アート・アーカイブ探求
パウル・クレー《海のカタツムリの王》──境界線上の生命体「前田富士男」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2022年02月15日号
※《海のカタツムリの王》の画像は2022年2月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
許される・殺すな・生きる
中指と小指を曲げて「グワシ!」。マンガ『まことちゃん』が手を差し出す決めのポーズ。中指と小指は立てることはできても、正統グワシができないことに改めて驚いた。マンガ家・楳図(うめず)かずお(1936-)の展覧会「楳図かずお大美術展」(2022.1.28-3.25)が東京タワーの先端を望む東京・六本木ヒルズ森タワー52階にある東京シティビューで開催されている。
楳図は『へび少女』などのホラーやギャグ、SFやアクション、少年・少女ものと、幅広くマンガを開拓してきた。85歳の現在までその創作には、苦境に陥っても「許される」という人類愛、内なる生命の声が響いている。今展では4年の時を費やした新作101点のアクリル絵画と素描が加わり、会場を進むと静かに『禁じられた遊び』のギターの音色が流れてくる。
現代社会を予期した先見性のある楳図を芸術家として提示する本展は、美術評論家で反戦デモ・ユニット「殺す・な」(2003)の発起人であった椹木野衣(さわらぎのい)をアドバイザーに、キュレーターは福島の帰還困難区域を舞台に国際展「Don't follow the Wind」(2015)をキュレーションした窪田研二が務め、楳図の芸術性を現代美術として捉えた。本展を観ているうちに、「生きる」ことを描いた絵画が浮かび上がってきた。パウル・クレーの《海のカタツムリの王》(スイス、パウル・クレー・センター蔵)である。
《海のカタツムリの王》は、謎の物体がひとつ、メタリックな銀色の額縁に囲まれた画面の中央に据えられている。深海の生き物のような原始的な形体に温もりを感じた。古代からカタツムリは紫色の染料として使われてきたそうだが、一体クレーは何を描いたのだろうか。《海のカタツムリの王》の見方を慶應義塾大学名誉教授の前田富士男氏(以下、前田氏)に伺いたいと思った。前田氏は、ドイツ近代美術史を専門とし、『パウル・クレー──絵画のたくらみ』(共著、新潮社、2007)や『パウル・クレー──造形の宇宙』(慶應義塾大学出版会、2012)などの著書を出版、長年パウル・クレーやゲーテ自然科学を研究されている。論文を執筆中のお忙しいなか、ご自宅に近い慶應義塾大学日吉キャンパスの来往舎でお話を伺うことができた。
イマジネーションと歴史の組み立て方
神奈川県にある慶應義塾大学の日吉キャンパスは、日吉駅前にあった。東急東横線と目黒線、横浜市営地下鉄グリーンラインが通る日吉駅。目黒線を利用したが、都心から20分ほどで交通に恵まれていた。駅のすぐ前の大学構内を行くと小さな建屋があり、自分で検温と手指消毒を済ませてから赤いシールをマスクに貼る。10年ぶりの再会であったが、前田氏が迎えに来てくださった。
前田氏は、1944年神奈川県生まれ。高校生のとき、東京国立博物館で青い花瓶を描いたポール・セザンヌ(1839-1906)の静物画を見たことが、美術との出会いの瞬間だったという。中高校生のときに、良い先生との出会いがあった。「芸術作品は、理解するための訓練をしない限り、単なる趣味に留まる。それでは駄目だよ」と教わった。教えてもらった画廊や美術館を1年ほど巡って本物と対峙していた。絵の見方が少しわかったと先生に伝えると、それは間違い、とか、もっと優れたこんな作品がある、と手厳しい。ようやく褒めてくれて会話が弾んだことは、いまでも覚えているそうだ。
高度成長を迎えつつある時代、前田氏は理工系の家系だったこともあり、慶應義塾大学のもっとも人気のあった新しい学科でコンピューターを専門とする工学部管理工学科に入学した。しかし、美術を自分の目で感じ取り、思考する喜びを大切にしたいと工学部を卒業後、文学部美学美術史学専攻に学士入学する。哲学者ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)の研究者で美学者の高橋巖(1928-)先生に学んで大学院へ進み、修士論文には「パウル・クレーにおける造形的思考」を書き上げ、神奈川県立近代美術館へ就職、学芸員として勤務した。1975年研究に専念するため、ドイツ政府の留学生試験を受け、ボン大学文学部美術史学科へ2年間留学。帰国後は北里大学教養部の講師、助教授となり、1985年より慶應義塾大学文学部で助教授、教授を務め2009年に退職。2010年には中部大学の人文学部教授となって、2017年から同大学の民族資料博物館客員教授に就任している。
前田氏は「美術というと日本では趣味や鑑賞と考えがち。しかし欧米の大学の文学部ではもっとも学生・院生の多い専攻です。絵画や彫刻に留まらず、建築史や庭園、デザインなど生活・自然環境、社会的メディアや文化史の根幹を学び、体験する分野。つまり、美術の理解には、造形という想像力と歴史の世界を知る努力が必要となる。小さな絵画作品や焼き物が本物かどうか、ということより、その背後に働いている文化の流れ、イマジネーションの歴史を“自分の感性”で組み立てる力を身につけなくてはいけません」と述べた。
音楽と美術と旅
パウル・クレーは、1879年12月18日にスイスの首都ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーに生まれる。国籍はドイツだった。父がドイツ人音楽教師のハンス・ヴィルヘルム・クレーで、母はスイス人オペラ歌手のイーダ・マリアという音楽一家であった。3歳年上に姉マティルデがいた。翌年一家はベルンへ転居する。4歳頃、祖母アンナ・カテリーナ・ロジーナ・フリックに素描を教わり、7歳で小学校へ入学した。地元のカール・ヤーンにヴァイオリン入門、11歳にしてベルン市立管弦楽団の非常勤団員となる。画才も発揮し、高校卒業した1898年には画家を志してドイツ・ミュンヘンへ行き、ハインリヒ・クニル(1862-1944)の画塾に通う。今日、日記文学として高く評価されている『日記』を付け始める(1918年12月まで)。
銅版画技法をオーストリアの画家ヴァルター・ツィーグラー(1859-1932)に学び、1900年には念願のミュンヘン美術アカデミーに入学するが、画壇を代表するフランツ・フォン・シュトゥック(1863-1928)のアカデミックな教育に馴染めず5カ月で退学。同郷の彫刻家ヘルマン・ハラー(1880-1950)と半年間イタリアを旅し、ナポリの水族館やポンペイを見学。1902年ベルン音楽協会と非常勤ヴァイオリン奏者の契約を結ぶ。1905年初めてパリを訪れる。1906年27歳、医師の娘でピアニストのリリー・シュトゥンプと結婚、ミュンヘンに居を移す。ミュンヘンの分離派展にクレーの画家としてのデビュー作となるエッチング連作《インヴェンツィオーン》を出品。1907年息子フェリックス誕生。リリーがピアノ教師として家計を支える。1908年黒い水彩を用いて光や明暗の調子を研究。ゴッホ(1853-1890)とセザンヌ(1839-1906)に瞠目し、同年、スイス版画家協会の会員となる。
1910年ベルン美術館で初個展を開催。1911年「作品目録」を作成し始め、綿密な記録を生涯続けた。1912年にカンディンスキー(1866-1944)とフランツ・マルク(1880-1916)が前年に結成した前衛画家集団「青騎士(あおきし)」に参加し、その第2回展に出品。カンディンスキーの紹介で抽象絵画の先駆者のひとりロベール・ドローネー(1885-1941)のアトリエを訪れ、ピカソ(1881-1973)やマティス(1869-1954)の作品を見る。1913年ベルリンのシュトゥルム画廊で「第1回ドイツ秋季サロン」展に水彩画8点と素描14点を出品。1914年には青騎士メンバーのアウグスト・マッケ(1887-1914)ら3人でチュニジアを旅し、色彩に目覚める。同年第一次世界大戦が勃発、マッケが戦死した。1916年には親友フランツ・マルクも戦死し、クレーはドイツ軍に召集された。
バウハウス
戦後の1920年、クレーにとって初の大回顧展がミュンヘンのゴルツ画廊で開催され、前衛芸術家としての名声を得る。建築家ヴァルター・グロピウス(1883-1969)がヴァイマル州に設立した、建築・絵画・彫刻・デザインにも大きな影響を与えた州立ヴァイマル・バウハウスに、制作やフォルム論、色彩論の教授として招聘される。1924年にはアメリカで初の個展がニューヨークのソシエテ・アノニム画廊で開かれた。1925年バウハウスがデッサウに移転。フランスでの初の個展をパリのヴァヴァン・ラスパイユ画廊で開催する。1929年50歳、ベルリンのフレヒトハイム画廊やニューヨーク近代美術館などで生誕50周年記念展が開催され、友人の批評家ヴィル・グローマン編の評伝『パウル・クレー』がパリで出版された。1931年バウハウスを辞職し、デュッセルドルフ美術アカデミーの教授に就任。ナチスがドイツの政権を掌握した1933年、美術アカデミーも停職となり、クレーの作品は「頽廃芸術」として扱われ、妻とともに生誕地ベルンへと亡命。しかしスイスでもクレーの作品は左翼的とみなされ、スイス国籍の申請手続きも許されなかった。この年《海のカタツムリの王》を制作した。
1934年英国で初の個展がロンドンのメイヤー画廊で開催。翌年スイスで初の大規模な個展をベルンのクンストハウスで開く。8月健康を害し、膠原病(強皮症)の最初の兆候が現われた。1937年ナチス主催の「頽廃芸術展」に作品17点が展示され、ドイツの公的コレクションから102点がナチスにより没収される。 晩年、クレーは病に苦しみながらも、最後まで旺盛な制作活動を行なった。1940年、スイス南部のロカルノ近郊ムラルトの療養所で心筋炎による心臓麻痺にて死去。享年60歳。ベルンのショースハルデン墓地に眠る。生涯の制作数は9,418点(作品総目録、2004)。申請していたベルン市の市民権は、没後6日後に得られた。
【海のカタツムリの王の見方】
(1)タイトル
海のカタツムリの王(うみのかたつむりのおう)。英題:Seasnail King
(2)モチーフ
軟体動物/カタツムリ。
(3)制作年
1933年。クレー54歳。
(4)画材
水彩、油彩、合板に石膏下地とモスリン
。銀色のオリジナルフレームと合わせて制作。(5)サイズ
縦28.4×横42.6cm。
(6)構図
カタツムリの側面を捉えた構図。
(7)色彩
紫、オレンジ、茶、藍、黄緑、群青など多色。
(8)技法
絵画というより、フレームにモスリン、合板、石膏、水彩・油絵具を用いて小さな水槽をつくるように制作した。マットで平織りのフラットな絵肌の上に、ハッチング技法(一定の面を並行の線で埋める)を思わせる緻密な運筆が画家の関心の深さを告げている。
(9)サイン
画面右下に赤茶色で「Klee」と署名。裏面には「1933 Y 19 “Meerschnecken-König” Klee」と表記あり。
(10)鑑賞のポイント
鈍く銀色に光る額の中に、軟体動物であるカタツムリを観察し、空想ではない生命の原型イメージとして描いている。前田氏によると、軟体動物は無脊椎動物のなかでも下等に分類され、そのなかでも腹足綱(ふくそくこう。巻貝類)のアワビ、サザエ、ウミウシ、カタツムリは下位に位置し、ホヤなどとともに、動物の原初態である。カタツムリは実は巻貝、海中から陸上生活へと進化した「陸貝」で、貝でありながら貝殻を棄てて海中生活を送るウミウシ同様、きわめて特異な生命体である。クレーは、生と死、秩序とカオス、能動と受動といった二元論をつなぐ〈中間〉領域を制作のモティーフとした。本作品も、ホヤかカタツムリか不明ながら、硬い殻の中の柔らかい内蔵も描かれているようで、示唆深い。生命が持つ特異な力や、硬そうでぬるぬるとした触感、美しさや醜さ、さらには不気味なわがままさや厭らしさまで出現している。「ドイツの文学者ゲーテは、超一流の生命形態学者でした。ゲーテによれば生命は、形を変容させつつ成長し、環境とダイナミックなやりとりをする。つまり成長の力、環境とやりとりする力の現れこそ生命なのであって、いわば『形は力なり』です。このかたつむりも、線・明暗・色彩、じつに過不足なくそうした『力』を表現している。うなるほどの技術の冴えでしょう」(前田富士男『パウル・クレー 絵画のたくらみ』p.86)。自然のなかに生きるたくましいカタツムリの姿を透かして見たクレーの傑作。1961年、西武百貨店で開催された日本で初めての「パウル・クレー展」に出品された。
生命って何だろう
多種多様な作風で豊かな詩情を讃えるクレー作品。クレーの絵画は、生成という時間を基軸として、記号や色面で分割・構成された抽象画や、文字の絵画化を試みた文字絵、色彩と音楽を結びつけたポリフォニー(多声音楽)絵画など、その都度の心情が反映される。前田氏は「画家と世界、主体と対象がつねに動的な作用連関に置かれ、決して静止した関係をつくらない“対話的リアリズム”がクレーの制作論の本質であり、クレーは現実や自然との対話を通じて自己形成を実現し続けた」と述べている。クレーは語っている。
「芸術とは、眼に見えるものを再現するのではなく、眼に見えるようにすることなのだ」(1920)、「芸術家にとって、自然との対話は必要不可欠の条件である。芸術家は人間だから、彼自身が自然なのであり、自然空間のなかの一つの自然だ」(1923)。(前田富士男『世界美術大全集 第26巻』p.109)。クレーの関心はつねに生き生きとした現実世界に向けられていた。
《海のカタツムリの王》を、ドイツ留学中に初めて見たという前田氏は、クレー作品のなかでも生命のイメージを描いたきわめて魅力的な傑作だと推薦する。「クレーはイメージに言葉を関連づけた。詩的な才能があったからというより、色と形の世界と言葉との落差を投げかけてくる。だから観賞者は、イメージとタイトルの境目=中間を直観することが重要になる。クレーは境目を大事にするから、どの作品にも想像力を刺激する機知に富んだタイトルが付けられている」。
カタツムリは、巻貝の一種で海から陸に上がった珍しいタイプ。生物学ではマイマイという。殻をもった陸貝だが、ナメクジはそのなかでカタツムリの殻を脱いでしまったタイプ。現在の生物学では、軟体動物は7綱に分類されているが、その下の原生動物との異同など、いまなお不明な点が多い。単細胞生物から軟体動物へ、脊椎動物哺乳類のヒトへという進化の長い時間の最初の一幕、そこにカタツムリがいる。
「実は陸に上がった陸貝の典型は、いわゆるエスカルゴ。カタツムリのなかで最大のクラス。エスカルゴを食べる歴史は、貝を食べることと同じで、長い。クレーはそのことも含めて絵を描いていると思う。とてもエスカルゴには見えないけれど、フランス料理をイメージしてタイトルを付けたのかもしれない。タイトルに“海のカタツムリ”と書いたのは、クレーが〈食べる〉文化の歴史を考えている証し。水中の貝類は、餌を食べて排泄するという生命の営みの原点にいる。クレーは、海から陸に上がったカタツムリをもう一度、海に戻して絵にしている。クレーは海と陸に生きる軟体動物を通して、生命って何だろうと問いかけているんです」と前田氏。「ナチュラル・ヒストリー、自然の歴史、生命の進化、生と死の物語(ストーリー)。この絵は、ギリシア哲学的に言えば、エイドス
、あるいはイデア と呼ばれる観念や本質と、それの正反対の現実、目の前に生きている実在の軟体動物一匹という、その二つを同時に捉えてしまう。きわめて不思議なクレーらしい作品、彼の代表作のひとつです」と前田氏は語った。前田富士男(まえだ・ふじお)
パウル・クレー(Paul Klee)