アート・アーカイブ探求
ジュアン・ミロ《アズールのゴールド》──漂う神話的詩情「副田一穂」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2023年07月15日号
対象美術館
※《アズールのゴールド》の画像は2023年7月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
大空の下でくつろぐ
青と黄色がウクライナの国旗の色を思わせることもあって、気になり始めた大きな布がある。長い間、自宅の生活用品として使われ、洗われて白みがかってきている。そのミロの絵画作品をプリントした綿布は「マルチカバー」(縦130×横137cm)というようだ。広げてみると10センチ幅の青色で縁取られている。さり気なく生活に溶け込んでいたジュアン・ミロの《アズールのゴールド》(ジュアン・ミロ財団蔵)を探求してみたい。
一面黄色の画面に大きさの異なる青、赤、緑の楕円形の円。そして黒い点と線。感覚的で抽象とも言い難い記号のようなシンボルが画面のところどころに配置されている。大人が描いた子供の絵本のような不思議な絵。独創的であると同時に親しみやすく、不気味であると同時に陽気。想像力が刺激されて物語が生まれそうだ。青色は青空のようだが、夜空の星や三日月のような形もリズミカルに描かれている。墨汁で描いたような真っ黒な丸やしなやかな線は人だろうか。大空の下でくつろぐ人々の姿が浮かんだ。
《アズールのゴールド》の見方を愛知県美術館 の主任学芸員、副田一穂氏(以下、副田〔そえだ〕氏)に伺いたいと思った。副田氏はミロの研究者であり、論文「〈夢の絵画〉から『絵画の殺害』へ──ジョアン・ミロとシュルレアリスム」(『研究紀要』(15)、愛知県美術館)や、共著書『もっと知りたい ミロ 生涯と作品』(東京美術、2022)を執筆され、展覧会「ミロ展──日本を夢みて」(2022)を企画している。名古屋の愛知県美術館へ向かった。
落書きみたい
休館日の美術館へ伺った。副田氏は、企画展「幻の愛知県博物館」(2023.6.30~8.27)を担当し、その副タイトルは「140年前の大須には、《どえりゃあ》博物館があった!」と楽しげである。先人をリスペクトし、愛知県にあった幻の博物館を美術館が復活させるユニークな展覧会。お会いしたのはそのオープニングを終えたばかりのタイミングだったが、多忙な日々は収まりそうもない。 副田氏は、1982年に福岡県福岡市に生まれた。小学生の頃サボテンが好きで多いときには200鉢ほど集めた。「1鉢ずつ、ホームセンターへ行くたびに買っていた」という。宮崎に住んでいた日曜画家の祖父が、福岡へ来るたびに福岡市美術館へ連れて行ってくれ、副田氏にとって福岡市美術館は魅力的な場所になったそうだ。
福岡市美術館でミロの《ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子》を見た副田氏は、はじめは落書きみたいだと思った。しかし、大切に展示されており、また美術館に近い地下鉄大濠公園駅にもその複製壁画があり、「何でこんな落書きみたいなものが大事にされているのだろう」と疑問に思った。副田氏は絵ハガキを買ってもらい眺めていたそうだ。その記憶が大学に入って専攻を選ぶときに甦ってきた。スペイン人ミロを理解するためのスペイン語と、ミロが参加したシュルレアリスムを研究するためにフランス語を勉強し、大学4年時には休学して9カ月間バルセロナへ留学。卒業論文も修士論文もミロだった。美術館が好きだったため、2008年愛知県美術館へ就職し、翌年に東京大学大学院の修士課程を修了した。
副田氏が初めて《アズールのゴールド》の実物を見たのは、大学の3年生のときだった。「スペインへ旅行した2002年にジュアン・ミロ財団で見ている。ミロの画集には必ず出てくる作品で、印象に残る。目の前に立つと包まれるようなサイズ感で、色が大きく広がってバンと目に入ってくるので、その鮮烈な色の印象を覚えている」と副田氏は述べた。
触覚の記憶で描く
ジュアン・ミロ・イ・ファラは、1893年スペイン北東部、カタルーニャ地方の地中海に臨む都市バルセロナ旧市街のゴシック地区クレディト小路4番地に生まれた。父ミケル・ミロはレイアール広場に金属細工の店舗を構える時計職人、母ドロールス・ファラはマジョルカの家具職人の娘だった。ミロは5人兄弟の長男だが、当時のバルセロナでは乳幼児の死亡率がきわめて高く、生き延びたのはミロと妹のマリア・ドロールスだけであった。ミロは物静かで夢見がちな引っ込み思案の子供で、身の回りの草花や小石、小動物に魅了されていたという。
幼い頃から中世のフレスコ画やアントニ・ガウディ(1852-1926)の幻想的なサグラダ・ファミリアの建築に触れ、14歳で父の意向により商業高校で会計を学ぶと同時に、ラ・リョッジャ美術学校にも通った。17歳でダルマウ・イ・オリベルス商会の会計係見習いとして働いたが、うつ病と腸チフスを患ってしまう。ミロは両親がカタルーニャの小さな村モンロッチに購入した農園で療養する。1912年19歳でフランセスク・ガリ美術学校に通い始める。立体感を表わすことができないミロは、目を閉じて対象物に触れ、その触覚の記憶をもとに絵を描くように指導され、素材への感性と触覚への信頼を培った。翌年サン・リュック美術協会へも通い、両親の同意を得て1918年バルセロナのダルマウ画廊で初個展を開催した。
1920年27歳、念願のパリに出てパブロ・ピカソ(1881-1973)を訪ねる。詩人アンドレ・ブルトン(1896-1966)と親交を結び、シュルレアリスムの運動に参加。1925年パリのピエール画廊と契約し、〈夢の絵画〉シリーズを象徴する《絵画=詩(これが私の夢の色)》(1925、メトロポリタン美術館蔵)を完成させ、モンロッチのアトリエとパリを行き来しながら制作と発表を続けた。1929年に幼なじみのピラール・ジュンコーザと結婚し、翌年娘マリア・ドロールスが誕生する。
民主化を代表する画家
スペイン内戦(1936-39)に勝利して独裁者となったフランシスコ・フランコに対して、反ファシズムを貫いたミロは、内戦および第二次世界大戦(1939-45)の間、戦禍を避けて各地を転々とした。1934年ニューヨークの画商でアンリ・マティス(1869-1954)の息子、ピエール・マティスと契約し、アメリカでの販路を得る。ミロの創作活動の裏側には日本文化へ対する造詣があったが、日本では1920年代末からミロの作品が紹介され、詩人で美術批評家の瀧口修造(1903-79)は、世界に先駆けて1940年にミロの単行書をアトリエ社から刊行している。
ミロはフランス北部のヴァランジュヴィル=シュル=メールに滞在していたが、1940年ドイツ軍の北部フランス進攻により、スペインへ帰国、妻の実家がある地中海に浮かぶマジョルカ島へ逃れた。1941年ニューヨーク近代美術館で初の回顧展を開催する。1944年陶芸や彫刻の制作を始め、翌年ピエール・マティス画廊で陶器、〈星座〉シリーズ、リトグラフを展示した。
1948年パリのマーグ画廊で個展を開き、エメ・マーグと契約する。1954年61歳、ヴェネツィアビエンナーレの版画部門で国際大賞を受賞。1956年マジョルカ島のパルマ市郊外にアトリエを構える。翌年スペイン北部にあるアルタミラ洞窟で、後期旧石器時代(約3万~1万年前)の彩色動物壁画を見学。1959年にはグッゲンハイム財団国際大賞を受賞。1966年73歳、国立近代美術館と国立近代美術館京都分館での展覧会を機に初来日し、京都や奈良などを巡る。1969年大阪万博のガスパビリオンに陶板壁画《無垢の笑い》(国立国際美術館蔵)を制作するため再び来日した。
ミロはパリのマーグ画廊とニューヨークのピエール・マティス画廊を拠点として、新作はすべて海外で発表していた。海外での活躍に比べてスペイン国内でミロは無名だった。1975年独裁者フランコが死去した翌年、バルセロナにジュアン・ミロ財団を設立した。1978年には首都マドリードのスペイン現代美術館で回顧展を開催。1980年国王フアン・カルロス1世は美術褒章の金メダルを授与した。ミロは民主化されたスペインを代表する画家になっていく。1983年12月15日、マジョルカの自宅で死去、享年90歳だった。バルセロナのムンジュイック墓地に眠る。古代へ向けたまなざしと、愛すべき稚気あふれるユーモアで、絵画、版画、壁画、彫刻、陶芸、詩、舞台美術、ライブパフォーマンスと多彩に独自の芸術活動を展開した。
【アズールのゴールドの見方】
(1)タイトル
アズールのゴールド(あずーるのごーるど)。英題:The Gold of the Azure
(2)モチーフ
空、星、人。
(3)制作年
1967年。ミロ74歳。
(4)画材
キャンバス・アクリル。
(5)サイズ
205×173cm。
(6)構図
鑑賞者を包み込む大きさで、画面全体に線と丸の記号化された要素を配置。下部に重点を置き、平面的だが黄色、青、赤、緑、深緑、黒の塗り重ねの順序から浅い奥行感を出している。
(7)色彩
黄、青、黒、赤、緑、深緑、白。
(8)技法
触覚の記憶を頼りに、そのイメージした造形をスケッチブックに描出する訓練を受けたミロは、鉛筆で描いた線を指で擦ったり、上のページで描いたものが透けて写ったりと、偶発的にできたものを基に次のイメージに活かして絵を創作している。また、それをキャンバスで忠実に再現している。スケッチの段階であらかじめここにこう描いて、こういうメッセージを伝えようというミロの意思はなく、ビジョンの新鮮さと観念の純真さがある。
(9)サイン
裏に「MIRÓ. 4/XII/67 / L'OR DE / L'AZUR」と署名。木枠には「29/III/66 / VIII/67 La première étincelle du jour」と、ほかの作品名が書かれていることからキャンバスを使い回していたことがわかる。
(10)鑑賞のポイント
タイトルは「青の黄金」を意味する。青は空、あるいは夢か。空の黄金と解釈すれば「空の太陽」、夢の黄金と解釈すれば「夢の価値」だろう。タイトルから絵の内容を理解することはできないが、自由な開かれた絵であり、ミロがどのように描いたのかを想像すると、絵を味わう楽しみが増してくる。黄色の表面に少し白い隙間をあけて、黒い線と点をつないだり組み合わせたりしている。青いぐしゃぐしゃした楕円に大きな黒い弧の先が突き刺さる。青い楕円は白いキャンバスの上に直接描かれ、左上隅の赤い点も同じ方法で塗られていることで、黄・青・赤の均衡が保たれている。小さな緑の点と赤の下に描かれた深緑の点は、黄色の上にマットな絵具を塗ってぼかし効果を出し、青色の楕円は、乾いた筆か筆の尻で絵具をぐるぐると削ったように凹凸と濃淡を付けて質感を表現している。黒で描かれたシンボルの構成、書道の筆で書いたような太い線と針金のような細い線の対比、7色の色彩のバランスという最小の手段で最大の強さに到達した。神話的な詩情が漂うミロ晩年の絵画の傑作である。
質感と偶然
ミロは「『質感』と『偶然』を大事にしている」と副田氏は言う。対象を触ったときのザラザラ感やボコボコ感、あるいはたまたまできてしまった染みなどに触発されて作品を制作していく。ミロ自身はアトリエに人が来ると、「どうぞ触ってください」と絵を触らせていた。絵はこうやって楽しむものという考えがあったと思う、と副田氏。
「《アズールのゴールド》も質感が大事で、画像ではわかりにくいが地の白と黄色と青色のところでは質感が異なっている。その差をミロがどのように出しているのかを見てほしい。あとは丁寧さとラフさの対比。塗り絵のようにきっちりと描く部分と、太い線などザザッと擦れても気にしない奔放さ。そのバランスを、ミロは考えながら描いている。例えば、赤い丸はきれいに縁取られているけれど、黒い太い線はラフに描かれ、そこに日本の書の影響を見ることもできる。もしかすると黒の細い線は日本から持ち帰った貂(てん)の細筆を使っているかもしれない。決して一気呵成に引くのではなく、一歩一歩、ある意味たどたどしく線を引いているのが興味深い。この頃のミロはコントロールされた世界と、ラフな筆致を共存させることを考えていた」と副田氏は言う。
また、「本作が描かれた1967年前後のミロ作品には傑作が多く、絵画の最も充実した時期のひとつ。1966年に来日したので、日本での滞在が精神的に影響していたのかもしれない。《アズールのゴールド》には星の記号が3つ。左下の立った黒丸と線は人、青色の下で寝ているように見えるのも人のように見える。ぐしゃぐしゃっと描き殴ったような青の表現は、1920年代からミロの定番の描き方で、時に水であったり、時に空であったりする。ミロのファンならば、画面右手にやはり青い染みがすっと置かれた1925年作の《絵画=詩(これが私の夢の色)》を思い出すかもしれない。言葉とイメージを入れ替えたシュルレアリスム時代のミロの象徴的な1点であり、画布の向こう側から夢の色が滲み出てくるような作品。ニュアンスに富んだ、いろんなものを含み込ませることができる青が大事な位置にいて、質感をもって描かれている。青から想像できる流体的、あるいは気体的なイメージが、《アズールのゴールド》のポイントであることは確かで、青地に黄色い円が描かれていれば、タイトルと併せて誰もが青空の太陽を想起するが、それが逆転しているのがとても面白い。背景に選ばれた黄色は大地を象徴する色でもあり、カタルーニャ州の旗も黄色と赤がベースになっている。黄色の上に乗せてぼかした緑と比べて、黄色を塗らずにキャンバスの地に直接塗った青と赤は浮き上がっているように見える。ミロはこういった細かいテクニックで画面上の要素に浮き沈みのような、微妙な奥行きを理屈で付けていく。どの要素がどの要素の上に来ているかはきちんと計算されており、その工夫が見ていて面白い」と副田氏は語った。
副田一穂(そえだ・かずほ)
ジュアン・ミロ(Joan Miró)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献
2023年7月