アート・アーカイブ探求
村上友晴《無題》──人間実存の黒「山田 諭」
影山幸一
2011年01月15日号
アートって何?
山田氏が、村上作品に関心を寄せている点は「根源的なことになってしまうのだけれども、『アートって何だろう?』ということなんです。古来からずっとアートというものを説明する大きな言葉としての“美”ということが問題にされます。アートにとって“美”は必要なのか、というのも含めて。そういうことを問い直すためにも、村上友晴の作品があり、また見てもらいたい。人間が行なうことって何なのか。私たちはアートでないと感じられないのか、アートであって初めて感じられると思い込んでしまっているのではないか、これはアートだからすごいはずだ、という変な逆転の意識が強くあり過ぎるような気がする。本来、すごいなと思ったものがアートになったはずだし、すごいなと思ってもアートでなかったものもある。例えば時代を経てきた骨董品。名もない職人たちが、近代人のような表現意識を持たずにつくった物は、なぜかものすごいものになっている。人間が生きていくなかで、いろんなものに出会って、いろんな体験をするわけです。何かに感動し、心の底から喜びを感じたり、祈りを感じたり、さまざまな感情を得ることができるのは、アートからだけではない。日常生活のある一コマかもしれないし、大きな自然を体験したときかもしれない。アートだけを特殊なものとして考える必要はないと思う。そういう意味で、僕は村上の作品に感動するけれど、それが近代以降の考え方でいうアートじゃなくてもいいと思っています。村上はきれいに見せようとか、人に何かを伝えようとかまったくない。彼が生きるために行なっている行為の結果がこうなっているということです。本人は絵を描いているという自覚はないと思います」。
回顧展とトリエンナーレ
村上と桑山の回顧展「静けさのなかから」は、「あいちトリエンナーレ2010」を開催する直前の展覧会であったが、本当はトリエンナーレと同時開催できればよかったと山田氏は言う。「旬の作家を紹介するのがトリエンナーレとしたら、40年、50年の歩みをもっている現代美術家の回顧展をトリエンナーレにぶつけたかった。ある意味アンチトリエンナーレを意識していた。トリエンナーレやビエンナーレはその都市にある特別な場所や会場で開催し、そこに世界中の人が集まる。同時にその都市にある美術館を見に行き、この都市にはいい美術館があるというのを多くの人が記憶して帰る、というのが長期的な文化戦略で重要だ。そのときどのような展示を行っているのかが問われる美術館は、その都市の文化的な顔になるべきもの。名古屋市美術館は、最低限の存在価値を守るために、収蔵品を見せるよう常設展示室を残し、1階と2階をトリエンナーレ会場として開催した。横浜トリエンナーレや瀬戸内国際美術祭、越後妻有アートトリエンナーレもそうだが、日本各地で国際展が開催されている。僕は日本でやっているトリエンナーレのなかで妻有は開催場所との関係でとてもいいと思っているが、これがあまりに成功したために、最近では純粋なアートではなく、町おこしとか、エコとか、何かのためのアートが増えている。アートが目的ではなく、手段になっている。僕にはそれが間違っている感じがする。だから2人の回顧展を企画した。6,500人余の来場者数だったが、この展覧会は知らない人も多くて、「幻の展覧会」と悔しがっている人もいる。以前から僕の企画した展覧会は名古屋でしかやらないことが多かった。東京や大阪で開催した展覧会を名古屋で巡回開催しても東京や大阪の人は動かないけれど、名古屋でしかやらないから名古屋に見に来る。そういう展覧会を開催することが美術館の存在価値を高めると思う」と語っている。
耳を澄ませば
《無題》のわからなさをどのように考えるか。「美術館に来て作品が展示されていればわかって当然と思う人がいるが、美術とはそんなに簡単なものではない。僕も20年間村上の作品がわからなかった。わからないことをわからないまま生きて行くのは苦しいこと。だけどその苦しさを胸に抱きながら、何年も作品を繰り返し見に行って、あるときに「あっそうだったんだ」という瞬間を迎える快感がある。それが本物の美術鑑賞だと思っている。だからわからない作品と出会えるのは幸せなこと。わかってしまって興味を失ったらもう終わりです。またわかったと思ってもその奥がありますから」と山田氏は言う。村上の《無題》は、アートを考えるアート、考える装置、永遠に想像させるシステムを内包した人間実存の証であった。
冬の陽光が弱く差し込むギャラリー。毎年年末に展覧会を開催している横田茂ギャラリーと、村上を支える夫人の存在は大きいと山田氏の言うとおり、祈りの生活が生み出す力とギャラリストのプロデュース力を感じた。作品に向かい合って、細部を集中して見ることからすべてが始まる村上作品。黒色の絵具に反射する光やマチエールの凹凸の微妙な変化に注視し、また画面の上の視線を縦横に移動したり、作品を横から見たり、一気に離れて遠くから眺めたりしていると、絵が自分を見ている感じにもなって黒い絵とのコミュニケーションが始まる。耳を澄ませば声が聞こえてくるかもしれない。
山田 諭(やまだ・さとし)
村上友晴(むらかみ・ともはる)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献