アート・アーカイブ探求
エミリー・カーメ・ウングワレー《ビッグ・ヤム・ドリーミング》──母なる大地「上田杏菜」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2022年11月15日号
対象美術館
※《ビッグ・ヤム・ドリーミング》の画像は2022年11月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
太古の大陸の記憶
東京・目黒川にかかる鎮守橋の上から皆既月食を見た。同時に太陽系の7番目にある微細な点のような天王星も月に潜入してまた出現する「天王星食」も起こるという。非常に珍しい神秘的な快晴の夜空だった。2022年11月8日20時頃、東の空を見上げると赤黒い丸い月が浮かんでいた。周りを見渡すと、暗闇の中でカメラを持った人たちが十数人、月を見ながら小声で話をしており、ほっこりとした連帯感があった。
地球に火星サイズの天体が激突し、その衝突により月が生まれたという説があるらしい。2014年にオーストラリア西部のジャックヒルズで、44億400万年前の鉱物が発見された。誕生から46億年の地球でもっとも古い大陸地殻だという。この新発見によって月の起源に関する新たな知見が出てくることが期待されているそうだ。その太古の大陸オーストラリアの絵画を探求してみたい。大陸の先住民であるアボリジニのエミリー・カーメ・ウングワレーの《ビッグ・ヤム・ドリーミング》(ナショナル・ギャラリー・オブ・ヴィクトリア蔵)である。
オーストラリア美術を代表する視覚芸術で、西洋とも東洋とも異なる独自の発展を遂げているアボリジナル・アート。なかでもエミリーの作品は、ヴェネツィア・ビエンナーレやアートオークションで国際的に名前が広まり、来年(2023)開催される「第14回光州ビエンナーレ2023」にも出品が予定されているなど、人気が衰えない。《ビッグ・ヤム・ドリーミング》は縦3メートル、横8メートルの壁画のように巨大な「体感する絵画」。芸術の基準ではなく、人類の基準での表現を考えさせられる、サイズも内容もスケールの大きな作品である。エミリーには色彩豊かで幻想的な作品も多くあるが、本作品は黒地に白い線のみ。しかし、シンプルにもかかわらず、作品に包まれているとさまざまな記憶が甦ってくる。
《ビッグ・ヤム・ドリーミング》の見方を、エミリーの作品《春の風景》を収蔵する東京・アーティゾン美術館の学芸員、上田杏菜氏(以下、上田氏)に伺いたいと思った。上田氏は、オーストラリア美術と西洋近現代美術を専門とし、論文「オーストラリア先住民族アボリジナル・アート : 美術館・博物館での展示手法とその受容の変遷」(『公益財団法人石橋財団アーティゾン美術館研究紀要』2号、2021)を執筆されている。東京・アーティゾン美術館を訪ねた。
人間の証としての作品
上田氏は、1988年東京に生まれて、埼玉県東松山市に育ったという。建築業を営む父と、美術鑑賞の好きな母は共にアウトドア派で、兄と姉の5人家族は、夏にはキャンプ、冬にはスキーが毎年の恒例行事となっていた。小学生のときに母と行った美術館で、上田氏はきれいな風景画を見て絵を描きたいと思ったそうだ。英語を習っていたが、絵画教室にも通い始め、小学校の卒業文集には、将来画家になってスペインへ行きたいと書いた。が、絵は上手でなく、中学生になるとバスケットボール部に入部。それでも休日に母と美術館へ行くことは続けており、絵が巧く描けずに悩んでいると、母が美術館には学芸員の仕事があると教えてくれた。海外で学ぶことを奨励する家庭の雰囲気もあり、専門的に勉強するために海外の大学で学位としてキュレーターシップについて学びたいと考え始めた。
ところが、父の会社がバブルの影響を受けてしまった。末っ子の上田氏は留学がままならず、2006年美術史が勉強できる早稲田大学に入学する。翌年ヨーロッパを訪れ、パウル・クレー(1879-1940)に関心を持った。2008年大学3年生のとき国立新美術館で開催された「エミリー・ウングワレー展──アボリジニが生んだ天才画家」を偶然見た。上田氏は「西洋美術とは違ったエネルギーを感じ、すごい衝撃を受けた。《ビッグ・ヤム・ドリーミング》も見たがよく覚えていない。個々の作品というより、エミリー展そのものに圧倒された感じだった。ただ西洋美術の目で見ていたけれど、何かどこか違う感じがした。その違和感は何なのだろうと思った」と回想する。
海外へ出たいという思いから2009年、大学4年時に1年間休学してカナダをひとりで旅をした。バックパックでWWOOF(ウーフ)
を利用し、オーガニック農場を西のバンクーバーから東のハリファックスへと転々とバスで横断した。美術館へも行き先住民の作品も見た。「芸術を通して生きている人間の証としての作品にショックを受けた。短期間オーストラリアを旅したことがあるが、日本人が多いためカナダを選んだ。そこで人間のエネルギーを感じる芸術作品を目の当たりにし、学芸員として専門にするならば先住民美術だと思った」と上田氏。2012年クレーについての卒論を書いて、早稲田大学第一文学部総合人文学科美術史学専修を卒業した。その後、シドニーに住んでいる姉から大学の情報をもらい、言語学習と大学院へ入る準備のため、2012年オーストラリアへ向かった南オーストラリア州立美術館でインターンをし、2019年4月に現職のアーティゾン美術館の学芸員となった。
。社会の主流派の歴史からは語られないマイノリティの人々の存在やアイデンティティの問題に興味を持ち、その問題意識とエミリーの作品がどこかでつながっていく感覚があり、専門はアボリジナル・アートにしようと決心した。2016年オーストラリアのアデレード大学大学院に入学し、2018年「南オーストラリア州立美術館と南オーストラリア州立博物館におけるアボリジナル・アートの展示手法と解釈」という修論を書いて、学芸員・博物館学修士課程を修了した。1年間、大学院に隣接するアボリジニのドリーミング
オーストラリア大陸に住む先住民は、アボリジナル・トレス海峡諸島民と呼ばれ、オーストラリア大陸とトレス海峡諸島(パプアニューギニアとの間に位置する270ほどある島)に約5万年前から暮らしていた。また、オーストラリアの先住民族を指す「アボリジニ」という名詞は、差別的に使用されてきた歴史と、600ほどあると言われる部族や言語の多様性への配慮から、現在では「アボリジナル」と形容詞で使われることが好まれ、アボリジナル・ピープル、アボリジナル・アートという表現が広く普及している。
「アボリジニの人々にとって、アートは単なる芸術ではなく、生活に根付いた重要な役割を持っており、アートが先住民とイギリス人入植者との距離を縮め、アートが彼ら独自の伝統的社会を守っていくことにもつながった」と上田氏。アボリジナル・アートの特徴は「伝統文化を受け継ぎながらつねに新しい表現を取り入れるダイナミズムにある」という。
アボリジニは文字を持たず、砂絵やボディ・ペインティング
、舞踊や歌、民話などを通じて文化や伝統、ドリーミング(Dreaming) を伝承する。アンマチャラ語を話すアンマチャリー族の管理者であったエミリー・カーメ・ウングワレー は、大樹の木の下で地面に直接あぐらをかいて座り、食料缶の中に入れた絵具につけた絵筆や棒切れ、使い古しのゴム草履などを用いて絵を描く。美術の本を見たり、美術学校に通ったことはない。エミリーは、1910年頃中央オーストラリアのシンプソン砂漠の端にあるアルハルクラのブッシュに生まれた。ウルル(エアーズロック)の玄関口であるアリス・スプリングスの北東230キロに位置する。赤い砂と低木がまばらに茂る乾燥したブッシュは、夏は暑く、冬の夜は凍てつくほどに寒い
。ヤム芋や食用の幼虫を採取し、トカゲなどの小動物を狩りながら、草木でつくった簡素な家に住み、ときにはアボリジニの野営地へ出かけて儀礼に参加するなど、古来からの暮らしを送っていた。モチーフはアウェリェ
1927年、ユートピア(Utopia)
に初めて白人によって家畜を放牧するための牧場が設備された。エミリーは、定められた男性と結婚して、夫とともにアルハルクラを離れ、牧場で働き始めてラクダ引きや家畜の飼育に従事した。しかし、1940年代後半には夫と別れ、アボリジニの慣習に背いて恋愛結婚をする。アボリジニは1788年のイギリスによる植民地化によって土地を奪われ、さまざまな迫害を受けた。それから約180年後の1967年市民権を獲得し、以降アボリジニの文化再興の運動が起きてきた。
1977年政府によるアボリジニの女性を対象とした教育プログラムが実施され、美術工芸品の授業ではバティック(ろうけつ染め)のワークショップを開催、エミリーも参加した。このワークショップは、アボリジニの経済的自立を目的に企画され、ユートピアの女性たちは、ユートピア・ウィメンズ・バティック・グループを結成し、女性たちの儀礼であるアウェリェ(Awelye)
をモチーフに描いて現金を得た。エミリーにとってバティックを制作したことは、仲介物を使って作品を制作する初めての経験だった。それまでユートピアのコミュニティの年長者として、エミリーはドリーミングにまつわる儀礼・儀式で、装飾として女性の身体に石膏や黄土などの天然顔料を直接着色するボディ・ペインティングをしていた。大抵の場合、縦か横のストライプで、線描はエミリーが1988年に画家になる前から描いており、ヤム芋の線につながっている。
すべてのものと結びつく
1976年にアボリジニの土地所有権がノーザン・テリトリー(北部準州)で許可され、アボリジニ自由保有地として同州の36%が、再び先住民の手に戻った。ユートピアで土地所有権回復のための聴講会が開かれた1979年、女性たちはバティックを持参し、アウェリェを実演して権利を主張した。バティックは収入源となる染め物としてだけではなく、アボリジナル文化のアーカイブとして裁判官や関係者の強い関心を引き、ユートピアの土地所有権も認められ、エミリーは牧場から故郷アルハルクラへ戻った。
上田氏は「エミリーたちのコミュニティが、土地の正式な伝統的所有者であると認めるに至った証拠が、女性たちの行なった伝統的儀式と美術工芸品であった。エミリーが画家としてデビューしたのは1988年だが、1979年にエミリーが芸術によって権利を獲得した経験は、画家としてのエミリーのキャリアにとって重要な出来事だった」と言う。
ユートピアに1988年中央オーストラリア・アボリジナル・メディア協会(CAAMA)によって、100枚のキャンバスが持ち込まれてアボリジナル・アートが始まった。1988年末から89年にかけてエミリーが最初に描いたキャンバス画《エミューの女》は人々に大きな衝撃を与え、キャンバス画を始めて2年目には、5つの個展と12のグループ展を開催する勢いであった。
1992年には当時のポール・キーティング首相より初めて先住民のアーティストとして、オーストラリアン・アーティスツ・クリエイティヴ・フェローシップが授与された。80歳を過ぎたエミリーは引退をいったん宣言したが、コミュニティの経済的な期待と市場からの要求に応え、1995年《ビッグ・ヤム・ドリーミング》を描き、ナショナル・ギャラリー・オブ・ヴィクトリアに収蔵された。
翌年の1996年9月2日、ノーザン・テリトリーのアリス・スプリングスで86歳で死去。78歳で絵筆を握り、他界するまでの8年間に3,000~4,000点の作品を制作した。初期の点描に始まり、白地に黒のストライプ、有機的な線描など、画風を変えながらプリミティブ・アートの枠組みを超越した作風であった。モダンな現代美術としても語られ、世界各地の美術館のコレクションに収められている。1997年にはヴェネツィア・ビエンナーレに出品され、没後もアボリジナル・アートと西洋のモダニズムの橋渡しとなっている。
「すべてのもの、そう、すべてのもの、アウェリェ(私のドリーミング)、アーラチ(細長のヤムイモ)、アンカールタ(トゲトカゲ)、ヌタンイ(草の種)、ティング(ドリームタイムの子犬)、アンケレ(エミュー)、インテクウァ(エミューが好んで食べる草)、アニュールラ(緑豆)、カーメ(ヤムイモの種)、これが私の描くもの、すべてのもの」(マーゴ・ニール、図録『エミリー・ウングワレー展』p.20)。
このエミリーの言葉は、作品の主題である故郷アルハルクラのことを語っているだけでなく、描くという行為が、すべてのものと結びついた母なる大地のように大事な行為であったことを伝えている。
【ビッグ・ヤム・ドリーミングの見方】
(1)タイトル
ビッグ・ヤム・ドリーミング(びっぐ・やむ・どりーみんぐ)。英題:Big Yam Dreaming
(2)モチーフ
ヤム芋の根。
(3)制作年
1995年。エミリー85歳。
(4)画材
キャンバス、アクリル絵具。
(5)サイズ
縦291.1×横801.8cm。抽象表現主義の絵画を思い起させる巨大な画面。
(6)構図
平面的で奥行きの浅い画面に上下、左右はなく、自由に見ることが推奨されている。
(7)色彩
黒、白色。
(8)技法
二人の助手がキャンバスを均一に黒く塗る下塗りを2日で行なった後、エミリーも2日で作品を仕上げた。両手利きだったエミリーは、野外のアトリエでキャンバスの上にあぐらをかいて座り、下描きをせず即興的に筆で白い線を描いた。砂漠では重要な食糧であるヤム芋が大地に根を張るイメージを単純化、抽象化した。身体と一体化した筆の連続したストロークによって、白色の淀みない線が自由な優美さを表わす。ひとつのセクションを仕上げてはほかのセクションに移りながら、セクションとセクションを編み込むようにキャンバスの端に向かって描き進め、画面の部分によって微妙に白色の濃淡や色味を変化させるなど、単純な原理による複雑な効果を上げている。完成した作品を眺めることなく、エミリーがキャンバスから去っていく話は有名。
(9)サイン
画面の裏に「c.r.: 959130 / Emily Kngwarreye / HOLT FAMILY / OF DELMORE SPRINGS NT. / 22 / 23 / 7 / 95」「l.r.: EM / EMILY」と黒のファイバーペンで署名。
(10)鑑賞のポイント
黒い平面に、力強いストロークの白い曲線が互いに結びつき、生命の根源を感じさせ、うごめいている。それらはオプ・アートのように明滅や遠近の揺らぎなどの錯視効果を生み出し、モダンでありながら自然そのものへイメージを回帰させる。晩年の8年間に画家という天職を得たエミリーは、86歳で亡くなるまで中央オーストラリアの砂漠地帯で生き抜いた。作品は大地に座り、アボリジニ伝承の価値観(ドリーミング)を両腕で力強くキャンバスに印した。過酷な自然環境に抗わず、生きる術を身につけている85歳のエミリーが2日間で描き上げた渾身の力がみなぎる。巨大な画面の前に立つ鑑賞者は、振動感に包まれる。網目状の白い線は、大切な食料であるアヌーラリャ(細長いヤム芋)の成長する根の形状を表現している。黒は、アボリジニ特有の黒い肌に相応し、ボディ・ペインティングに施される白は、ダイナミズムと喜びの鼓動を与える生命線。ヤム芋は、地中で成長するイモ類で、地上では蔓を地面に這わせ、鮮やかな緑の葉と小さな黄色い花をつける。1991年から93年に風景の色彩を鮮やかに描いていたエミリーのモノクロの世界。《ビッグ・ヤム・ドリーミング》の豊潤なエネルギーは、先住民であるアボリジニが5万年もの遙か太古の先祖たちとヤム芋によって深く結びつき母なる大地「ドリーミング」を呼び起こす。エミリーのカーメという名前は、ヤム芋の種のことでもある。オーストラリアを代表する画家となったエミリーの頂点をなす作品。
女性コミュニティの感性
上田氏は《ビッグ・ヤム・ドリーミング》について「コミュニティの年長者としてエミリーが保持しているドリーミングのひとつにヤム芋があった。ヤム芋の背景には、土地とのつながりと祖先、その祖先が生み出した大地、それらを包括するドリーミングの世界観がある。すべてがこの白の線に表現されている」と述べた。
また、当初男性中心でつくられたアボリジナル・アートのなかで、エミリーの存在は興味深いという。「アボリジナル・アートが、現代美術として広く一般社会に受容されていったとき、画家はほとんど男性だった。というのもアボリジナルコミュニティは、もともと男性と女性が別々に平等に自立しており、男性と女性が公に交流することはタブーだった。そのためコミュニティに外部の人間がコンタクトを取る場合、人物の性別に合わせてコミュニティの誰かが応対する。アボリジナルコミュニティにコンタクトを取るのは、白人社会では男性だったので、アボリジニの男性が相手役になる。男性中心の西洋社会の写し鏡になっていた。男性はどうしても外部社会が求めるアボリジナル・アートをつくらないといけないという一定の縛りがあり、女性は自分たちの感性で作品をつくる余裕、のりしろがあった。エミリーは、政府の教育プログラムでバティックを指導に来た白人女性と出会った。女性だったからこそ、外の社会が求める作品をつくる必要がなかった。それがエミリーの創造がアボリジナル・アートの枠組みを超えて、新しい図像を生んだ要因だと思う」と上田氏は語った。
上田杏菜(うえだ・あんな)
エミリー・カーメ・ウングワレー(Emily Kame Kngwarreye)
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【画像製作レポート】
参考文献
2022年11月