アート・アーカイブ探求
伊庭靖子《Untitled》──インティメートな空気感「是枝 開」
影山幸一
2010年12月15日号
インティメートな魅力
是枝氏は、取材の前日に企画を担当した「プライマリー・フィールドII 絵画の現在──七つの〈場〉との対話展」を無事に開催することができてホッとしている様子だった。1960年鹿児島市生まれの是枝氏は、アメリカで美術を学び、セゾン美術館、セゾン現代美術館の学芸員を経て、2003年より神奈川県立近代美術館の学芸員となり、現在は主任学芸員で、画家としても活動を続けている。
是枝氏が、最初に伊庭の作品を見たのは、1998年の「VOCA展'98 現代美術の展望」であった。その翌年の「アート・スコープ'99 伊庭靖子作品展」では、ビデオに映し出されていた伊庭の制作風景が不思議で記憶に残ったと言う。是枝氏は当時ミニマリズムやコンセプチュアルアートが好きで、具象には興味を持てなかったらしいが、年齢を重ねていくうちに、もう一回具象絵画について考えたいと思い、伊庭の作品に目を留めた。伊庭の絵は具象で写実的だが、いわゆるスーパーリアリズムとは違い、興味深いものがあったと述べている。
神奈川県立近代美術館で開催された伊庭靖子展の評判は良く、また開催前の準備では、作品を所有者から借りる集荷数が多く、伊庭作品は個人コレクターが多いことを知ったと言う。「たぶん伊庭の絵は、インティメート(intimate:親密な、個人的な)というか、自分の部屋に置いてずーっと見ていたいとか、そういう魅力がある絵だと思う。しかも見あきない。今回のこの《Untitled》も、いつまで見ても見あきない構造をもっている」と言った。
版画と写真
伊庭靖子は、1967年 京都に生まれ、大学は版画科を卒業している。伊庭の父も画家で、兄も東京藝術大学の助手だったという家庭環境に育った。伊庭は油彩で絵を描いているが、いわゆる油絵科卒業の人では、こういうストレートな描き方はできない、と是枝氏は驚いたそうだ。伊庭は版画を経由することで、油彩絵画の魅力を見出し、またその魅力を直截に引き出しているのかもしれないと。
伊庭の絵画は、版画と写真を基につくり上げられてきた。版画をやっていたこと、写真を一回通すことの意味について、伊庭は図録のなかで「写真に起こすと、そこで見ているものだけを取捨選択していく、そうなってきたときに本当に見たいものが見えてくる。そういう意味で何かを介在させて自分の考えをまとめていくのは、私に合っているように思います」と述べている。さらに「映像をモチーフに制作するということは、絵画という、自らの手で描く方法で、映像の光、色彩、形などを解きほぐし、映像によって絵の具の考察を深めていく」と、モチーフの構築には写真が有効であり、画材の研究にもなることを自覚している。
是枝氏は、版(写真)を通すことで伊庭のなかに何かが刻まれ、ペインティングをするときも不思議な客観性とか、距離感みたいなものと関係し、いわゆる客観描写でもない面白い感じがあると言う。そして次のように語った。「伊庭はわれわれに、多元的な感覚を呼び醒ましてくれる。また物や空間の質の違いを発する、質のありかを探るために、目に見えるもので目に見えないものを表わそうとしている。伊庭は近代の絵画の問題に尊敬や畏敬の念を持ちながらも、それだけではない何かを感覚的に探り、かつ意思力を持った人であり、時代の流れに関係しない作家だ。時代に媚びていないことがかえって新鮮な、本当の意味で時代性を感じさせる」。写真を見て絵を描く作家が増えている。写真を介在させる絵というのは、今の時代は自然なことになってきたようだ。
【Untitledの見方】
(1)モチーフ
陶器。壺の表面。
(2)構図
陶器の一部分をクローズアップし、トリミングした構図。ひとつの物体を描いているが、クローズアップしたことで、具象でありながら抽象性を兼ね備えている。
(3)サイズ
90×110cm。鑑賞しやすい、丁度いい感じの大きさ。ヒューマンサイズに対して、親しみやすいサイズ。魅力的なスケール感。
(4)画材
キャンバス、油彩。陶器の表面に塗った釉薬の“つるっ”とした感じはたぶん油彩でないと出ない。透明感はアクリルでも出るが、油彩は発色が良く、艶のある画面になり表現の幅が出る。
(5)色彩
白、藍色。細部をよく見ると、赤や黄色も見える。下地が重なっているため深みのある青が出ている。発色のいい、彩度のある色でありながら、画面はグレーのような調子の幅がある。
(6)技法
陶器の写真を撮り、それを見ながら記憶した印象でキャンバスの角から描く。キャンバスに下地を3〜5層ほど塗り、その上に筆でタッチするようリズミカルに描いている。筆跡はなく画面はフラット。スプレーガンで描くスーパーリアリズムや日本画の写実描写とも違う。作品に近づいて見ると細かく描いていないことがわかる。
(7)リズム
全面に描かれた陶器の模様が、絵にリズム感を与えている。
(8)タイトル
Untitled。イメージが自由に広がるように固有の名前は付けていない。文学的な物語性を排除する意図がある。
(9)音
静謐な絵でありながら、キーンとした金属的な音や柔らかい音もあり、良質な現代音楽を聞いているような感じがする。
(10)表現内容
反射の部分にフォーカスを当て、ピントが合っている部分と、ぼやけている部分とのコンビネーションが絵を豊かにしている。一見フォト・リアリズムの写実に見えるが、物質とそれを見つめる視点の間にあるリアルな空気感を描出。質感は、物質自体の質感もあるが、もっと光や空気感を含んだ質感。オールオーバーに画面全体のピュアな空気感を追いかけて、絵画が呼吸しているような感覚や作品に親密さを与えている。