アート・アーカイブ探求

村上友晴《無題》──人間実存の黒「山田 諭」

影山幸一

2011年01月15日号


村上友晴《無題》1981/1982, キャンバス・油彩・木炭, 162.0×130.0cm, 個人蔵
Copyright Tomoharu MURAKAMI, Courtesy SHIGERU YOKOTA GALLERY
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引きのエネルギー

 「タイガーマスク現象」が日本中に広がり、世知辛い世の中にもかすかな明るい可能性を感じるが、年末年始は日頃の自分を変身させ、心のイベントができる時季なのかもしれない。師走の忙しさと、新年を迎える晴れやかさ、初詣は自己都合のいい神頼み。信仰心のない日常を送っているが、年末年始は何となく清廉な気持ちになってくる。この日常とはちょっと違う感覚のなかで思い出したのが、“村上の黒い絵”である。20年ほど前に見た真っ黒な絵が、無意識的に心に焼きついていたようなのだ。表現されている何かを受け取りに行く展覧会で村上の作品は、色や線や形などの積極的な表現がなく、画面に凹凸はあるが、全面黒一色で何もない。グループ展のなかで、四角い黒は中立に見えた。すとんと心に落ちた引きのエネルギー。誰でも黒い絵は描ける、それを堂々とした作品にしているすごさに驚いた感覚が甦ってきた。“黒い絵”として認識し、踏み込まないまま長い時間が経過していたが、ようやく村上の黒い絵に向き合う時期が到来したような気がした。
 そんな折、横田茂ギャラリーで「村上友晴 マリア礼拝堂」が開催(2010.12.13〜2011.1.21)されているのを知った。まったくの偶然、それも東京湾に近いギャラリーは、車で15分ほどのところだった。

「絵画ではない」

 倉庫を改造した広いギャラリーには黒い絵が静かに掛けられていた。絵具で厚みを増した絵は、決して沈黙ではなく生動感を湛えていた。その一瞬何かがわかり、何かがわからなくなった。近くにいた横田氏が穏やかに「これは絵画ではない」とつぶやいた。1978年から村上作品を取り扱ってきたギャラリストの言葉である。またわからなくなった。絵画でないとすればこれは何か。新年早々の探求に重いテーマが与えられた。
 昨年、村上友晴の本格的な回顧展が名古屋市美術館で開催(2010.6.1〜7.4)されていた。「ピュア・アート(純粋な芸術)」を目指している桑山忠明と合せた連続個展の形式で「静けさのなかから:桑山忠明/村上友晴」展と題されていた。「あいちトリエンナーレ2010」(2010.8.21〜10.31)の直前開催であったことが、この稀有な展覧会を強く印象づけられなかったのか、私は知らなかった。展覧会の名残を少しでも感じたく、企画を担当した学芸員・山田諭氏(以下、山田氏)に村上友晴の黒い絵《無題》の見方を伺ってみたいと思った。東名高速で名古屋に向かう途中、青空に真っ白な富士山が光っていた。クリスマス・イヴの午後、村上の“黒い絵”について山田氏に伺った。


山田 諭氏

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