アート・アーカイブ探求
ギュスターヴ・モロー《出現》──崇高と混淆「喜多崎 親」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2021年07月15日号
※《出現》の画像は2021年7月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
生首と妖艶な女性
東京に4度目の緊急事態宣言(7/12-8/22)が発令された。東京オリンピック(7/23-8/8)は開催されるが、首都圏1都3県と福島、北海道の会場では異例の無観客となった。安心・安全の大会を目指してきた政府だが、東京の一日の感染者数が1,000人に迫る増加傾向にあり、「平和の祭典」は、人々の交流を遮断させるコロナ禍のなか、不安の五輪となった。変異しながら生き延びる、目に見えないコロナのしぶとい強さを感じる。
見えないものを信じている画家がいる。フランスの画家ギュスターヴ・モロー(1826-98)である。「あなたは神を信じますか。私は彼しか信じない。私は触れるものも見えるものも信じない。私は見えないもののみを、感じるものだけを信じる」(隠岐由紀子『ギュスターヴ・モロー』東京美術、p.3)。モローの代表作、水彩画の《出現》(オルセー美術館コレクション/ルーヴル美術館 版画素描部門蔵)は、生首が宙に浮く異様で衝撃的な絵だ。
《出現》は演劇中の一場面なのか。きらびやかで妖艶な衣装を身にまとった女性が指し示す目を開いた頭部は、首から滴り落ちるどす黒い血だけが、リアルで現実感がある。出現した首は何を暗示しているのだろう。モローは何を描いたのか。
19世紀フランス美術史を専門とする、成城大学文芸学部教授の喜多崎親(ちかし)氏(以下、喜多崎氏)にモローの《出現》の見方を伺いたいと思った。喜多崎氏は近代の宗教画や象徴主義に詳しく、著書『聖性の転位 一九世紀フランスに於ける宗教画の変貌』(三元社、2011)や、展覧会「ギュスターヴ・モロー」展(国立西洋美術館ほか、1995)を企画・執筆されている。東京・世田谷の成城大学へ向かった。
水彩画を求めて
小田急線の成城学園前駅から徒歩4分、銀杏並木のある住宅街に成城大学がある。文芸学部の共用研究室へ着くと、すぐに目の合った方が喜多崎氏だった。喜多崎氏は1960年東京に生まれた。生物と本が好きだった少年時代、怪獣映画などの撮影監督をしていた父親に連れられて、撮影所のスタジオへよく遊びに行ったという。運動よりも読書が好きで、図鑑や小説を読みながら美術がしだいに面白くなってきたそうだ。
西洋美術に興味を持ったのは高校生のとき。美術も歴史も好きだったという喜多崎氏は美術史という学問があることを知り、モローやオディロン・ルドン(1840-1916)と出会う。ちょうど澁澤龍彦(1928-87)などが現われていた頃で、神話や聖書も好んで読んでいた喜多崎氏は、モローを研究するのも面白そうだと思った。
早稲田大学第一文学部美術史学に入学し、修士、博士課程へと進学。大学院では4世紀末から15世紀半ばの1000年にわたり中世美術史の一翼を担い、ヨーロッパ美術の形成に影響を与えたビザンティン美術を専門とする髙橋榮一(1932-2007)先生に師事し、19世紀の宗教画で博士論文を書く基本を学んだ。喜多崎氏は、卒論も修士論文もモローについて書き、一貫して象徴主義
関連で研究を続けている。喜多崎氏が初めて実物の《出現》を見たのは、大学3年生のときだった。初めてのパリで、ルーヴル美術館を訪れた。案内所でモローの水彩画について尋ねると、「あなたはモローを研究しているの」と訊かれた。戸惑いながらも「はい」と喜多崎氏が答えると「ちょっと待ってね」と電話を掛け、切ると「ライオン門というところを入っていくと、デッサン室があるので、そこで話をして」と言われた。行ってみると学芸員がおり、名簿に名前を書くと「何を見たいの」と問われて、「モローの水彩画」と言うと、次々に机の上に並べてくれた。《出現》は大きい作品のため、額装されて収蔵庫の金属格子の引出し絵画ラックに掛けられていた。「描き込みがすごいと思った。色は全体的に思っていたよりも、うす茶っぽく感じた」。そして、紹介状も持たず、突然訪ねた極東の学生に対応してくれた寛容さに驚き、喜多崎氏は文化大国を実感したという。
喜多崎氏は1988年、国立西洋美術館の研究員となった。文部省在外研究員として1年間オルセー美術館に在籍し、1995年「ギュスターヴ・モロー」展を企画担当した。その後一橋大学大学院教授を経て、2011年より成城大学の教授に着任している。
サロン無審査の画家
ギュスターヴ・モローは、1826年パリのサン=ペール街の裕福な家庭に生まれた。父ルイ・モローは国立美術学校で学んだ建築家で、母ポーリーヌは地方地主の娘でドゥエー市長を務めたこともあり、音楽的才能に恵まれたよきモローの理解者であった。1歳年下に妹カミーユがいる。モローは8歳で素描を習い始め、10歳になるとロラン中学の寄宿生になったが、身体が弱く学校になじめず、14歳のとき妹カミーユが亡くなり家に戻った。翌年モローは母親や親類とイタリア各地を旅し、素描を残した。
1844年18歳、バカロレア(大学入学資格)を取得。父は息子が画家になることを認め、モローは新古典主義の画家フランソワ=エドゥアール・ピコ(1786-1868)のアトリエに通う。1846年国立美術学校に合格。1848年ローマ賞コンクールへ参加したが、二次選抜で落選。ロマン主義
の画家テオドール・シャセリオー(1819-56)の壁画に感銘を受ける。翌年再びローマ賞に挑戦したが、最終試験で落選した。国立美術学校を退学、ロマン主義を確立したウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)やシャセリオーに傾倒し、独学で研鑽を積んだ。1852年、歴史画ピエタ》が初入選。1855年にはパリ万国博覧会に《クレタ島の迷宮にいるミノタウロスに捧げられたアテネ人達》を出品。1857年私費で約1年間ローマに滞在し、友人の画家ド・クルシーと共にイタリアを旅行。昼はルネサンス期の名画の模写、夜はローマの「ヴィラ・メディチ」でデッサンに取り組んだ。留学生の画家エドガー・ドガ(1834-1917)と知り合った。1860年34歳頃、つましく家庭教師をしていたアレクサンドリーヌ・デュル(1836-90)と出会い、恋人となった。
家として官展サロンへ出品した《1864年サロンで《オイディプスとスフィンクス》が高く評価され、褒賞メダルを獲得。翌年皇帝ナポレオン3世の招きで、コンピエーニュ城に滞在。1866年サロン出品作《オルフェウス》が国家買い上げとなり、翌年リュクサンブール美術館に展示された。1867年パリ万国博覧会に《オルフェウス》など3作品を出品。1869年にはサロンに《プロメテウス》など4点出品し、3度目の褒賞メダルを獲得。以降、無審査でサロンへ出品できる画家となり、個人コレクターもついた。1870年、普仏戦争(1870-71)勃発で国防軍を志願するが、リウマチによる腕のしびれから除隊となった。1875年49歳、レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章を受章した。
唯一の個展は水彩画展
普仏戦争後の1876年、7年ぶりにサロンに復帰したモローは、油彩画部門に《ヘロデ王の前で踊るサロメ》(米国アーマンド・ハマー美術館蔵)と《ヘラクレスとレルネのヒドラ》(シカゴ美術館蔵)を、デッサン・下絵等の部門に水彩画の《出現》と《聖セバスティアヌス》(板・油彩、ハーバード大学付属フォッグ美術館蔵)を出品した。
喜多崎氏は「当初、モローは油彩画による《出現》(142.0×103.0cm、ギュスターヴ・モロー美術館蔵)をサロンへ出品する予定だったと思う。《ヘロデ王の前で踊るサロメ》(143.5×104.3cm、アーマンド・ハマー美術館蔵)とほぼ同じ寸法であり、対にして出そうとしていたが、制作が間に合わず、代わりに水彩画の《出現》を送り出したのだろう。水彩画というのは、もともと準備作で二次的に思われているが、水彩画が作品として台頭してきた時期で、この頃徐々に水彩画の関心が高くなり、水彩画家協会というのができていた。《出現》には主なものだけでも3点の油彩画のヴァリアントがある。ギュスターヴ・モロー美術館の未完成の作品と、フォッグ美術館と個人蔵の《出現》だ」と述べた。
1878年にはパリ万国博覧会に《ヤコブと天使》など11点を出品し、2等賞メダルを獲得。1879年美術愛好家アントニー・ルーの依頼により『ラ・フォンテーヌの寓話』挿絵の水彩画64点を描き始める。1883年レジオン・ドヌール勲章オフィシエ章を受章。1886年60歳、グーピル画廊後身の画廊で開催された生前唯一の展覧会には『ラ・フォンテーヌの寓話』挿絵の水彩画と、《聖なる象(ペリ)》(1882、国立西洋美術館蔵)などの水彩画が展示された。1888年美術アカデミー会員に選出。1889年パリ万国博覧会で美術部門審査員を務める。
親友エリー・ドローネー(1828-91)の後任として、1891年国立美術学校の臨時講師となり、翌年、正教授。ジョルジュ・ルオーやアンリ・マティス(1869-1954)ら多くの画家を育てた。1894年国立ゴブラン織工場から下絵依頼を受け、《詩人とセイレーン》を制作。胃癌の症状を自覚していたが、1898年4月18日死去。享年72歳。パリのトリニテ聖堂で葬儀、恋人アレクサンドリーヌ・デュルの墓に近いモンマルトル墓地に眠る。遺言により1903年、国立ギュスターヴ・モロー美術館開館。初代館長は弟子のルオーが務めた。
【出現の見方】
(1)タイトル
出現(しゅつげん)。英題:The Apparition
(2)モチーフ
サロメ、洗礼者ヨハネの首、ヘロデ王、ヘロディア王妃(サロメの母)、楽人、兵士、盆、香炉、花、偶像、宮殿。
(3)制作年
1876年。モロー50歳。
(4)画材
紙・透明水彩絵具。
(5)サイズ
縦106.0×横72.2cm。大判の一枚紙。
(6)構図
宮殿の壁面で包まれた画面は、平行垂直の安定した構築物の構図で、サロメの左手を境に左側には垂直に伸びる装飾柱や絢爛な意匠を凝らした事物を配し、右側には天井にアーチを施して神聖性を高め、左右対称の空間構造を整えている。
(7)色彩
青、赤、黄、緑、灰、茶、白、黒、金など多色。
(8)技法
水で溶かした絵具で彩色する水彩である。インドの細密画や写真、フランスで刊行された精密なイラスト雑誌『マガザン・ピトレスク』(1833-1938)などをイメージソースとしている。紙に鉛筆や木炭で下描きし、細い筆などで巧妙複雑に彩色。強調したい線は、幾度か描き入れ、絵具を厚くしている部分もある。サロメの衣装は、破壊と創造を司るヒンドゥー教の神シヴァに基本的なイメージを負っており、装飾品はインドやポンペイなどに取材したさまざまな模様を組み合わせている。また建築装飾においてもイスラム建築のアルハンブラ宮殿(スペインにある14世紀に完成した宮殿)、ビザンティン建築のハギア・ソフィア(トルコにある6世紀建造の聖堂)、獣頭のモチーフを付けた日本の香炉などを寄せ集め、想像のオリエントをつくり出し、いつのどこのものともわからない、しかし古代ローマ時代の東方を思わせる混淆様式を用いた。
(9)サイン
左下に金の文字で「-Gustave Moreau-」と署名。
(10)鑑賞のポイント
新約聖書の福音書にあるサロメの物語を題材に描いた、精緻で美しい絵画。ヘロデ王の宮殿で、王の前で見事に官能的な舞いを披露するサロメ。彼女のビジョン(幻視)として、イエスに洗礼を施した洗礼者ヨハネの首が現前し、女の無邪気が生む凄惨さを表わした。ヘロデ王の兄弟フィリポの妻であるヘロディアと結婚したヘロデ王に、ヨハネが「兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と言ったため、ヨハネは牢につながれていた。ヘロディアは、ヨハネを恨んで殺そうと思っていたが、できないでいた。ヨハネが聖人であることをヘロデ王が知って、ヨハネの言葉に耳を傾けていたためである。母親で王妃のヘロディアは娘のサロメをそそのかし、舞いの褒美にヨハネの首を願い出るように言う。モローの画面では、サロメだけが同心円状の光輪に囲まれ、空中に浮かんだ血の滴るヨハネの首と対峙しており、外の人たちはヨハネの首が見えていない。宮殿の壁面は繊細な浮き彫りに飾られ、青い柱の右側は壁を窪めて半ドーム形(壁龕〔へきがん〕)となり、偶像が安置されている。左側奥の玉座には、ヘロデ王がうつむいた横顔を見せ、その手前に王妃ヘロディアが、サロメの背後には弦楽器を手にした楽人が座る。右手には剣を手にした兵士が立ち、その足元にはヨハネの首をのせる予定の盆が、右隅の床の上には牛の頭を模した香炉が置かれ五感を刺激する。サロメは、右手を胸元に当て、左手は出現したヨハネを指す。爪先立った足を交差して体をひねり、素肌に豪華な装身具や帯をまとい、裸体に近い姿をして舞っている最中だと推測される。鮮やかな赤と青に彩られたこの空宙に浮かんだ首の画像に先例はなく、オリエントを感じさせる時空を超えたモローの独創性が光る傑作である。
いつのどこともつかない世界
「サロメと洗礼者ヨハネとの対比は、モローの独自性がよく表われている。モローはサロメを、母親に言われたからではなく、自ら首を求める、男を破滅させる女ファム・ファタル(宿命の女)へと変貌させた。オリエントの舞姫をモデルに、裸体に宝石をまとったサロメと、光輪に取り巻かれた首だけのヨハネには、官能と聖性、悪と善の対立が認められる」と喜多崎氏は述べる。
また、建築などの細部の描き込みも見どころだという。「フランスの作家ジョリス=カルル・ユイスマンス(1848-1907)が、著書『さかしま』(1884)のなかで《出現》を『いかなる時代においても、水彩画がこれほどの絢爛たる華やかさに達したことはないのであった』(p.84)と絶賛し、建築装飾についてスペイン南部グラナダの丘に建つ、イスラム建築のアルハンブラ宮殿に類似していると着目している。建築家ジュール・グーリー(1803-34)と建築家・デザイナーのオーウェン・ジョーンズ(1809-74)が出版した『アルハンブラ その平面、立面、断面と細部』(1842・1845刊行)では、獅子の中庭に面した列柱や、魚池の中庭の装飾の細部が確認でき、《出現》の画面左上の壁面レリーフや柱頭のモチーフは、アルハンブラ宮殿の意匠に基づいて描いたことがわかる。グラナダへ行ったことがないモローは、アルハンブラ装飾に魅了されただけでなく、当時ムーア人の王朝のもとで裁判なしの処刑など、歴史そのものが残虐なオリエントのイメージがあり、アルハンブラ宮殿は格好の絵の舞台であった。右端の香炉の上部には輪が下がり、下の方に牛のような獣頭が描かれているのは、モローのデッサン帖『東洋研究』の日本の青銅器のスケッチから発想を得ていると思う」と喜多崎氏。
さらにサロメの腰から腿の後ろに垂れ下がっている大きな宝飾品の細部。「上の花形の部分は、オーウェン・ジョーンズ編の『装飾文法』(1865)に掲載されたインドの飾り帯の先端中央の一部、その下の逆さになった両頭の蛇の輪は、雑誌『マガザン・ピトレスク』のポンペイ出土の腕輪、さらにその下の菱形をした複雑な装飾も同じ雑誌に掲載されたフランク時代(486-987)の装飾品二つを組み合わせたもの。モローはサロメの中身の力を暗示させるため、豪華な装飾品によって見えない力を見える形に表わした。神秘的な性格を持った、巫女や宗教的呪術師を想起させる衣装のためにさまざまな地域と時代からモチーフを選び、アッサンブラージュした。《出現》は、いつのどこともつかない建築様式や衣装によって、内面世界を描き出している」と喜多崎氏は語った。
象徴主義の先駆者
首を宙に浮かせているのはなぜなのか。喜多崎氏は浮世絵にヒントがあるのではないかと言う。「モローは、デッサン帖『東洋研究』に日本の浮世絵を模写している。元絵は同定できないが、類似の作例として三代豊国(歌川国貞、1786-1865)が1854年に描いた役者絵《廓操無間の鐘優(さとのみさおむげんのかねごと)》(東京都立図書館蔵)がある。中村富十郎が演じる梅かゑが、市川団十郎演じる恋人の梶原源太景季(かげすえ)のために手水鉢(ちょうずばち)を叩いて奇跡を起こしている場面で、梅かゑの左に丸い囲みで源太の大首絵(半身像)が描かれている。男性と女性の位置は《出現》とは逆だが、サロメが左を向いたデッサンもあり、類似が感じられる。女性の梅かゑと丸い囲いの中の源太は、別次元にいることをモローは理解していた。ヨハネの首は、現に宙に浮いているのではなく、サロメとは異なる次元に属する幻視であり、円に取り囲まれたヨハネの首はイコンとしても解釈できる」。
産業の発展と物質主義的、現実主義的な潮流にあった19世紀後半のフランスで、モローは幻想的な内面世界を描写し、真実を探究した。武蔵野美術大学教授の村上博哉氏は「象徴主義の芸術家たちは、人間の内面に生まれる神秘的な夢想や、目に見える事象を超えた絶対的な本質に関わる観念を表そうとした。19世紀末の美術界には、芸術の目的は感覚的形式を通じて観念を表すことにあるという象徴主義の思想とともに、線や色彩は対象の外形を超えて内面的なものを伝えるための『言葉』として利用すべきだという考え方が広められた」(村上博哉『西洋美術の歴史8 20世紀』p.84)と述べている。
モローは、シュルレアリストから見れば夢想家、モダニストから見ればフォーヴの師、また抽象の祖といった評価がなされてきた。線と色彩を乖離(かいり)させて描き、幻想性を獲得したモローは、絵画芸術を沈黙の雄弁と受け取り、頭のなかの理想像を象徴的・概念的に描くため、古代や神話に取材した普遍的なメッセージを込めて、細部にこだわり新しい歴史画に挑んだ。モロー自身は象徴主義者ではなかったが、その発想は象徴主義の先駆者として、後の世代に大きな影響を与えた。
喜多崎 親(きたざき・ちかし)
ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
全国美術館収蔵品サーチ「SHŪZŌ(しゅうぞう)」
参考文献