにとって日常風景であるクマシ市場は、幅約300メートル、奥行き1キロメートルほどで、川口氏の知る限りアフリカで最大の市場だそうだ。トタン屋根の小さな屋台で埋め尽くされ、遠くから離れて見ると、巨大なモザイクのように市場が見えるという。実際にこの市場へ入っていくと、食品から衣類、日用品まで、生活用品が所狭しと並び、売り子の声、客の殺気走った目、魚や肉を焼いて立ち込める煙、匂い。そこを人、人、人がびっしり行き交う。しかも上を仰げば、熱帯の太陽が頭を押さえつけるように照っていて圧倒され、むせ返るような熱気で息苦しくなってくるそうだ。
「人間の集団が放つエネルギーを生け捕りにして描きたい」とグローヴァーは語っている。《タウン・パノラマ》は絵具のタッチが微動するかのように、人の集団がつくり出す熱気、大地が盛り上がるような人々のパワー、群衆が織りなす精神的なエネルギーを発する。川口氏は人々の情念と巨大なエネルギーを感じるという。
国民文化のシンボル
今月末に日本政府が主導して、アフリカ諸国の首脳を招き、多様な気候・歴史・民族が共存するアフリカ大陸の開発に関する最大規模の国際会議「第7回アフリカ開発会議(TICAD7)」(2019年8月28日~30日)が横浜市で開かれる。
川口氏は「アフリカの諸国は1960年代に相次いで独立するが、ガーナはそれより少し早い1957年に独立していた。しかし、どの国でも直面したのが、ナショナルカルチャー、国民文化を、どのように築き上げていくかという問題だった。それまで植民地として、主権を有しない属領地だったため、国民という概念がアフリカの人々には存在しなかった。イギリスの一部だったガーナも新たに国民という概念を立ち上げなければならなかった。国家の揺籃期に絵画としては、何がナショナルなのか。この問いに対する回答としてアフリカのどこの国でも行なわれたのが、もともとあった絵や造形を拠りどころとしながら、それらを現代的に翻案していくことだった。グローヴァーは、繰り返し繰り返し市場を描いている。市場を国民文化の手がかりというか、記号あるいはガーナのシンボルにしたかったのだろう。グローヴァー自身のアイデンティティの中核(コア)もクマシだと思う」と語った。
人類が誕生したアフリカのアートを鑑賞し、アフリカのさまざまな課題に向き合い、声を聞くことは、希望を感じさせ、人生を切り拓いていくことにつながっているのかもしれない。クマシ市場を描いた柔らかな光が降り注ぐ《タウン・パノラマ》には、人間がきらめき続ける活力が宿っている。
川口幸也(かわぐち・ゆきや)
アブラデ・グローヴァー(Ablade Glover)
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参考文献