もしもし、キュレーター?

第7回 自分の言葉を発していい、考えを表明していい、ライフラインとしての美術館──森山純子(水戸芸術館)×赤井あずみ(鳥取県立博物館/HOSPITALE)[後編]

森山純子(水戸芸術館)/赤井あずみ(鳥取県立博物館/HOSPITALE)/杉原環樹(ライター)

2023年04月01日号

学校と連携して教育普及事業を展開したり、地域と美術館をつないだり──従来の「学芸員」の枠組みにとらわれずユニークな活動を展開する全国各地のキュレーターにスポットをあて、リレー形式で話を聴きつないでいく対談連載「もしもし、キュレーター?」。前回と今回は、2025年春の鳥取県立美術館の開館に向けて準備を進める赤井あずみさんが、そのなかで出会った悩みを携えて、水戸芸術館のオープン当初から教育普及事業に携わる森山純子さんを訪ねます。
書籍『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル、2021) にも登場し、あらゆる文脈の人々と美術との接点のつくり方を模索し続けている森山さんは、ご自身も水戸出身。市民からの風当たりも強かったという1990年の開館当初から現在に至るまで、教育プログラムやボランティアスタッフとの協働、「高校生ウィーク」といったチャレンジングな試みの数々を通して開かれていった、水戸芸術館の奮闘の数々。後編の今回では、森山さんご自身の経験を通して改めて実感する、公共における美術館の役割などについても話が及びました。(artscape編集部)
[取材・構成:杉原環樹/イラスト:三好愛]

※対談の前編(第6回)「『ひとりの人間として扱ってもらう』経験に出会う場所を」はこちら
※「もしもし、キュレーター?」のバックナンバーはこちら


先輩に学んだ、「ライフライン」としての美術館の意義を伝えていくこと

──前編(第6回)では、水戸芸術館(以下、水戸芸)の教育普及の歴史や、活動の成果をめぐるお話などを聞いてきました。前編の最後で、美術館という場所は、街のなかでさまざまな事情からギリギリで生きる人たちにとって、一種のライフラインや居場所になり得るというお話がありました。「美術館=作品を観る場所」というイメージが強いなか、水戸のような規模の街でそうした場所があることの重要性を感じました。

森山純子(以下、森山)──水戸は県庁所在地とはいえ、人口27万人規模の街です。ソウルから来た作家のアシスタントが「思ったより大きな村ね!」と言ったこともありましたね(笑)。大都市のようにすべてが揃っているわけではないので、街全体を見て不足感があり、美術領域でも扱えることは実践したいと思ってきました。2005年から開始した未就学児と保護者のための鑑賞ツアー「赤ちゃんと一緒に美術館散歩」はそのひとつです。当時はまだ街中に児童館がなく、私自身が子育て中に気軽に行ける文化施設がありませんでした。

──「ライフライン」としての美術館の意義は、森山さんのなかでどのような経緯を経て得た視点だったのでしょう。

森山──水戸芸が走り出した当初、すでに教育普及活動が盛んだった美術館である世田谷美術館、目黒区美術館、宮城県美術館の3館の事例をおおいに参考にしていました。私は仕事を始めてすぐに宮城県美術館の教育普及活動10周年記念プログラムに1週間、研修に行かせていただき、仕事の起点となるような経験をしました。そのときに教育普及担当学芸員の齊正弘さんが、「消防署に一生世話にならない人はいっぱいいるでしょう? でも、消防署をいらないとは言わない。それは消防署が何で必要かをみんなが知っているから。美術館はどうでしょう」というようなことを話されていたのが強く印象に残っているんです。

私たちの大切な仕事のひとつは、美術館がどういう場所かを知らせることだ、と受け止めました。美術の面白さを伝えるのも当然だけど、もしかしたらすべての人に美術館は必要がないかもしれない、という前提のうえで、それでも美術館があることで先に進める人たちがいることや、公共施設としての必要性を伝えていくこと。当時美術館で活動していた先輩方に教えてもらったことは、いまでも活動の指針となっています。

──森山さんに事前にいただいたメールでは、水戸芸の開館時(1990)はまだ大学でマネジメントを学ぶ学科があまりなく、「美術館でのワークショップ創成期に素晴らしい仕事をされていた諸先輩方は、皆さん教育畑や実技畑でありました」とも書かれていました。

森山──そうですね、当時の宮城県美術館の齊さん、水戸芸の黒沢伸さん(第6回を参照)、また、いまも私が憧れる先輩のお二人、元目黒区美術館の降旗千賀子さんや、現在は岡山でIDEA R LABを主宰する大月ヒロ子さん、皆さん大学では実技系だったと思います。何より興味や専門性が違う人たちが集まった方が豊かな現場がつくられると考えています。

先ほどの宮城県美術館の創作室にはいまも「なんでも相談」の活動があります。ここは常駐のスタッフがいて、市民がいつでも作品をつくりに来られる場所です。齊さんによるとなかには「何かつくりたいけど何がつくりたいかわからない」と相談しにやってきて、相談してるうちに気が晴れて何もつくらないで帰っていく人もいたそうです。私は対話が内包する創造性を感じるこの話がすごく好きなんです。

私が研修に行ったときには、創作室でつくられた市民による作品がたくさん展示してありました。例えば主婦の方がつくった愛犬のための木製玩具が、すごく格好いい抽象彫刻のようでびっくりしたり。創作室ではその人に寄り添った方法を一緒に考えるという活動もされていて、それは私がいまもやりたいと思っていることの原点であり、理想のかたちです。

水戸芸でも、いつもヒントになるのは来館者の人たちの声です。ひとりの方の強い希望と視点がほかの人に波及することがあります。白鳥建二さんのツアーもそうですし、「赤ちゃんと一緒に美術館散歩」もそう。水戸芸には「ATM(Art Tower Mito)フェイス」という館内係員がいるのですが、事務局から彼女たちのスキルを生かすような企画立案を頼まれ、彼女たちと地元の子育てNPOと相談しながらつくってきました。プログラムの素材は、身近なところにいっぱい転がっています。


高校生とつくった、さまざまな人と出会い、ただ居られる場所

赤井あずみ(以下、赤井)──水戸芸の教育普及プログラムでは、1993年から現在まで続く「高校生ウィーク」もあります。こちらはどのように始まったのでしょうか?

森山──当時の芸術監督の清水敏男さんは、学生にも文化にお金を出す姿勢を学んでほしいと学生料金を設定しませんでした。その代わり「ハイティーンパス」という年間パスをつくりました。通常の入館料800円に200円足して1000円払うと、毎日美術館に入れます。若い世代にこそ多様な価値観に触れてほしいという願いでした。その年間パスの販売促進週間として始まったのが「高校生ウィーク」です。何をしたかというと、地域の各校に電話してテスト期間を調べて、各校ごとに1週間、入場を無料にしました。


高校生ウィークの案内チラシ(2003)


赤井──各校のテスト期間を合わせるとは、アイデアも手間もすごいですね。

森山──とても面倒な作業でしたので、「ウィーク」だったのは1年目だけ(笑)。翌年から、無料期間を1カ月に延ばしました。90年代はまだ高校生でも楽しめるレクチャーを実施するのみで、100~200人ほど利用する学生たちがどんな反応をしたのか直接はわかりませんでした。そうしたなか、高校生自身が動けるプログラムを考えていたところ、1999年頃、職場にB全判もプリントできる大型プリンターが入りました。そこで、実験的に三つの高校の美術部に呼びかけ、自分の学校の同級生に届くような水戸芸のポスターをつくってもらえないかと頼んだんです。パソコン操作や教育的配慮もできるスタッフがいたことも後押ししました。

この呼びかけに、各校から3~10人ほど参加してくれました。様子を見ていると、制作の楽しさのほかにボランティアやスタッフ、同じ興味を持つ他校の学生と話すことに喜びがあるようでした。さらに、エントランスホールで学生がパソコンをいじっていたら、お客さんが「何をしてるの?」と声をかけてくれる光景も。皆さんコミュニケーションの場を求めていることがわかってきたので、カフェ好きのスタッフとワークショップルームの一角にお茶が飲めるコーナーをつくりました。すると高校生がホームレスの方を連れてきてインタビューしたり、廃材を拾ってきて何かつくり始めたり。みんなアイデアがあり、あれこれ実現したい。そうした経緯で数年の間にギャラリーの一角を全面カフェにし、高校生もお客さんも自由にお茶を飲め、活動ができる場として開放し始めました。2004年のことです。


2006年の高校生ウィークの様子。普段はワークショップなどに使用されているギャラリーの一角がカフェに変貌を遂げる。この年は水戸農業高等学校との連携で畑も設置されている(画面左)


高校生ウィークでは毎年さまざまな「部活動」が行なわれる。写真は2010年に開催された展覧会「リフレクション 映像が見せる“もうひとつの世界”」の時期に実施した、出品作家Chim↑Pomのメンバーへの「放送部」によるインタビューの様子


赤井──いまのお話を聴いても、森山さんは「コミュニケーションが生まれること」それ自体をとてもポジティブなものとして捉えていらっしゃいますよね。

森山──特に小学生から大学生までの学生全般には、いろんな人に会ってほしいなと思っていて。自分の経験からいうと、すごく狭い範囲の価値観にしか触れてこれなかったので、本当に小さい頃から、いろんな人がいて、いろんな選択肢があって、それを自分が選んでいいということだけ伝えられればいいと私は思っているんです。それは、「美術以前」の話なんですけれど、アーティストやスタッフ、ボランティアなど、自由で寛容な考えを持つ大人たちが集まる美術館はそのことを伝えられる場だと考えています。自分の仕事はそのための容れ物をつくっている感覚です。

赤井──いろんな考え方を受け入れてくれる場の重要性は、ご自身の経験からそう思われるんですか?

森山──私が中学生だった70年代後半から80年代は校則が厳しくて、なんかいつも抑圧されている気分がありました。ソックスにワンポイントが入っていると「ソックスじゃない」と怒られて、それってどういう理屈なんだろうと。たくさん理不尽を浴びて、「なぜ?」ってずっと思っていたんです。

赤井──「そのルール、誰が決めたん?」とかね。

森山──この決まりを守ることにどんな意味があるのか、とか。そのことについてすごく話したいし、聞きたかったけど、そんな話をしていいのかもわかりませんでした。社会に希望を持っていなくて、大人にもなりたくなかったです。

赤井──でも、例えば早く学校を出て、どこかよその都会に行きたいみたいな気持ちはなかったんですか。

森山──そういうアイデアも気力もなかったんです。何をしてもダメだと言われて育ちましたから、自分は何かができると思ったことがなくて。幼い頃から将来の夢を書かされるのが苦痛でした。

赤井──地元の教育学部に行かれたのは?

森山──消極的な選択でした。高校はここで、近所の大学に入って先生に、という親が敷いたレールです。脱線しましたけど……。まあ、本質的に教育は好きだったんですよ。私、ガキ大将だったものですから(笑)、近所の小さい子たちに何か働きかけると変化していく、それを見るのは好きだという自覚はありました。

高校生ウィークはそういう経験の反動でもあるんです。その頃、「ただ居ていい場所」があったらよかったなって、自分が欲しかった場所でもあるんですよね。


アーティストが隣にいること/参加者主体で関われる場所

──いまの「美術以前」という表現もそうですが、森山さんや水戸芸の活動には、フレームに入ったアートとは異なる、日常的な場にあるものへの意識を一貫して感じます。「ただ居ること」や日常会話など、美術の手前にあるものの価値を大切にされているな、と。

森山──そういう視点は大事にしてきました。一方で、その「一見何でもないこと」の価値を見つめ直す場が、展示室のすぐ隣にあることが重要だと思っていて。高校生ウィークのカフェとしても使う水戸芸のワークショップルームは、縦長のギャラリーのちょうど折り返し地点にあります。近年、社会でもいろんな居場所づくりの取り組みがありますが、水戸芸ではその近くにアーティストという思いがけない角度の価値観をもたらす人がいたり、作品に出会えたりするのがよいな、と。個展の開催時に藤森照信さんや山口晃さんが普通にカフェで仕事をしたり、高校生たちと話すこともありました。また、ボランティアの方がカフェスタッフの高校生に声をかけて、一緒に展示室を回ることも。そういうところに、美術館ならではの突破感があると思っています。

赤井──確かに、ワークショップルームと展示室は離れている美術館が多いなかで、水戸芸はそれらが隣接してありますよね。


赤井あずみさん


森山──音の干渉など、使いづらい面もありますけど、あの場所にあることで得がたい効果もあり、水戸芸の教育プログラムにとっては大切な要素だったと思います。

──今度の「ケアリング/マザーフッド:『母』から『他者』のケアを考える現代美術」展(2023年2月18日~5月7日)もそうかと思いますが、展示内容と高校生ウィークのカフェで行なうプログラムの内容がリンクするので、カフェ目的で来た高校生も展示に触れざるを得ないし、展示のお客さんも敷居なくカフェに来て、関連図書に触れたりできる。そういう関係がありますね。

森山──はい。さまざまな目的の人たちが、自分らしく過ごし、混ざり合う場が図らずももたらされます。

でも、悩むことも多くあります。カフェ開始以前のことですが、何故か思い出す風景があります。1998年の「なぜ、これがアートなの?」という展覧会のとき、ある先生が同じクラスの高校生を期間中に3回も連れてきてくれました。充実した気持ちでいた私は、その日参加していたひとりが一生懸命自転車を立ちこぎで帰っていくのを見て、「この子にとって美術館での体験は何だったのだろう」と思っちゃったんです。言い方は悪いですが、「美術館の満足のために生徒を付き合わせては嫌だな」ってすごく思ったんですね。

その子のなかに美術館の体験が残るか残らないかはわからないけど、主体は絶対的にその子の側にと、夕日とその彼のシルエットを見て思って。記録に美しく残るものじゃなくて、どうにかして参加者主体というか、その人らしい活動ができるようにしたいというのは、強く思っているところなんです。

赤井──森山さんのその切実さが、重要なんだと思いました。私は物事がいい方向に動いていくうえで、切実さがベースにないといけないと思っていて、今日もそれを感じました。

森山──開館した頃、街に出ていくと「現代美術って何のために必要なのか?」という意見をたくさん浴びせられた時期があり、その気持ちは私も地元出身者としてすごくわかるんです。企画担当の学芸員の皆さんは展覧会のことだけで手一杯なのはわかっていますから、私が両者をつなげないといけないと、当時勝手にミッションを持って働いてました。

だけど、つなげたその先の部分は、市民が主体的につくるものだと思うんです。それは他者に任せるんじゃなくて、いろんな人が運営に参加して、自分たちでつくるもの。私はたまたまその窓口としてここにいますけど、同時に一市民でもあるので、同じ立場でみんなで協働の場をつくっていけるのが理想なんです。


2012年の高校生ウィークの際、カフェで実施された、作家・占部史人によるワークショップ「時間旅行─ブリキの車にのって」。若い世代とシニア世代とが一緒に制作をした


ひとつよく思い出す例があって、一時期、毎年カフェに盗み癖のある近所のおじいちゃんが来ていたことがあったんですね。無料工作コーナーで欲しいものを持っていっちゃうんですけど、片方でこのおじいちゃん、つくることも好きなんです。黄色い布地でスカーフをつくりたいから、ミシンの使い方を教えてとスタッフの子に声を掛けたり、去年つくったコースターにラメをつけたいと大切に持ってきたり。カフェに来るお客様と楽しそうに話したり。出入り禁止にするのは簡単な方法ですけど、「どうしたら『おじいちゃん』と共存できるのか?」をその頃みんなで考えました。

そこで、おじいちゃんが好んで座る椅子を周囲から見える位置にするとか、フリーのティーバッグを1個だけにするとか、いろいろと共に在るためのアイデアが出てきました。排除ではなく、葛藤しつつ智恵を出し合う。美術館はそういうことができる場で、みんなにはそのスピリッツを持って帰ってもらいたい。そんなことは形にも、表にも出ないですけど大切だと思っています。


「自分」と「他者」に出会えるレッスンの場。その評価の仕組みの構築を

──最後に、今日、「美術以前」の日常的なコミュニケーションや、その人らしさへのまなざしの大切さといった話をお聞きしましたが、一方、個人的な実感だと、そうしたものの価値を感じる余裕は社会からますます失われている気がします。社会がどんどん貧しく、キナ臭くなり、「文化なんていらない」という声も増えている感覚がある。そうしたなかで森山さんは、美術館という場所の今後をどう捉えているのか、お聞きしたいです。

森山──先日、ある新聞社の取材を受けました。その記者さんは、教養主義と呼ばれるような、アートが役に立つとか、アートがビジネスに直結するといった最近の言説に疑問を持っている方だったんですね。わからないものをわからないままに、みんなで話せる場所が必要なんじゃないかというお考えで。

私も、そういう余白的な場所を社会に残しておきたいと思っています。答えがショートカットできる場所ではなくて、問いが問いのままあって、多様な意見が聞ける場所。「正しさ」ってひとつではなくて、文化や文脈によって異なるのに、そのこと自体を知る機会が少なくなっていると思う。水戸のような小さいコミュニティのなかでさえ多様な人がいて、多様な考えがあることをまずは知ったり、アーティストが持ち込んでくる異質な価値観を自分はどう捉えるかを考えたり、隣の人と話したり。美術館は、市民がそういう考えを耕すレッスンの場所であり続けてほしいですね。

あとは、本当にシンプルに「人権」の問題だと思うんですよ。自分の言葉を発していい。考えを表明していい。そういったことって、学校や企業や、私たちが生きている場所では実はあんまり担保されてない気がしていて。実際、私も美術の世界に来て初めて、私は安心して私の考えを言っていいんだって実感できたんですね。


森山純子さん


赤井──私からも最後に一個いいですか? これまで活動してきて、一番大変だったことって何ですか?

森山──その質問には十八番の答えがあります。シンプルにフィジカル面で大変だったことは、1994年の「ジョン・ケージのローリーホーリーオーバー・サーカス」展の際、黒沢さんに「ニワトリを200匹借りてくるのと、展示室に木琴を敷き詰めるのどっちがいい?」と笑顔で聞かれたときでしょうか。もう、これは確実に私が調達するやつだ! と思いました。

赤井──ヤバい二択ですね。

森山──結果、ニワトリにしました(笑)。ほかにも臨死体験をテーマにした作品があり、翌日の夕刻に体温になるようにガラスのプールをゼリーで満たして、と言われて、夜中に大きな鍋で何杯もぐるぐる魔女みたいにゼリーを煮続けたこともありました。寒くて泣きましたけど、いまでは笑い話です。

それよりも私にとっていま、一番難しいことは、活動の評価ですかね。行政的な評価と、社会教育機関である美術館としての矜持や大切にしたいことの間に距離があり、ダブルスタンダードのなかにいるので、その間をどうやって埋めるのかが課題です。「そもそも美術館は何のためにあるのか」という最初の問いに立ち戻ります。

赤井──本当にそうですよね。私もまさに鳥取で、外部の研究者に観察をお願いしたり、評価の枠組みのようなものをつくるようなプログラムができないかと考えているところです。本当に手探りで、まだまだこれからという感じなんですけど、それはやらないといけないし、やってみたい。

森山──難しいですけど、やるべきことだと思います。開館当時の館のミッションについて、専門家や市民との対話や、評価軸が残るのは貴重です。日本文教出版が出していた『ミュージアム・マガジン・ドーム』という美術館教育の専門誌があって、編集長の山本育夫さんが美術館教育の評価ツアーを市民有志で結成して、2000年代にさまざまな美術館を回られていたこともありました。そういうことが、内からも外からも必要なのかなと思います。


2008~19年まで実施されていた小中学生のための鑑賞プログラム「あーとバス」の様子(写真は2018年の「霧の抵抗 中谷芙二子」展の際のもの)。このプログラムにも多くの学生や市民がガイドスタッフとして参加していた



(2023年1月27日取材)



[取材を終えて]
水戸で育った中﨑透さんの個展(第6回を参照)にも当てはまるが、元を辿ってみると「水戸芸やその周辺の人が若い世代に向けてこれまで撒いてきた種が、実はこの人やこの企画に影響を与えていた」というような事例を、ここ数年の間だけでもたびたび目にする。現代美術の内外で世代交代や新陳代謝が進んでいくなかで、その影響がさらに顕在化していくのはむしろこれからなのだろうと思うと楽しみで、同時に、鳥取県立美術館をはじめとした今後新たに生まれる施設でも、そういった長い目線で市民との関係を耕していける状況が受け継がれ発展していくといいなと切に思う。貴重なお話の数々、ありがとうございました。(artscape編集部)



イラスト:三好愛
1986年東京都生まれ、在住。東京藝術大学大学院修了。イラストレーターとして、挿絵、装画を中心に多分野で活躍中。2015年、HBGalleryファイルコンペvol.26大賞受賞。主な仕事に伊藤亜紗『どもる体』(医学書院)装画と挿絵、川上弘美『某』(幻冬舎)装画など。著書にイラスト&エッセイ集『ざらざらをさわる』(晶文社)。
http://www.344i.com/

もしもし、キュレーター? /relation/e_00062891.json l 10183955
  • 第7回 自分の言葉を発していい、考えを表明していい、ライフラインとしての美術館──森山純子(水戸芸術館)×赤井あずみ(鳥取県立博物館/HOSPITALE)[後編]