アート・アーカイブ探求
草間彌生《かぼちゃ》──一つの無限「斎藤 環」
影山幸一
2010年01月15日号
リアリティーの質
美に対する斎藤氏の考えを伺った。「美というのは今や不用なもの。作品の力としては単純に美というものを考えるのが難しい状況になっている気がする。少なくともアート業界で素朴に美だけを追求している人はいないと思う。美というよりは、リアリティーの方の追求。草間の作品も美を超える。アートに関して言えばもはや美という基準はいらない。美というのは、クオリアみたいないかがわしいものである」。斎藤氏は作家の言葉と、作家の精神情態を反映させた作品から、作家の心の状態を読み解きつつ、その時代のリアリティーをつかもうとしている。リアリティーとは、美を超えた生命が実感できる前衛なのか。現代美術のリアリティーとは何だろう。
「視覚や聴覚など二つ以上の感覚ブロックが、シンクロすると起こる感覚がリアリティーと思っている。例えばCGアニメーション。物体が動いていてそれにシンクロする音声や音楽が流れていると、何がしかそこに第三の統合的な感覚が生まれてくる。これを最も原初的なリアリティーと考えていいと思う。それにアイロニー的なものが追加すると、藤幡正樹の作品のように単に棒が球体に出入りして動いているだけなのに、ものすごく猥褻に見えてしまう。球体と棒なのにセックスに見えてしまうというのは何なのか、人間のリアリティー感覚は意外に簡単に騙されるものかもしれない。発達障害の人の感覚を深く知ると、複数の回路で同じ情報を与えるのが大事とわかる。ただ言葉でしゃべっていても容易に意味が取れない人がいるが、身振り手振りを交えて話せば格段に言葉の意味が通じやすくなる場合がある。同じ意味を複数の違う刺激で与える。たとえば音声情報と視覚情報を合わせると、発達障害の人は意味を喚起しやすくなることがわかってきた。逆にリアリティー=倫理という人もいるし、私もそれに近いことを書いたことがあるが、ちょっとそれは違うかなと最近思っている。リアリティーのなかに倫理がいつでもあるわけでなく、リアリティーが人を騙す力もあるので、リアリティーの質を見極めなければいけない。クオリアに批判的な理由もそこにある」。
混沌と無垢
草間はなぜ絵を描くのだろうか。「草間の表現は、症状の等価物である。それを裏付ける形としてニューヨーク滞在時代に精神分析を受けて、病状がよくなったら制作が止まってしまったというのがある。この話はあとでストーリー付けされている可能性はあるが、あり得る話ではある。おそらく草間は今自分の症状を飼い慣らそうとしている。病院に入院して、そこに住みながら薬を飲んで治療し、残りの部分は創造行為でバランスを保つ。一般に統合失調症の人は、身体的な疾患にはかかりにくく、かかっても気付きにくいといわれている。草間は恐るべき記憶力と非常にタフな創造力を持っている。また統合失調症に特徴的なこととして、普通の娯楽を楽しめない人が多い。草間は一貫して作品制作に没頭し続けているが、あの異様な生産性は、くつろいだりほかの遊びをしたりする暇はないのでしょう。ストイックというと多少自己を律している感があるが、草間は楽しいかどうかは別にして、ある強い必然性のもとで制作を続けている。草間の頭には無数のアイディアが充満していて、それをことごとく作品化せずにはいられないようだ。これは病理が無かったら達成できないようなレベルかもしれない。年齢的にも業績的にも十分に大御所なので、もう弟子とかに描かせていればいいと一般に思うが、今も自分でガンガン描いている。意志やアイディアを振り絞ったり、あの手この手であがいたりして何とか達成しようとするのが普通の創造行為とすると、草間の行為は呼吸と一緒だ」と斎藤氏。アートセラピー(芸術療法)を超えて、絵を描かずには生きていられない“生の芸術”を日々実行、同時に現代美術の開拓者そのものである。病理を芸術力に変換し、混沌と無垢のあわいで育んだ水玉と網目模様という普遍のモチーフを、前衛のモチーフに昇華させた。
メディアを超える強度
斎藤氏はこれからのクリエイティブな表現世界をどのように予測しているのか。「今表現は、圧倒的に“描写”が減っている。つまり構造が前景化してきた代わりに描写が後ろに退くみたいな、構造優位の傾向が一般的に見られる。意図的か衰弱なのか、時代がそれを必要としているのかわからないが、構造が複雑で、多重的でしかもパラレルワールド的。これは小説やアニメに限らず、いろんな表現領域で起こってきている。これからの表現の傾向としては、身体性の衰弱と構造の前景化が進むと思っている」。
デジタルアーカイブは、複製の二次資料であり、表現の一つだが、そこにもリアリティーは存在するのか、アウラとの関係を伺うと、「おそらくアウラというのは新しいメディアが登場するごとに、新たに生み出されるものでしょう。つまりアナログ写真しかなかった頃には、絵画の実物と対比してアウラがあるないを言えるが、デジタル写真が出てくると、銀版写真にはアウラはあるがデジタル写真にはないというふうに、アウラはいつまでたっても出てくる。あまり意味のある言葉ではないかもしれない。草間のような作品になると、パターン自体にアウラを孕んでいるので、媒体の質を問わない強度みたいなものがありそうだ。基本的に固有性やアウラみたいなものは、テクスチャや質感に担保されているところがある。草間はそもそもそのようなものを重視していないので、いろんなメディアを超えて行く」。
こころのかみさま
草間は言葉が豊かだ。ジャンルを問わず一流は言葉をもっているものだと認識していたが、草間も例外ではなかった。草間の言語能力、言葉を扱うセンスは、天与のようだ。小説を書いて文学賞も受賞している。ニューヨーク・デビューの個展は「オブセッショナル(強迫観念)・モノクローム」、また自らのアートをコンセプチュアル・アートではなく「サイコソマティック(心身症患者)・アート」と命名している。自虐的と見えても、新たな意識と感動を喚起させる草間の言葉。草間の無垢な精神が宿る作品は、この言葉と共鳴し矛盾を孕んで常識を揺さぶる。全力を振り絞った心のなかからのメッセージは人智を飛び越える。さまざまな誤解や中傷のなかでも「愛はとこしえ」と。前衛としてのイノベーションは体質化し、ビジュアルと言葉の関連も無意識に構築しているようだ。草間は作品のタイトルやメッセージに独自の言葉を添えることで、さらにリアリティーが増す。メルヘンのイメージの《自殺した私》(1977)、赤い水玉の《自己消滅》(1982)である。統合失調症という病が、決してネガティブな印象にならないのは、ビジュアルと言葉の意味が織りなす逆説と、草間自身が作品であることにほかならない。
斎藤氏は「草間の表現は、言語優位では成立していない。言語的な秩序を逸脱して作品が作られる数少ない作家である。フランシス・ベーコンなどと同様に、物語性や言語的なものを振り切った域に辿り着いた人と認識している。今生きている作家でこれだけ病理と創造性の両立が成功している人はいないのではないか」と述べている。
草間がかぼちゃの詩を書いている。
「かぼちゃをなぜるとぐろてすくだ
かぼちゃはいつまでいじっていても
かたちにあたらしいはっけんがある
どのかくどからみてもおもしろい
かぼちゃかぼちゃかぼちゃ
かぼちゃはわたしのこころのかみさまだ
かぼちゃのなかにはおもいでがいっぱい……」
(『草間彌生版画集』より一部抜粋)
草間の生誕地、松本のために草間が愛を込めて制作した堂々とした巨大かぼちゃ。北アルプスの美しい山国の城下町で、父母の確執に苦しみ正麟寺の山門を描いては自己の死を見つめ、孤独を実感した故郷の松本。しかし、草間芸術の内包する魂には、松本伝統の“ぼんぼん”の花やファルスを思わせる道祖神「オンマラ様」に守られた力強さがある。生命力、孤高のたくましさは、愛嬌のあるかぼちゃに似ている。その太っ腹の飾らぬ容貌、タフな精神的強さ。一個のかぼちゃは、アウトサイダーとインサイダーの交差に描かれた草間のアバター、連鎖するネットをまとい、水玉模様となって果てしない一つの無限となる。
【画像製作レポート】
斎藤環(さいとう・たまき)
草間彌生(くさま・やよい)
デジタル画像のメタデータ
参考文献