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葛飾北斎《冨嶽三十六景「神奈川沖浪裏」》──線を引きたくなる絵「大久保純一」

影山幸一

2009年06月15日号

Big Wave

 《神奈川沖浪裏》の龍の爪のように鋭く尖った波頭の形(図参照)は、尾形光琳の《波涛図》、さらには俵屋宗達の《雲龍図》と共通点があると指摘する研究者もいる(秋田達也「葛飾北斎筆〔神奈川沖浪裏〕」の一考察」)。《神奈川沖浪裏》は北斎の思いと技術が集約された完成度の高い一品である。北斎没年の正月に描かれた肉筆画《富士越龍図》の龍の爪は、生命力にこだわった辰年生まれの北斎最後のメッセージ。富士山と荒波が神霊の出現をも想起させる《神奈川沖浪裏》との関連を想像するとき、そこに栄光・発展を表す龍が浮かびあがる。
 江戸時代、関東では伝統的に富士山が付きものになっていたようだ。『伊勢物語』の東下り、京の都から出た在原業平一行が富士を眺めた所からが東。東の地に作られた東国の都が江戸なので、江戸の町と富士山は切っても切れない関係となったと大久保氏は言う。例えば江戸の町の鳥瞰図には必ずといってよいほど富士山が入る約束事になっており、富士山は江戸の人々のアイデンティティでもあった。
 また、江戸時代には富士講の流行もあったと言う。富士の神を信仰し、富士詣でを目標とした富士講。江戸の町中に「富士塚」という小さな富士山を作り、日常はそこをお参りし、最後は富士山に登って信仰体験を深めるというのだ。江戸八百八講といわれるほど富士講の数は増えた。そういった社会状況を見据えて、 富士を描いた絵を出せば売れるという計算が版元に働いていたらしい。ただそれ以前にも式部輝忠による《富士八景図》や狩野探幽らが富士図を描いたり、『百富士』(河村岷雪,全4巻,1771)や『山王真景』(山田貞実,1828)など、富士山を描いた出版物も出ている。「冨嶽三十六景」に深い影響を及ぼしたのは『百富士』だそうだ。
 《神奈川沖浪裏》ではこの富士山に覆いかぶさるように大波が荒れて描かれている。房総から江戸へ物資を運ぶという「押送り」が三隻描かれているが、自然の力になす術がない。これまで北斎は何度も大波を描いているが、着想から30年間を経て《神奈川沖浪裏》は完成したそうだ。狂歌絵本『柳の糸』の一図《江島春望》(1797)には大波の萌芽が認められ、《江の島図》(1799)、《おしおくりはとうつうせんのづ》《賀奈川沖本杢之図》(1806-1808 頃)とつながってきた。《神奈川沖浪裏》を海外では「Big Wave」という名で呼んでいる。

波頭《神奈川沖浪裏》(部分)
波頭《神奈川沖浪裏》(部分)




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【画像製作レポート】

 《神奈川沖浪裏》のデジタル画像は(株)DNPアートコミュニケーションズのWebサイトにある「東京国立博物館イメージアーカイブ」からJPEG画像をダウンロード。TIFF画像は別途に送信してもらう。版画作品である《神奈川沖浪裏》は東京国立博物館以外にも所蔵しているミュージアムがあるが、公共財の公開という観点から東京国立博物館所蔵の作品を使うことにした。画像の状態は良くないがこれが現状である。
 iMacの21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって調整、モニター表示のカラーガイドと作品の画像に写っているカラーガイドを目安に、目視により色を合わせた。モニター表示のカラーガイド(Kodak Color Separation Guide and Gray Scale Q-13)は事前にスキャニング(brother MyMiO MFC-620CLN, 8bit, 600dpi)。画像データは27.1MB・Photoshop形式に保存した。またセキュリティーを考慮して画像には電子透かし「Digimarc」を埋め込み、高解像度画像高速表示Flashデータ「ZOOFLA」によって拡大表示できるようにしている。
[2021年4月、Flashのサポート終了にともない高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」に変換しました]




大久保純一(おおくぼ・じゅんいち)

大学共同利用機関法人国立歴史民俗博物館研究部教授。1959年徳島県生まれ。1984年東京大学大学院人文科学研究科美術史学専攻修士課程修了、1985年名古屋大学文学部助手、1987年東京国立博物館研究員、1995年跡見学園女子大学文学部助教授、2000年国立歴史民俗博物館情報資料研究部助教授、2006年文学博士(東京大学)取得、2008年より総合研究大学院大学教授と共に現職。「錦絵データベース」を担当。日本近世絵画史専攻、特に歌川広重に詳しい。美術史学会、国際浮世絵学会所属。主な著書:『東京国立博物館所蔵 肉筆浮世絵』(東京国立博物館, 1993)、『千変万化に描く 北斎の冨嶽三十六景』(小学館, 2005)、『広重と浮世絵風景画』(東京大学出版会, 2007)など。

葛飾北斎(かつしか・ほくさい)

江戸後期の浮世絵師。1760〜1849。江戸本所(墨田)生れ。葛飾派の祖。幼名は時太郎。父は川村氏、後に幕府の御用鏡師中島伊勢の養子となる。勝川春章に入門。春朗と号し、役者絵を発表。のち宗理、画狂人、戴斗、為一、画狂老人卍など、生涯約30回改号し、「葛飾北斎」は46歳からの一時の号である。狩野派や琳派のほか洋画を含むさまざまな画法を学び、卓越した描写力と大胆な構成の独特の様式を確立しながらも、浮世絵師として最も広い画域を誇る。黄表紙の挿絵や狂歌絵本などの版本、版画では「冨嶽三十六景」に代表される風景画や花鳥画、肉筆画では美人画や武者絵、全15編の絵手本『北斎漫画』はフランスの印象派にも影響を与えた。

デジタル画像のメタデータ

タイトル:冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏。作者:影山幸一。主題:日本の絵画。内容記述:葛飾北斎, 1830年頃, 横大判錦絵(約27×39cm)。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:東京国立博物館。日付:2009.6.3。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Photoshop, 27.1MB。資源識別子:フィルムNo.C0034988, 作品No.絵松685, Image:TNM Image Archives, Source:http://TnmArchives.jp/。情報源:─。言語:─。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:東京国立博物館, (株)DNPアートコミュニケーションズ

参考文献

永田生慈『葛飾北斎年譜』1985, 10.20, 三彩新社
ピーター・モース「北斎の世界的名声」図録『江戸が生んだ世界の絵師〔大北斎展〕』p.17-p.20, 1993, 朝日新聞社
小林忠・大久保純一『浮世絵の鑑賞基礎知識』1994.5.20, 至文堂
安井雅恵「葛飾北斎筆〔神奈川沖浪裏〕」をめぐって」『待兼山論叢』第30号 美学篇, p.49-p.70, 1996.12.25, 大阪大学文学部
『日本美術館』1997.11.20, 小学館
浅野秀剛・吉田伸之 編『北斎〔浮世絵を読む〕4』1998.5.20, 朝日新聞社
図録『没後150年記念 北斎─東西の架け橋』(総監修: 小林忠), 1998, 日本経済新聞社
飯島虚心著・鈴木重三校注『葛飾北斎伝』1999.8.18, 岩波書店
秋田達也「葛飾北斎筆〔神奈川沖浪裏〕」の一考察」『美術史学』第21号, p.25-p.61, 2000.11.12, 東北大学大学院文学研究科美学美術史研究室
高階秀爾『西洋の眼 日本の眼』2001.3.15, 青土社
小林忠『江戸浮世絵を読む』2002.4.20, 筑摩書房
浅野秀剛『日本史リブレット51 錦絵を読む』2002.9.20, 山川出版社
中村英樹『新・北斎万華鏡|ポリフォニー的主体へ』2004.4.19, 美術出版社
図録『葛飾北斎展』2004.6.1, 浮世絵 太田記念美術館
永田生慈『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい葛飾北斎 生涯と作品』2005.8.30, 東京美術
大久保純一『千変万化に描く 北斎の冨嶽三十六景』2005.9.20, 小学館
図録『冨嶽三十六景』2005.9.1, 浮世絵 太田記念美術館
図録『北斎展』2005, 日本経済新聞社
図録『北斎 富士を描く』(監修: 大久保純一)2007, 山形美術館
図録『西洋の青─プルシアンブルーをめぐって─』2007.7.21, 神戸市立博物館
図録『北斎 Siebold & Hokusai and his Tradition』2007, 東京新聞
大久保純一「江戸の大観イメージ成立に関する一試論」図録『西のみやこ 東のみやこ─描かれた中・近世都市─』p.109-p.110, 2007.3.27, 国立歴史民俗博物館
加藤千佳・太田昇一「北斎〔神奈川沖浪裏〕の構図についての一考察『図学研究』第41巻4号 通巻118号, p.3-p.8, 2007.12, 日本図学会
五十嵐梢「葛飾北斎筆〔神奈川沖浪裏〕」からフランス・ナビ派 ジョルジュ・ラコンブへ──絵画の自律と海景図──(I)」『聖心女子大学大学院論集』第30巻1号 通巻34号, p.89-p.106, 2008.7.10, 聖心女子大学
大久保純一『カラー版 浮世絵』2008.11.20, 岩波書店
図録『錦絵はいかにつくられたか』2009.2.24, 国立歴史民俗博物館
アダチ版画研究所(http://www.adachi-hanga.com/)2009.6.9
山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム 絵本の世界 目次(http://www.hum.pref.yamaguchi.lg.jp/ehon/index.htm)2009.6.9

2009年6月

  • 葛飾北斎《冨嶽三十六景「神奈川沖浪裏」》──線を引きたくなる絵「大久保純一」