アート・アーカイブ探求

葛飾応為《夜桜美人図》抒情と科学の暗闇──「安村敏信」

影山幸一

2010年08月15日号

江戸の奇才発掘

 安村氏は1953年富山県に生まれ、東北大学大学院修士課程修了後、1979年に板橋区立美術館のオープンと同時に学芸員となった。この美術館は初の区立美術館であり、昨年30周年を迎え、安村氏は美術館と共に歩んできたことになる。クラシック音楽が好きで、美術には関心がなかったらしいが、大学時代に辻惟雄先生(現・MIHO MUSEUM館長)と出会った頃から日本美術に向かい、美術館に就職してから近世美術史を専門とするようになった。
 板橋区立美術館のユニークさのひとつは、東京をひとつの地方と考え、江戸時代の江戸の文化を検証してみようという主旨によって集められた古美術コレクションにある。日本の古美術の研究というのは、都のあった京都を中心に研究されており、江戸はほとんど研究されていないと言う。20年ほど前に江戸時代の女性画家だけの展覧会を企画しているとき、安村氏は江戸の作家である応為を探すなかで、個人コレクターが所有していた《夜桜美人図》にやっと会うことができた。江戸時代は男社会の封建社会といわれながら、探してみると全国に女流画家が60名ほど出てきたと言う。
 安村氏は初めて《夜桜美人図》を見た時の感想を次のように述べている。「応為の代表作《吉原格子先の図》とは違いびっくりした。光に対する興味、特に人工的な明かりと自然光に対する感性があって、北斎以上に光に対する感性が強いと思った。この絵のハイライトは自然の星の光。今までにない傑作だと思い、落款はないが顔を見て応為に間違いないと確信した」。こうして一部の好事家にしか知られていなかった《夜桜美人図》は、「江戸の閨秀画家展」(1991)のポスターや図録の表紙に使われ、20年経った今では応為の代表作といわれるほど出世したのだ。
 今まで応為作として知られていた《吉原格子先の図》は、小さい作品だが、光と影を非常にうまく使っており、隠し落款があると言う。《夜桜美人図》は光と影の効果を楽しむ態度に《吉原格子先の図》と共通するものがあるそうだ。

女仙人

 応為についての記録は少なく、よって没年もわからず不明な点が多い。今まで応為は北斎の三女阿栄(おえい)として北斎の手伝いをしていたと伝えられていたが、実は北斎の何女かも確かではないと安村氏は言う。
 応為は商家で三代堤等林の門人である南沢等明に嫁いだが、等明の絵が下手だと笑いものにして離婚し、そして北斎と同居してからは再婚せず、北斎の助手となり最後を看取った。北斎の死後、数年して行方不明となった。着るもの、食べるものに無関心で、占いを好み、芥子(けし)人形(衣装を着せた木彫りの小さな人形)をつくり巨額の富を得たり、女仙人になりたくて茯苓(ぶくりょう:サルノコシカケ科のキノコ)を服用していたという変わり者だったらしい。
 また、落款には応為という画号と、栄という名を併せて用いた。北斎が「オーイ、オーイ」と呼んだから応為という説や、当時流行していた「オーイ親父ドノ」という大津絵節の一節から採った説、北斎の号「為一」にあやかり「為一に応ずる」の意味をかけた説などが伝えられている。応為自身は、美人でなく顎が四角く前に出ていたことから、少しかわいそうとも思えるが普段北斎は「アゴ」と呼んでいたらしいのだ。北斎晩年の弟子である露木為一が、北斎と応為の本所亀沢町(現在の墨田区両国付近)の寓居を描いた「北斎阿栄居宅図」(国立国会図書館)に親子の暮らしぶりと応為の容姿を垣間見ることができる。応為の記録は、少ないが飯島虚心『葛飾北斎伝』、高井鴻山『重脩堂主人』などに記されている。
 応為の初作は1810年(文化7)、『狂歌国尽』の挿絵と見られる。西洋画法に関心が強く、明暗法と細密描写に優れ、「美人画にかけては応為にはかなわない」という北斎の談話や、応為が北斎の描いた春画を見て、女の足の指がその瞬間内側に曲がるのだと指摘したという逸話も残っている。今日残されている応為の作品は、肉筆画が若干の点数、本の挿絵で高井蘭山の『女重宝記』(1847〔弘化4〕)など。錦絵は一枚も知られていないそうだ。北斎を助けてきた応為が、北斎の名で作品を制作している可能性も近年指摘されており、北斎画といわれている作品の中に応為作が隠されているかもしれない。

【夜桜美人図の見方】

(1)モチーフ

満点の星、灯籠、炎、桜、筆と短冊を持つ振袖姿の女性。

(2)題名

夜桜美人図。当時は絵を所有した人が好きに題名を付けた。南画を除いて作品に作家が自ら題名を付けるようになったのは、明治時代に展覧会を開催するようになってから。

(3)構図

星空を背景とし、娘の顔を照らす高い灯籠と、娘の足元を照らす低い灯籠によってつくられる奥行きのある空間。

(4)色

白く石灯籠の明かりが娘の顔や手元や桜を浮かび上がらせ、着物の朱を足元の雪見灯籠の小さな明かりが照らす。白い点描に加え、淡い藍や紅を一点二点と描き加え、夜空の星の明るさの等級の違いを表わすために、5種類くらいの描き分けが見られる。(図参照)。


星《夜桜美人図》部分

(5)技法

明暗法や遠近法、細密描写など、応為の優れた技量が感じられる肉筆画。シーボルトらオランダ人との交流があったとされる北斎を介し、西洋画法の影響を受けたと考えられる。

(6)サイズ

88.7 x 34.5cm。菱川師宣以来、美人画の浮世絵は女性の立ち姿に合う縦長のサイズが多い。

(7)制作年

19世紀中頃。

(8)画材

絹本著色。貝殻を砕いたり、石を削ってつくる岩絵具と膠(にかわ)が基本。

(9)季節

春。

(10)音

静かで無風。映像であれば音が消えたその瞬間。

(11)落款

なし。落款のある作品が数点あるので、それらから類推した様式論からこれも応為作とわかる。応為の決め手は、顔(図参照)や物の形体。


顔《夜桜美人図》部分

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