トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
1. 転換点として1995年
五十嵐──僕が学生だったときには、ポストモダンがバブルと連携して花開きましたが、それが収束したのが1995年だとすると、その頃から建築を取り巻く環境はまったく違う風景が広がっています。例えば、大学の教育環境も今は在野で活躍する若手の建築家が大学にいるのが当たり前になっていますが、これもここ十数年のことです。かつては大学の研究室とアトリエ系の建築家はもう少し分かれていましたが、今やそれは当たり前です。デザインの流行りから言えば、今度はモダニズムが再評価されたりするのも目の当たりにしましたが、両方の時代を巧みに生き抜いているのは隈研吾
一方でグローバリズムという観点からは、安藤忠雄 さんも隈さんも伊東さんもSANAAも、世界各地に建築を日本人が作るのが当たり前になりました。もちろん磯崎さんはそういう先例を80年代に作っていますが、現在、世界は日本人の建築家を非常に高く評価しています。一方で景気の後退から日本人建築家の仕事が国内は減っており、公共建築のプロジェクトがあまりなく、むしろ活動の舞台が海外に広がっていきました。さらに、グローバリズムと連携したビエンナーレ、トリエンナーレなどの国際展が世界中、とくにアジアで爆発的に増加しました。当時学生だった人と今学生だった人が見ている世界は、振り返って見るとまるで違うものになった気がします。
藤村──1995年はいくつかの転換点だったと思います。一つには情報化、もう一つはグローバリゼーションです。情報化はまず設計の現場にCAD が導入され、配列複製による反復表現が流行しました。バブルの後の合理化を各企業が行ったのに始まって、私が学生の頃には大学で学生がCADを使うようになりました。私はロットリングを使ったことがない最初の世代だと思います。
グローバリゼーションはバブルの頃にはフィリップ・スタルク やピーター・アイゼンマン が来日するといった動きはいくつかあったとは思いますが、それがより本格化したと考えられるのは1995年以後です。大きく言うと建築の表層を外国人建築家が行い、深層を企業が行うというのが世界的な傾向だった思います。
表層と深層の二層構造化は1974年の「巨大建築論争」 以後に表面化し、バブルの頃定着したと考えられます。例えば、ビールメーカーの建築は文化施設と生産施設で設計者がはっきり分かれていて、文化施設の設計はキリンビールが高松伸 さん、サントリービールが安藤忠雄さん、アサヒビールがフィリップ・スタルク、サッポロビールが伊東豊雄さんというようにアトリエ系の建築家が行なっているのに対し、生産施設の設計は日建設計や三菱地所設計といった組織設計事務所が行っています。アトリエ建築家が生産施設を設計することはほとんどなく、組織設計事務所が文化施設を設計することもない。発注者がはっきり使い分けるようになったのがこの頃だと思われます。
企業の広告活動のために文化施設の企画が立てられ、アトリエ建築家が造形力やその独自性を活かしてそれを実現し、バブルの頃その表現がピークを迎えました。私は彼らの残したイメージの強さに敬意を込めてひそかに「ビール・アーキテクト」と呼んでいますが、バブルが弾けた後も、彼らの残した建築家の役割像がいまだに尾を引いていて、本当は企画者こそが糾弾されるべきなのに、設計者のエゴがそうさせたのだと考えられていると思われます。
深層と表層という役割分担は、1990年代後半グローバリゼーションによって表層デザインは外国人が担当し、深層を組織設計事務所が行うという新たな役割分担が固定化しました。東京ミッドタウンでも六本木ヒルズでも丸ビルでも、表層は外国人で深層は組織設計事務所という組み合わせが共通しています。
そこには情報化の問題も関わります。1995年以後に情報技術が本格的に普及してきて、情報技術では表現しにくいスケールやマテリアリティの表現が建築家ならではの表現であるという考え方が出てきて、妹島さんがガラスにフィルムを施したり、青木さんが特殊な視覚効果を起こすようなファサードを試みたり、隈研吾さんが石や木材でルーバーや市松模様のスクリーンで覆ったり、表層の実験が行われました。構造や機能が成立するぎりぎりまで極端に壁を薄くしたり材を細くするようなファインアートのような試みもありました。その極北が藤本壮介さんや石上純也さんであると思います。
その結果、建築家の活躍するベースがかなり絞られた印象です。かつてロバート・ヴェンチューリ は「自分たちはさんざんコマーシャリズムを論じていたけれども、結局自分たちに発注するのは企業ではなく、大学か美術館しかない」と言っていましたが、それと同じことが日本の建築家にも起こっているような気がします。武蔵野美術大学図書館しかり、KAIT工房しかり、多摩美術大学図書館しかり、一連のインスタレーション然りですが、美術館の中か大学の中でしか建築作品が生まれない状況が建築の表層化とともに立ち現れてきました。その建築家のファインアーティスト化、表層化みたいなものが突き進んできたところで2011年の3.11が起こりました。
それで私が思うのは、ヴェネチアビエンナーレでの石上純也 さんの「Architecture as Air」 のワイヤーのインスタレーションが崩壊した瞬間に、ファインアートの実験場としての建築というアプローチのピークが訪れたのではないか。国内では3.11の影響もあって建築が政治的になってきて、高齢化によって社会の少ない資本をどう再配分するかという状況が生まれてきているため、建築が政治に巻き込まれてきたという印象があり、それが建築を取り巻く新しい変化なのではないかと思います。
天内──1995年当時僕は中学生で、最近になってやっと建築系の組織に入ってきたわけですけれども、違いとして感じるのはメディアの変化、とくに『建築文化』や『SD』『10+1』といったテキスト中心の雑誌がどんどん消えていったことです。その間に僕は大学時代を過ごしていました。今の建築学科に初めて入ってみて、教養主義みたいなものはとっくになくなっていて、知識、情報、歴史に関しては知らないことを前提として話を始めないとなかなか共有できないという状況がありました。それに対応しているのが藤村さんかと思いますが、まさに基礎のところ、つまりCADといった学生のツール、あるいはビールアーキテクトといったごくごく身近な話題から、これまで蓄積されてきた建築の議論に誘導するような方向性が、言説の主流を占め始めているということはひとつ言えるかと思います。
それから研究では、明らかに関心の焦点が戦前から戦後の建築にシフトしています。例えば、モダニズム建築において地方にあるために周縁とされてきたもの──愛媛の「日土小学校」 などへの注目、あるいは札幌の田上義也 や上遠野徹 といった、戦前から戦後にかけてのモダニズム波及の最先端みたいなところへの注目、また、昔からある百貨店のような商業建築──ハイクラスのアーキテクトではなくてミドルクラスとも言える商業建築──のように、ジャンルを広げたモダニズム建築の波及に研究のフォーカスがシフトしています。またフォーカスのシフトと同時に、戦前から戦後にかけての議論の読み直し──書籍の再刊──が起こっています。それは恐らく視点としては今まで戦前と戦後を分ける考え方が多かったのに対して、トランスウォー、戦前と戦後を貫いて見るという視点が徐々に生まれていった結果議論の読み直しが生じて、書籍の再刊ブームに繋がっているのだという気がしています。
2. コンピュータライゼーションと模型
五十嵐──50年くらい経たないと、歴史の対象になりにくいため、1980〜90年代くらいまではまだ戦後や戦中の話は建築史の中では多くなかったですね。宗教に関することも、ちょうど僕が新宗教の研究をやった頃くらいまでは、上の世代にとって宗教的なことを近代建築史のなかで扱うことに違和感があったのかもしれない。しかし、僕と世代が近い研究者では、青井哲人
藤村さんが言ったように、90年代はとにかく普通のアトリエ系にもコンピューターが設計の現場に入ってきたことがとにかく大きな変化ですし、一方で世界的に見ると、日本の建築界はやたら模型を作るという状況があります。藤村さんのメソッドにもとにかく模型を作るというのがありますが、世界的に見るとこれは特殊なことなのではないか。アメリカでは完全にコンピュータライゼーションされたり3Dプリンターといった、手作業ではない方に建築教育の現場がシフトしているのに対して、日本の卒業設計コンテストブームなんかにも顕著ですが、巨大な模型が作られています。かつては模型よりも図面のほうが評価の対象としてあり、図面を見るだけでその人の力がけっこう見られていたものがちょうどこの期間の間にだいぶ変わっていったような印象があります。
藤村──住宅ひとつに模型を100個作るというような設計の仕方は1990年代に妹島さんが始めたことです。それはCADの普及と連動して他の建築家にも普及したと思います。データをパッと複製できるので、少し描いてまた模型を作るためのデータの複製コストが下がったのです。
でもそれは日本独特の動きだったのではないかと思います。90年代の終わり、私はコロンビア大学のサマースクールに参加したことがあります。当時グレッグ・リン がUCLAに移ったばかりでしたが、コンピュータライゼーションがどういうふうに建築を変えるのか、コロンビア大学を震源に新しい動きが起こっているように感じました。当時、コロンビア大学のエイブリー・ホールの最上階に「ペーパーレス・スタジオ」というものがあり、そこでは紙で印刷を出して手でスケッチしたり設計をしてはいけなくて、コンピュータ上のみで設計を行うというルールでスタジオが行われていました。プログラム上で生まれた形態を木と針金で模型にする。片方にコンピューターで計算された形態があり、片方でものすごく原始的な作り方でそれをアウトプットする──その極端に二層構造化した状況がすごく面白いと思いました。
ただ、ちょうどグレッグ・リンの「コリアン・チャーチ」が竣工して、それがあまりにもディテールのない粗雑な建築だったので、皆が一斉に叩き始めていました。同時にSANAAが99年にスタッド・シアターのコンペに勝ちそれを「新しいフレキシビリティ」だと主張し始めていて、壁を全て60mmで作ると言っていました。何かそっちの方がコンピューター時代の建築っぽいという話になって、日本人独特の情報化の受容とアメリカ的な情報化の受容がそこで乖離したような気がします。
最近「マテリアライジング展」 という展覧会がありました。これは、豊田啓介 さんの事務所に所属している大野友資 さんなど、私より少し若い世代の比較的プログラミングが得意な人たちが3Dプリンターを駆使して色々な試みを行っていて、1990年代以降、久しぶりにグレッグ・リン的な生成派の盛り上がりが現れた展覧会でした。ただそれが東京芸大の陳列館で行われたのが象徴的で、つまりコンピュータによる建築設計が一般の現場で普及していくというよりも、もはやファインアートとして見るしかない、ということになってしまったような感じがしました。
実際には、ボリュームの上にphotoshopでテクスチャーを貼りつけていくようなあり方が、実務上最も普及したコンピューターライゼーションの表現になっていると思います。
これからのことを考えると、日本の「建築模型を大量に作る」という行為と共振しそうなのは、政治的な場面なのではないかと思います。例えばスイスでは、公共建築の設計者選定のために住民投票が実施されているそうで、敷地模型も共通のものを主催者から購入し、提案する部分の模型をそのなかにはめ込んで提出し、住民がそれと図面を見て投票する、という決まりになっているそうです。それをより発展させて、プロセス模型も含めて公開することで合意形成のプロセスを明らかにし、印象論や抽象論を避けて案を選ぶ仕組みを作れば、実績主義で凡庸な建築が量産される事態を防げるのではないかと思います。
世界的にみると、フランク・ゲーリー 的な模型表現はゲーリー以外はほとんどお蔵入りしてしまったような気がします。日本の模型ブームはどっちにいくかはよく分かりませんが、スイス的な方にまだ可能性があるのではないかと思っています。
五十嵐──ゲーリーは名前が先に立っちゃっているので、それ以前から活動していた実績はありましたが、たしかに藤村さんが言っていたコンピュータ派というかアルゴリズムをやっている人が展示や美術の場に行っている状況はあります。グレッグ・リンが賞をとったのもヴェネチアビエンナーレでの作品だったし、Double Negatives Architecture もやはりYCAMとか展覧会ベースが多いですね。豊田啓介さんは台北の美術館で展示をしたり、高級ホテルに作品を設置しています。「MARKISみなとみらい」という横浜美術館の向かいにできた施設にも、豊田さんのつくったオブジェがありますね。つまり、そうした受け皿はあるのだけれど、今後はそれを実際の建築にどう繋げていくか、ですね。
1990年代まではアメリカからの建築の言説──Any会議 も含めて──が、震源地だったという印象がある。アメリカは20世紀後半のポストモダンを引っ張り、建築の潮流を決めていく場所だったけれども、近年はアメリカから何か学ぼうという感じは薄れたかもしれません。「あいちトリエンナーレ」のオープニング・シンポジウムで、ニューヨーク近代美術館の建築部門の学芸員のペドロ・ガダーニョさんという方が、いまアメリカに自分たちのものはこれだと示せるものがない、というニュアンスで喋っていたのが印象的でした。ちなみに、ニューヨークの、彼が働いているMoMAの増改築の設計は谷口吉生 、2004年のルイ・ヴィトンは青木淳 、2007年のニュー・ミュージアム・オブ・コンテンポラリー・アート(NewMuseum of Contemporary Art)はSANAA、2010年のヨウジヤマモトのブティックは石上純也というように、ゼロ年代にニューヨークに日本人建築家の作品が幾つも完成している。これを見ても日本とアメリカの関係が変わったという気がします。
天内──個々の展示の事情や関わっている人の思いは別にして、図式的に言えるかなと思うのは、そもそもそういう建築模型、あるいはコンピュータライズされた建築の姿というのをなぜわざわざ展示にしなければいけないかというときに、やはり追い込まれて展示にせざるを得ないというようなことかと思います。というのは、それぞれの建物はできた当初は見学会ができるけれど、きちんと自分の関心や思いと形との整合性みたいなものを見せようとすると、現実の建物で、しかも色々な制度が被さっている中で見せるよりは、展示という媒体で見せたほうが、おそらく自分たちの意図は伝わるだろうと思うからです。その被さってくる状況の一つに、ベタな工学主義があるし、それ以上に制度主義というか、法律・制度にのみ則って建物を造って使うような状況が生まれていて自由が失われているときに、いわばそこからの逃避として芸術を掲げて様々な展示を色んな場所で、ゲリラ的に建築家が展示に回っているようなそういった姿が浮かび上がっていると思います。模型も日本は特殊に上手すぎるということはあると思います。東京理科大の坂牛卓 研究室で院生達が行ったアルゼンチンの建築学生との交流を聞いて感じたことですが、模型を比較するとどう考えても日本のほうが上手い。けれどもアルゼンチンの方が大学を出た瞬間に建築家として活動できて、割と仕事がある。でも自分たちにはない。これは世界の色々な部分を見た上で日本の独自性を見ると、模型の上手さはある種のお家芸みたいになっているところはあって、建築道みたいになっている。それがいい意味に転がるのか悪い意味に転がるのかは別として、観察としてはそういう気がします。