3つの仮説
北澤氏が研究者の目でじっくりと《鮭》を鑑賞した記憶があるのは、1982年の兵庫県・西宮市大谷記念美術館で開催された展覧会『明治洋画の巨人・高橋由一展』だ。鮭の絵画を一堂に会した展覧会で作品を見比べて見たと言う。鮭を描いた絵の中には、神奈川県立歴史博物館が所蔵する《鮭》ように尾が上の逆さ吊りもある。塩鮭の聖地と呼ばれる新潟県村上市で行なわれている、鮭の頭を下にして塩引き加工する姿を描いたのであろう。
北澤氏は、鮭の代表作3点(《鮭》東京藝術大学、《鮭図》山形美術館、《鮭図》笠間日動美術館〔板・油彩,1879〜1880年頃,85.9×24.6cm〕)を、これから比較してみたいと話す。いずれかを一つ基準作品とした場合、他の2作品がどのように見えるのか、という比較検討。つまり3つの説が立つのだが、ここではどれが由一作かというよりも、発想や画材、描き方の違いなどから新たな由一のイメージや作品の解釈が浮かび上がってくることを大事にしたいと言う。
山形美術館に寄託されている《鮭図》(前頁右)を東京藝術大学の《鮭》(同左)と並べて見てみよう。《鮭図》は由一が滞在していた山形県北山村の伊勢屋という旅籠の帳場に掲げられていたため「伊勢屋の鮭」と呼ばれていた。背景が暗いためオランダの静物画の影響を指摘する人もいる。鮭の口があまり開いておらず、皮のしわもない。鱗を描くのは難しい。《鮭》と異なり《鮭図》は鱗を消している。物理的に不自然だが、表面はフラットな状態と北澤氏。《鮭図》は1970年に修復されており、修復前の作品とどれほど差があるのかわからないが、縄や切り身の表現が《鮭》と共通した特徴があるのに対し、画面の表面の凹凸は異なっているということだ。
リアルさに詩を感じる
ペリーが来航したとき、米国はメキシコ戦争や南北戦争の石版画の絵を持参して日本側に見せたようだ。一種の脅迫外交だが、由一はその絵を友人を介して見た可能性があると北澤氏は見ている。そのとき由一は悉皆(しっかい)真に迫り驚いたという。真に迫るとは、肉眼で見た現実世界と想像世界が一致するということ。とすれば由一は肉眼で見ている世界を自覚していた。あるいはリアルな絵を肉眼で見た像を自覚した。どちらかわからないがどちらかだったはずと北澤氏、たぶんこのリアルさに由一は驚き詩を感じたのだろうと推測している。
由一が油絵に関心を寄せたもう一つの動機は、油絵が新しいテクノロジーだったことに関連すると北澤氏は言う。洋書調所の絵画自体がそもそも技術の補助的分野だった。見取り図を作成したり、図鑑類を製作したり、科学技術だった。だから由一は魚の断面図を描いたりもした。由一の場合テクノロジカルな図像、テクノロジカルな絵画に詩を感じた。速度こそ美と言った未来派と同じように、由一はテクノロジーに詩を感じる感性を持っていたのだろう。コンピューターに詩を感じるCGアーティストと通じるところがあると北澤氏は言う。
《鮭》という装置
北米のネイティブと北海道のアイヌたちは、自分たちを鮭の末裔と考えていたらしい。日本でも鮭は歳神の使いとして信仰する風習があるなど、鮭は人間にとって身近で力強い存在なのだ。
由一の油絵がリアルな絵といっても、魚類研究者から「鮭の切り身のわりにはニつの筋肉の束がない」との指摘を北澤氏が聞いたとおり、ここには筋肉の束がはっきりと描かれていない。由一が洋書調所で描いていた魚類図譜には、魚の筋肉の束がニつ描いてあると言う。この点を見ると《鮭》は由一作ではないという見方になる。
1990年に開催された東京藝術大学における『鮭』シンポジウムにおいて、高階秀爾は「私にとっては高橋由一が藝大の《鮭》の作者だというよりも、むしろ藝大の《鮭》の作者を高橋由一と言おうというところが出発点にあります」と語った。サインも年記もない絵の作者を探すことよりも、近代を象徴する作品と美術を開拓してきた努力の人、高橋由一に敬意を払う大岡裁きである。しかしこの作品をまったく知らない外国人は、価値を見出せるだろうか。《鮭》は多くの言説や環境によって意味や価値が形成され、仕掛けが多いと感じた。北澤氏は由一の《鮭》は装置だと言う。コンセプチャルな現代美術に通じる作品として見ると、この《鮭》は身近で断然面白くなってくる。
継承される由一
由一が今まで語り継がれてきた理由は何なのだろうか。そのポイントとなった出来事を北澤氏は次のように語った。「由一の《鮭》が国民的に有名になるのは、1927(昭和2)年。東京府美術館の『明治大正名作大観』でメイン作品に採り上げられ、新聞に掲載され広まった。昭和2年は明治元年から換算すると明治61年にあたり、明治の還暦になる。明治を歴史としてふり返った時期に由一が登場してきた。もう一つは1946年から1948年にかけて「リアリズム論争」があった。土方定一(美術評論家)と林文雄(美術評論家)が軸になり論争をした。モダニストの土方と共産系の林。林が由一を民衆的レアリスムと唱え、土方は写生的と否定した。その論争の中心が《鮭》だった。戦後の美術論争の中では大論争であり、由一にとってこの二つは意義深い。さらに1971年『高橋由一とその時代展』として由一に否定的だった土方が、神奈川県立近代美術館で展覧会を開催した。教科書に《鮭》が掲載されるようになったのは、はっきりわからないが重要文化財(1967年指定)になったからだと思う」。
近頃の日本の洋画史は高橋由一ではなく、黒田清輝から始まるものが増えている。由一の《鮭》が載っていない教科書も出てきたらしい。江戸と明治の境界に挟まれ、由一は埋もれてしまうのか。生活に密着した庶民の新巻鮭から天皇の肖像画まで、油絵を広めようと黎明期に格闘してきた高橋由一。吊るされた《鮭》に重みを感じた。
主な日本の画家年表
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【画像製作レポート】
高橋由一の作品《鮭》は、東京藝術大学に所蔵されている。東京藝術大学大学美術館のホームページ内にある「写真撮影等許可書申請書類」(http://www.geidai.ac.jp/museum/explore/explore_ja.htm)から申請書をダウンロードして必要事項を記入し、Faxその後、企画書を添えて郵送。4×5カラーポジフィル(カラーガイド付)がFax後3日ほどで届けられた。デュープのためか、フィルムの品番が重なって写っていた。写真使用料は税込み3,150円。Webサイト掲載の条件としては、「東京藝術大学所蔵」の記載、画像サイズ500×500pixel以内、掲載期間1年間、その他トリミング等作品のイメージを損ねる加工は認めないという条件が付いている。
一方、山形美術館所蔵の《鮭図》4×5カラーポジフィルム(カラーガイド無)は、当方が作成した申請書と企画書を郵送したのち1週間ほどで届いた。ポジフィルムが古いのか、撮影現場の環境が悪いのか作品が鮮明に撮られていなかった。Webサイト掲載にあたり特別な条件はなく、使用料は1万円。
そしてプロラボにて、各ポジフィルムをフラットベッドスキャナーで8bit・RGB・150dpi・TIFF形式(10MB)にデジタル化。それらをiMac21インチ液晶ディスプレイで、図録を参照して目視によりカラー調整等を行なう。Photoshop形式・308KBに画像データを保存。作品がフィルムに鮮明に写っていない場合、また画像サイズが小さい場合などは、作品を鑑賞するレベルに達せず残念である。美術館におけるIT革新の遅れを感じる。セキュリティーを考慮して、画像には電子透かし「Digimarc」を埋め込んだ。
北澤憲昭(きたざわ・のりあき)
美術評論家。女子美術大学大学院美術研究科芸術文化専攻美術史教授。専門:日本近代美術史。1951年東京都生まれ。1978年から美術批評の執筆を始め、1997年跡見女子大学教授を経て2008年より現職。美術評論家連盟、美術史学会、表象文化論学会に所属。主な著書:『眼の神殿──「美術」受容史ノート』(1989,サントリー学芸賞,美術出版社)、『岸田劉生と大正アヴァンギャルド』(1993,岩波書店)、『境界の美術史』(2000,ブリュッケ)、『アヴァンギャルド以後の工芸』(2003,美学出版)など。
高橋由一(たかはし・ゆいち)
幕末明治の洋画家。1828〜1894。江戸生れ。下野国佐野藩士・高橋源十郎の嫡子として佐野藩邸に生れる。名は浩、幼名を猪之介、維新後に由一。号は藍川、華陰逸人。養子の父が母タミと離別し、祖父源五郎のもとで育つ。12歳頃、藩主堀田正衡のもとへ往来していた狩野洞庭に運筆法を、絵師吉沢雪葊(せつあん)に北画を学ぶ。21歳から27歳頃、西洋石版画の迫真的写実に衝撃を受け、洋画家を志す。35歳で幕府洋書調所画学局に入所し、川上冬崖に師事。横浜にワーグマンを訪ね入門。明治6年46歳で私塾の天絵楼を創設、月例展覧会を開催。工部美術学校教師として来日したフォンタネージに学び、この頃《鮭》を描く。元老院の命により、明治天皇御影の揮写。山形、福島、栃木の県令などを歴任した三島通庸の委嘱により、油彩画や手彩色石版画を制作。嗣子源吉を主幹に日本初の美術雑誌『臥遊席珍』を発行(5号で終刊)。代表作は「花魁」「豆腐」「読本と草紙」など。
デジタル画像のメタデータ
タイトル:鮭。作者:影山幸一。主題:日本の絵画。内容記述:高橋由一,1877年頃制作, 140.0×46.5cm,紙・油彩, 重要文化財。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:東京藝術大学。日付:2009.9.8。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Photoshop,308KB。資源識別子:4×5カラーポジフィルム FUJIFILM CDUII33356 AH DGFG 。情報源:東京藝術大学。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:東京藝術大学
参考文献
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青木茂・歌田眞介・坂本一道・佐藤一郎・高階秀爾・山川武・福田徳樹・丹尾安典「〔特別記事〕東京藝術大学特別展観『鮭』シンポジウム 『鮭』を切る(下)」『三彩』No.523, p.57-p.64, 1991.4.1, 三彩社
図録『没後100年 高橋由一展』1994, 神奈川県立近代美術館・香川県文化会館・三重県立美術館・福島県立美術館・朝日新聞社
歌田眞介『高橋由一油画の研究 明治前期油画基礎資料集成』1994.4.20, 中央公論美術出版
北澤憲昭「言説としての高橋由一 1866〜1961─例言と年表(一)」『近代画説』特集高橋由一 第3号, p.10-p.37, 1994.10.30, 明治美術学会
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『日本の美術』第349号(明治の洋画─高橋由一と明治前期の洋画)1995.6.15, 至文堂
北澤憲昭「日本美術史の枠組について(第21回文化財の保存に関する国際研究集会今、日本の美術史学をふりかえる)」1997.12『東京文化財研究所』東京文化財研究所(http://www.tobunken.go.jp/~bijutsu/katsudou/kokusai/kokusai21st/abst_j.html)2009.9.8
坂本一道『新潮日本美術文庫23 高橋由一』1998.4.10, 新潮社
北澤憲昭・木下長宏・イザベル・シャリエ・山梨俊夫『美術のゆくえ, 美術史の現在 日本・近代・美術』1999.8.25, 平凡社
北澤憲昭「ART TODAYレクチャーシリーズ〔日本画って何だろう〕〔日本画〕のはじまり」『LR』p.58-p.68, 1999.11.1, 書肆・博物誌
図録『「油画を読む」解剖された明治の名品たち』2001, 東京藝術大学大学美術館協力会
橋本 治「ひらがな日本美術史【その百五】鮭が語るもの」『芸術新潮』通巻654号, p.136-p.143, 2004.6.1, 新潮社
北澤憲昭『境界の美術史──「美術」形成史ノート[新装版]』2005.7.31, ブリュッケ
古田 亮『狩野芳崖・高橋由一──日本画も西洋画も帰する処は同一の処──』2006.2.10, ミネルヴァ書房
北澤憲昭「伝統論争──60年代アヴァンギャルドへの隘路」『日本の美術』p.103-p.122, 2007.11.20, ブリュッケ
荒俣 宏「超博物誌 鮭図がひらいた新しい美術(第2回)」『SALMON MUSEUM』, (株)マルハニチロホールディングス(http://www.food.maruha-nichiro.co.jp/salmon/culture/02.html)2009.9.5
赤木里香子「58 明治時代 高橋由一《鮭》」『日本美術101鑑賞ガイドブック』p.130-p.131, 2008.7.30, 三元社
2009年9月