アート・アーカイブ探求

草間彌生《かぼちゃ》──一つの無限「斎藤 環」

影山幸一

2010年01月15日号

草間彌生《かぼちゃ》
草間彌生《かぼちゃ》1999, アクリル・キャンバス,194.0×259.0 cm, 松本市美術館蔵
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前衛と精神科医

 かぼちゃの絵が壁に掛かっていた。イラストのようにも見え、精緻な模様は爬虫類や蝶を連想させた。その版画を20年前に見たとき、反射的に草間彌生の名が頭に浮かんだのを覚えている。かぼちゃ=草間という公式は既に出来上がっていた。そして、水玉、網、ハプニング。当時、美術界で有名であった草間彌生は私にとって、もはや巨匠であり、第一線のアーティストではないと思い込んでいた。ときおり草間を見かけても話しかける気持ちはなかった。インパクトの強い草間作品はバブル時代の光の中でハレーションを起こし、私は目がくらみ作品の奥を探るセンスも余裕も知力もなかったのだ。
 精神科医である斎藤環氏(以下、斎藤氏)が2008年に現代美術家について書いた『アーティストは境界線上で踊る』(みすず書房刊)を読んだ。斎藤氏の質問に真摯に応える草間がそこにいた。自らを晩年に来ていると語りながら、前衛であることの矜持は、瑞々しく華やいでいた。『美術手帖』の作家インタビュー連載をまとめたこの本のトップに草間が出ているのは当然と思えた。草間はムンクと同じ統合失調症という精神病を抱えながら、その自己治療ともいえる創作活動を続けている。精神科医から見れば草間の芸術活動と病との関係は、病跡学の研究、あるいは患者の描いた絵としてアウトサイダー・アートともとらえられ、斎藤氏が草間に関心を示すのは自然なことであった。しかし、それだけではなかった。斎藤氏の現代美術についての語りは、精神医学の視点からアートの本質を浮かび上がらせる新鮮な切り口だった。私はここで今なお前衛でいつづける草間に出会い、草間の作品を改めてまっすぐ見ることを決めた。ここまできてやっと草間という前衛にたどりついた感がある。
 草間の生まれ故郷である長野県松本の、松本市美術館が所蔵する縦194.0×横259.0 cmの最大のかぼちゃ絵画《かぼちゃ》を選び、斎藤氏にこの絵の見方を伺うことにした。師走の土曜午後、東京・茗荷谷に講演を終えたばかりの斎藤氏を訪ねた。

セクシャリティー

 斎藤氏は1961年9月岩手県北上市生まれ。筑波大学医学研究科博士課程修了後、千葉県にある爽風会佐々木病院に24年勤務してきた。思春期・青年期の精神病理、病跡学、社会的ひきこもりを専門とし、現在精神科の診療部長を務めている。斎藤氏は、教師であった親の希望と、研究的なことをしたいという漠然とした自己の思いから医師になったと言う。教員だった祖父は童話作家に憧れ、同じく教員の父は詩の同人誌を作り、定年後は郷土史を戯曲化するなど、文学的な雰囲気が濃厚な家庭環境のなかで斎藤氏も文学的世界に関心を寄せ、北杜夫やチェーホフのように医者で小説家になることに憧れていった。文系と理系、理論型と臨床型といった区分があるが、斎藤氏は学生時代に理論も臨床も評価されていた精神科医で文筆家でもある中井久夫の本を読んで衝撃を受けたそうだ。またフランスの精神科医で精神分析医、哲学者でもあるジャック・ラカンも同時期に知った。ラカンの理論をこれだけ堅牢な構築物はほかにないと評価する斎藤氏だが、認識の問題を徹底して研究する哲学者にならなかったのは、人間の一大テーマであるセクシャリティーの問題を哲学は扱わないからだと言う。「医者の思考というのは、臨床という現場と理論という抽象の両方に接点を持ちうるような二面性があって、非常に先鋭的でありながら現実的な思考ができる」と。
 アートへ関心が向いたのは1993年に世田谷美術館で開催された『パラレル・ヴィジョン展』が決定的だったようだ。それまでは普通に美術館を訪れる程度だったが、この展覧会を機に、流派やモードにとらわれない特異な表現のアウトサイダー・アートへ目覚めたという。人が描いた絵でこれだけショックを受けたのは生まれて初めてだったと、その時の興奮が今も鮮烈によみがえるようだ。特に米国のアウトサイダー・アーティストであるヘンリー・ダーガーの作品は、独自の迫力で、病気にでもならなければ絶対に描けない強度のある絵だったそうだ。ペニスのある女の子が一杯出てきて、非常に無邪気。大人のエロスを経た目ではない性の問題が絡んでいて、斎藤氏はダーガーの心象にいきなり触れた感じがしたと言う。その後、斎藤氏が本格的に美術の批評活動に入ったのは2004年、偶然のように『美術手帖』の連載が始まった。草間彌生がそのスタートだった。

斎藤環氏
斎藤 環氏

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