アート・アーカイブ探求

イヴ・クライン《モノクローム IKB 65》──神秘の永遠「建畠 晢」

影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)

2020年12月15日号

※《モノクローム IKB 65》の画像は2020年12月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。


地球の色

生命の起源・水の起源を求めて、地球から直線距離にして3億キロの小惑星「リュウグウ」の砂を採取した探査機「はやぶさ2」のカプセルが2020年12月6日、オーストラリア・ウーメラに着地した。大気圏で流星のように光の尾を引きながら落下するカプセルの様子を、国際宇宙ステーションの野口聡一宇宙飛行士は見ていたという。暗い宇宙に浮かぶ70%が水で覆われている青い地球は、ゴロゴロとした岩だらけのリュウグウと比べても奇跡的な天体なのだろう。

海の青、空の青は人を元気づけ、心に残る地球の色。しかし、その青色を手でつかむことはできない。青色とはいったい何なのだろう。イヴ・クラインの青い絵画《モノクローム IKB 65》(豊田市美術館蔵)を探求してみようと思った。

見ていると引き込まれそうになる全面青一色の絵画。癒される香りのするような深い群青色は、インターナショナル・クライン・ブルー(International Klein Blue:IKB)と命名され、絵具の物質性から解き放たれた青色だけが存在している。白い板にのったキャンバスの青い世界に満たされ、静かに気持ちが落ち着いてくる。

埼玉県立近代美術館の館長で詩人でもある建畠晢氏(以下、建畠氏)に、《モノクローム IKB 65》の見方を伺いたいと思った。建畠氏の専門は近現代美術で「聖性を帯びた深い無──イヴ・クラインの青について」(『國文學』通巻733号、學燈社、2006)を書かれている。多忙ななか、埼玉県立近代美術館で話を伺うことができた。



建畠 晢氏

詩人と美術館人のクロスオーバー

建畠氏は、埼玉県立近代美術館館長をはじめ、多摩美術大学の学長でもあり、草間彌生美術館館長、全国美術館会議会長、美術評論家といった多くの要職に就いている。しかも建畠氏は若い頃から詩人である。その幅広い社会的対応力は、詩人のイメージを根底からひっくり返す。

建畠氏は、1947年京都市に生まれた。純粋で非妥協的な彫刻家の父(建畠覚造。1919-2006)と彫刻家となる兄(建畠朔弥。1944-)がいて、建畠氏は無口な子供として小学校3年生まで京都御所の横にある医者の家系の母の実家で育った。文字が読めるようになってからは、講談社や岩波書店の少年文庫を読み、山本有三の『路傍の石』を読んで小説家になることに目覚めたという。しかし文学青年だった建畠氏は、大学受験期になり物理学者の湯川秀樹(1907-81)の自伝の影響もあって、数式の載った欧文の学術誌を理解できないまま見て物理学の世界にも憧れた。

祖父も父も兄も東京藝術大学卒。二人いる叔父も藝大の建築科卒で、いとこも藝大の日本画卒と、ぐるりと見渡せば芸術一家の特殊な家庭環境で育った建畠氏は、悩んだ末、早稲田大学の仏文学科へ入学し、平岡篤頼(とくよし)先生に学んだ。平岡先生は芥川賞の候補にもなった先生で、小説家の小川洋子や堀江敏幸、角田光代らを教え子にもつ。卒業後はフランスへ留学する予定だったが、友人が勝手に出した応募書類によって、新潮社へ就職することになった。『芸術新潮』の編集部に配属され、編集の現場を踏まえ徐々におしゃべりになり、「美術館ができるまで」というコラム記事を書いていた。当時美術館が新設されることは珍しく、文化庁に「国立国際美術館設立準備室」ができたときで、興味があって取材をしていた。偶然、知っている文部官僚の人と出会い、設立準備室の室長から来ないかと誘われて美術館の世界へ入った。

1977年に国立国際美術館の学芸員になり、その後「多摩美に来ないか」と誘われ、1991年多摩美術大学の美術学部芸術学科助教授、教授を務めた。また「戻って来ないか」と声が掛かり、2005年国立国際美術館館長、その館長就任中に「京都芸大の学長に」と乞われて2011年京都市立芸術大学学長と、国立国際美術館の元館長との縁で埼玉県立近代美術館館長を兼任する。2015年には京都芸術センター館長と多摩美術大学学長、2017年には、1970年代からずっと天才KUSAMAを支援してきたこともあり、草間彌生美術館館長も引き受けて現在に至っている。

「頼まれるとホイホイ行ってしまういい加減な性格」と、あっけんからんと自己評価を下す非凡な建畠氏。懐の深さの陰には経験に裏打ちされた感性と、重層的な豊かさが滲む。詩人と美術館人の自覚をもって、文学と美術という二つのジャンルがクロスオーバーする領域の可能性を専門的に見出し、具体的、現実的に拡大していきたいという。

柔道と絵画

建畠氏は、イヴ・クラインについて、非常にピュアな天才で聖なる画家であるが、限りなくいかがわしい画家でもあると語った。「聖性って元々いかがわしいもの。ありがたいと思えばありがたいっていう話だから根拠がない。聖性といかがわしさは表裏一体を成している」。

クラインの両親は、ともに画家であった。オランダ系マレーシア人の父フレデリック・クラインと、母のマリー・レイモンドはフランス人で、1928年母の故郷である風光明媚なフランス南東部の地中海に面したニースに生まれた。ニースの国立商船学校、国立東洋語学校に学び、叔母のローズ・レイモンドの本屋で働いていた。

1947年、19歳で柔道を習い始めたクラインは、そこで彫刻家アルマン・フェルナンデスや、詩人のクロード・パスカルと仲間になる。二十歳になったクラインは、1948年パスカルとともに秘密結社「薔薇十字会」に入り神秘思想を得て、その翌年にかけ西ドイツで兵役に就いた。1949年ロンドンの額縁店で働き、手で触れられる色彩物質である粉末状の純粋な顔料に惹かれた。1951年にイタリアとスペインを旅行。1952年24歳のとき来日し、美術評論家の植村鷹千代(1911-98)や画家の山口正城(1903-59)の家に15カ月間滞在した。力士の手形や魚拓、広島の原爆に影響を受け、講道館で柔道を学び、翌年には四段が与えられた。

1954年ヨーロッパに戻り、スペイン国立柔道連盟の技術指導者になった。同年マドリードでモノクローム(単色)絵画の画集『イヴ・絵画』を発刊し、パリでは『柔道の基礎』も刊行した。1955年パリのクラブ・デ・ソリテールで初個展を開催する。1956年には「イヴ、モノクロームの提案」展(コレット・アランディ画廊)。1957年はミラノで「青の時代」展を開き、青のモノクローム絵画を発表した(アポリネール画廊)。また同年の個展では1001個の青い風船を用いた《気体彫刻》や《スポンジ彫刻》《1分間の火の絵画》なども展示した。

「ヌーヴォー・レアリスム」

1958年30歳のクラインは、パリのイリス・クレール画廊で、画廊の外側を青く塗り、内側には何もおかずにすべてを白く塗り、空虚だけを展示して見せた伝説的な個展「空虚展」(正式名称は「第一物資の状態における感性を絵画的感性へと安定させる特殊化」展)を開催。11月には同画廊で「イヴ・クラインとジャン・ティンゲリー、純粋速度とモノクロームの不動性」展。ドイツのゲルゼンキルヒェン歌劇場の装飾に着手し、同時に《空気の建築》を構想する。1959年ソルボンヌで「非物質的なものへ向かう芸術の展開」と題した講演をし、第1回パリ青年ビエンナーレに参加。『芸術の問題の超越』(ベルギー)を刊行した。

1960年パリの国際現代芸術画廊にて、クラインが作曲したモノトーン・シンフォニーの演奏裏に「青の時代のアントロポメトリー(人体測定)」を実演。インターナショナル・クライン・ブルー(IKB)の特許を登録する。キャンバスを自然の風雨などにさらした絵画「コスモゴニー」を制作。美術批評家ピエール・レスタニー(1930-2003)が宣言した「ヌーヴォー・レアリスム★1」に、クラインらのヌーヴォー・レアリストが署名し、結成式を開く。また空中に身を投じた写真を掲載した一日だけの新聞『Dimanche(ディマンシュ、日曜)』(11月27日付)を発行した。

1961年33歳、ドイツのハウス・ランゲ美術館で初回顧展を開催。アメリカで初めての個展をレオ・キャステリ画廊で開いた。グァルティエロ・ヤコペッティ監督の映画『世界残酷物語』に《人体測定》が収録される。《火の絵画》《惑星レリーフ》を制作。戦後の美術を「ゼロ」から始めようとしたドイツの前衛美術集団「グループ・ゼロ」に参加する。

1962年1月ドイツ人の彫刻家ロトラウト・ユッカーと結婚。5月カンヌ映画祭における『世界残酷物語』の上映に際して、《人体測定》実演のために招待された。ところがクラインが登場したシーンはカットされ、編集に激怒し、上映のあとクラインは心臓発作を起こす。6月6日再び心臓発作に襲われパリで死去、享年34歳。ニースに近いラ・コル゠シュル゠ルーの墓地に眠る。その年の8月、息子のイヴがパリで生まれた。



★1──現代社会の環境を、新しくつくり出された自然とみなし、大量生産や廃棄物を用いて新しい現実主義の美術作品を提示しようと結成された前衛美術の集団・芸術運動。


【モノクローム IKB 65の見方】

(1)タイトル

モノクローム IKB 65(ものくろーむ あいけーびー ろくじゅうご)。英題:Monochrome IKB 65

(2)モチーフ

青一色。

(3)制作年

1960年。

(4)画材

顔料・合成樹脂・キャンバス・合板。

(5)サイズ

縦199.0×横152.5cm。

(6)構図

縦型で正面性の強い構図。

(7)色彩

青。青空のような、クライン自身が名命したインターナショナル・クライン・ブルー(IKB)。

(8)技法

顔料の細かい凹凸はあるが、色面をローラーによってフラットに塗ったクライン独特の制作法。キャンバスよりひと回り大きい白い板に、IKBのキャンバスが取り付けられている。

(9)サイン

裏面に「Yves Klein」の署名。

(10)鑑賞のポイント

青色の鮮やかな発色と顔料の凹凸により、物質としての青色の世界が迫ってくる。光沢のない青色は、空虚に白く塗られた板に支えられ、ミスティシズム(神秘主義)の扉として目から精神へ、精神から目への往復運動を作動させる。青一色のモノクロームの画面をIKBと名づけたクラインは、青空のような非物質性を絵画化した。可視的な物質としての青色であると同時に、感性にのみ対応する非物質の世界でもあり、物質で成り立つこの現実世界から私たちの感性を自由に解放しようとしている。原初としての青は普遍となり、中心にして生成変化をし続ける無限の広がりを想起させる源泉となる。観ている者の体内と空間にも深みのある青が広がっていく。時代性を超えたイヴ・クラインの代表作。


マラルメに呼応した青空

建畠氏は、フランス象徴派を代表する詩人でステファヌ・マラルメ(1842-98)と、クラインの色彩にまつわる思想が背中合わせに呼応していると語る。

「『蒼空』でマラルメは『永遠の蒼空の晴れ晴れとした皮肉』が『私の虚しい魂を/見すえる』と嘆いた後に、『濃霧を立ち昇れ(……)そして沈黙の大天井を築け!』『大空は死んだ(……)おお、物質よ、無慈悲な理想と罪の忘却を』と一旦は青の支配を退けようとする。しかし結局は『駄目だ! 蒼空が勝った。(……)私たちをことさらに怖じけさす音色が、青い/お告げの鐘となって生々と金属から流れでる』と言い直さざるをえないのである。『私につきまとうもの。蒼空、蒼空、蒼空、蒼空!』(『マラルメ詩集』加藤美雄訳、弥生書房、1966年)」(建畠晢『國文學』p.61)。

「マラルメの散文詩のなかで、マラルメはえも言われぬ美人のイメージを『わが想像力のトロフィー』という。その夢のなかのトロフィーを現実に持って帰ろうとするが、現実に触れると崩れ去ってしまう。不可能な美しさを表現した。感性、感覚だけで捉えられる美しさ。逆に言うと、美しさには根拠がない。空虚と言ってもいい。空虚の上に成り立った美しさ。観念の世界だけで成立する美しさ。物質性に依拠しているのではなく、感性の世界だけで神秘的に成立する空間。それが《モノクローム IKB 65》のマラルメ的なところだ」と建畠氏は言う。

特許登録IKB

インターナショナル・クライン・ブルーの略号IKBを「イー・カー・ベー」とフランス語で読む建畠氏は、「神秘的な謎と理知的な明晰さが詐術のように結び付いた特異なメタファーとして、夢想へと誘う商標のような言葉だ」という。

クラインが単色絵画であるモノクロームの着想を得たのは1947年とされている。その年、柔道仲間のパスカルとアルマンとクラインの三人はニースの海岸へ行き、宇宙を三分割することに決め、詩人のパスカルが植物界を、彫刻家のアルマンが動物界を取ったのに対し、クラインは全宇宙の空の青としての鉱物界を取った。建畠氏は「鉱物界の青とは、まさにフェルメールらが使った粉末顔料、ラピスラズリのウルトラマリンブルーということになろう。大地の鉱物界に宿る青が空の青であり、ウルトラマリンの字義に即せば海路を運ばれてくる青でもあってみれば、クラインはいかにもIKBによって自らの出発点で宇宙と地球とをすでに全所有していたわけである」(建畠晢『國文學』p.60)と述べている。

クラインは1960年5月インターナショナル・クライン・ブルー(IKB)の特許を取得した。溶剤の種類と割合、顔料の混ぜ方、塗り方、支持体の素材など記載して特許番号「63471」を登録。観念としての色彩と現実の色彩とを結ぶものであり、その等号を普遍的に成立させるために特許による保証が必要だったと建畠氏。IKBは現実の物質の上に依拠しているのではなく、観念の世界において制度的、法的に保証しようとしたという。

画家の松田千草(1955-2010)は「人工ウルトラ・マリンの発見のおかげで、画家イヴ・クライン(1928-1962)はインターナショナル・クライン・ブルーを作ることができたと言える。彼は顔料を油で練ることを嫌い、顔料の粒子をなるべくそのままで定着できる結合剤の特許を取得して、約200点のモノクローム・ブルーの作品を制作した」(松田千草『色彩からみる近代美術』p.441)と記している。

クラインのモノクロームは、アメリカ抽象表現主義ミニマリズムコンセプチュアル・アートと比較して論じられることがあるが、建畠氏は「イヴ・クラインはミスティックで、観念的で、文学性があるのがオリジナル。フラットな作品に関する限り行き着いた究極の絵画」と言い、「《モノクローム IKB 65》は無機的でも無限の空を感じる素晴らしい作品だ」と語った。宇宙の原理にまで遡ろうとする高さ2メートルの青一面の縦型絵画が、超越性、崇高さ、神性などを帯びて祈りの対象にも見えてくる。



建畠 晢(たてはた・あきら)

詩人、美術評論家、多摩美術大学学長、埼玉県立近代美術館館長、草間彌生美術館館長、全国美術館会議会長。1947年京都市生まれ。1972年早稲田大学文学部仏文学科卒業、同年新潮社入社。1977年国立国際美術館研究員、1991年多摩美術大学美術学部芸術学科助教授、1995年同大学教授、2005年国立国際美術館館長、2011年京都市立芸術大学学長、同年より埼玉県立近代美術館館長、2013年より全国美術館会議会長、2015年京都芸術センター館長、同年より多摩美術大学学長、2017年より草間彌生美術館館長。専門:近現代美術。所属学会・協会:美術史学会、美術評論家連盟、日本文芸学協会など。主な受賞歴:第2回歴程新鋭賞(『余白のランナー』、1991)、第35回高見順賞(『零度の犬』、2005)、オーストラリア政府名誉勲章受章(2010)、第21回萩原朔太郎賞(『死語のレッスン』、2013)、文化庁創立50周年記念表彰(2018)。主な展覧会:ヴェネチア・ビエンナーレ日本館コミッショナー(1990、1993)、横浜トリエンナーレ芸術監督(2001)、「エミリー・ウングワレー展-アボリジニが生んだ天才画家」(2008)、あいちトリエンナーレ芸術監督(2010)、東アジア文化都市2017京都「アジア回廊 現代美術展」芸術監督(2017)。主な著書:『問いなき回答 オブジェと彫刻』(五柳書院、1998)、『未完の過去 絵画とモダニズム』(五柳書院、2000)など。

イヴ・クライン(Yves Klein)

フランスの画家。1928-62年。父ブレッド・クラインと母マリー・レイモンドがともに画家という両親のもとにニースで生まれる。ニースの国立商船学校、国立東洋語学校で学ぶ。絵画は独学。1947年柔道を習い始め、彫刻家アルマン・フェルナンデスと詩人クロード・パスカルに出会い、柔道と芸術を語り合う仲間となる。シャツにモノタイプで手や足のプリントを始める。1948年薔薇十字団に入り神秘思想を得る。1949年ロンドンの額縁店で働く。1952年来日し、講道館で柔道を学び、翌年には四段となる。1954年帰国後スペインへ赴き、柔道連盟の技術の主任コーチとなる。画集『イヴ・絵画』をマドリードで、『柔道の基礎』をパリで刊行。1955年パリのクラブ・デ・ソリテールで初個展「イヴ・絵画」。1956年「イヴ、モノクロームの提案」展(パリのコレット・アランディ画廊)。1957年青のモノクローム絵画をミラノのアポリネール画廊で発表。1958年「空虚」展(パリのイリス・クレール画廊)。1959年第1回パリ青年ビエンナーレに参加する。『芸術の問題の超越』(ベルギー、モンブリアール出版)を刊行。1960年「青の時代のアントロポメトリー(人体測定)」をパリの国際現代芸術画廊で実演。“インターナショナル・クライン・ブルー(IKB)”の特許登録。「ヌーヴォー・レアリスト」宣言書に署名。一日だけの新聞『Dimanche』(11月27日付)を発行。1961年アメリカでの初個展(レオ・キャステリ画廊)。映画『世界残酷物語』に《人体測定》が収録。《火の絵画》《惑星レリーフ》を制作。1962年1月ロトラウト・ユッカーと結婚。同年6月6日に心臓発作によりパリで死去。享年34歳。主な作品:《モノクローム IKB 65》《非物質的絵画的感性領域の譲渡》《人体測定》《空虚への跳躍》《火の絵画》など。



デジタル画像のメタデータ

タイトル:モノクローム IKB 65。作者:影山幸一。主題:世界の絵画。内容記述:イヴ・クライン《モノクローム IKB 65》1960年、顔料・合成樹脂・キャンバス・合板、199.0×152.5cm、豊田市美術館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:豊田市美術館、ADAGP(La société française de gestion collective des droits d’auteur dans les arts visuels)、日本美術著作権協会、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Jpeg形式6.50MB(400dpi、8bit、RGB)。資源識別子:KLEIN(4.78M).tif(Tiff、7.87MB、400dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールあり)。情報源:豊田市美術館。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:豊田市美術館、ADAGP、日本美術著作権協会、(株)DNPアートコミュニケーションズ。



【画像製作レポート】

《モノクローム IKB 65》の画像は、作品を所蔵する豊田市美術館へメールで依頼した。「作品画像借用申請書」と著作権の許諾が必要とのことで、日本美術著作権協会へトリミングなし、指定クレジットを表示し、1年間の掲載で、著作権使用料8,000円を支払い申請。後日発行された「著作権使用許諾書」と共に「作品画像借用申請書」を作成し、メールに添付して豊田市美術館へ申請した。数日後、郵送されてきた「作品画像の掲載許諾書」を受け取り、作品画像のURLが記載されたメールが届いた。画像をダウンロードして入手(Tiff、7.87MB、400dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールあり)。作品画像の掲載は1年間。
iMac 21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって、モニターを調整する。所蔵館のWebサイト上にある作品画像やカラーガイド、書籍の画像を参照しながら彩度と明度を調整(Jpeg、6.50MB、400dpi、8bit、RGB)。キャンバス上の絵具の粒子を見たかったが、見ることはできなかった。作品画像は解像度の大・中・小のサイズのほか、部分拡大図や側面・裏面画像、赤外線画像など、一作品に数種類の画像を揃えておくとデジタルならではの多面的な見方ができてよいだろう。所蔵品を撮影するルールや基準を明文化すれば画像を管理するにも、また画像を見る方にとっても新たな視点が広がりよいと思う。モニター表示のカラーガイド(Kodak Color Separation Guide and Gray Scale Q-13)は事前にスキャニング(brother MyMiO MFC-620CLN、 8bit、600dpi)。
セキュリティを考慮して、高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」を用い、拡大表示を可能としている。



参考文献

・東野芳明「イヴ・クラインあるいはI.K.B航海誌」(『みづゑ』No.748、美術出版社、1967.5、pp.9-19)
・宮川淳「イヴ・クラインその言葉 モノクロームの商法」(『美術手帖』No.304、美術出版社、1968.11、pp.54-57)
・『Gallery』10巻8号(フジテレビギャラリー、1979.10)
・『美術手帖』No.456(美術出版社、1979.11)
・図録『イヴ・クライン展』(高輪美術館・滋賀県立近代美術館・いわき市立美術館・西武美術館・朝日新聞社、1985)
・図録『イヴ・クライン展』(Yares Gallery/フジテレビギャラリー、1986)
・『版画芸術』No.53(阿部出版、1986.5)
・小林康夫・建畠晢編『現代アート入門 〈今〉に出会う歓び』(平凡社、1998)
・建畠晢「聖性を帯びた深い無──イヴ・クラインの青について」(『國文學:解釈と教材の研究』51巻2号(通巻733号)、學燈社、2006.2、pp.58-63)
・松田千草「色彩に寄りそって──絵具とヴァルール」(『色彩からみる近代美術 ゲーテより現代へ』前田富士男編、三元社、2013、pp.441-455)
・三浦篤『まなざしのレッスン 2西洋近現代絵画』(東京大学出版会、2015)
・Webサイト:加治屋健司・池上裕子(インタビュアー)、水口鉄人(書き起こし)「建畠晢オーラル・ヒストリー 2008年3月25日」(『日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ』2012.6.2)2020.12.4閲覧(http://www.oralarthistory.org/archives/tatehata_akira/interview_01.php
・Webサイト:「YVES KLEIN PAINT SET」(『RESSOURCE』)2020.12.4閲覧(https://ressourcepaints.us/products/yves-klein-deep-matte
・Webサイト:『Yves Klein』(R.U.K.)2020.12.4閲覧(http://www.yvesklein.com/
・Webサイト:「コレクション イヴ・クライン《モノクローム IKB 65》」(『豊田市美術館』)2020.12.4閲覧(https://www.museum.toyota.aichi.jp/collection/yves-klein



掲載画家出身地マップ
※画像クリックで別ウィンドウが開き拡大表示します。拡大表示後、画家名をクリックすると絵画の見方が表示されます。

2020年12月

  • イヴ・クライン《モノクローム IKB 65》──神秘の永遠「建畠 晢」