アントワーヌ・ヴァトー《シテール島への巡礼》
1717年、キャンバス・油彩、129×194cm、ルーヴル美術館蔵
Photo © GrandPalaisRmn (musée du Louvre) / Gérard Blot /distributed by AMF-DNPartcom
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恋人たちの風景

いつも変わらないと思っていた風景が、突然の自然災害や戦争によって、一瞬にして変貌してしまう。風景にも感情があって、雨でも笑っていたり、晴れていても悲しそうなときがある。改めて平凡な日常の風景のありがたさに気がついた。丘の上でピクニックでもしているような、幸福感いっぱいの風景が描かれているアントワーヌ・ヴァトーの代表作《シテール島への巡礼》(ルーヴル美術館蔵)を見てみたいと思った。

雲間から青空が覗く穏やかな日に、海に臨み山に抱かれた木陰のある丘で恋人たちが談笑している。ピクニックにしては食事もなく、なぜかキューピッドが舞っている。画面の左斜め上に視界が開け、犬を連れた黒いマントの男性を中央に、右手の小高い丘には3組の男女がおり、豪華な小舟が停泊する左手の船着き場には5組のカップル。みな思い思いにむつみ合いながらゆっくりと乗船しようとしている。恋人たちの新たな人生が始まるのだろうか。右手遠方の白い氷山が平坦な道でないことを暗示しているようだ。

愛知産業大学大学院教授の杉山奈生子氏(以下、杉山氏)に《シテール島への巡礼》の見方を伺いたいと思った。杉山氏は、論文「アントワーヌ・ヴァトーの雅宴画(がえんが)における彫刻表現について」を書かれ、長年ヴァトーを研究されている。ヴァトーの作品を所蔵する名古屋にあるヤマザキマザック美術館の喫茶店で話を伺った。


杉山奈生子氏

輝く宝石箱

杉山氏は1966年名古屋市に生まれた。子供のときから絵を描くことが好きで、水彩画の絵画教室に通っていたという。親戚に日展に毎年出品している書道家がいて、小学生のときから愛知県美術館へ行っていたが、油絵の見方がよくわからなかったそうだ。高校生になるとブラスバンド部に入って木管楽器のクラリネットを吹いていた。大学に美術史という学問があることを知った杉山氏は、名古屋大学文学部へ入学する。 美術館の学芸員になりたいと希望していた杉山氏は、大好きなディエゴ・ベラスケス(1599-1660)の《青いドレスのマルガリータ王女》(ウィーン美術史美術館蔵)を勉強したいと思っていた。ところが大学3年生のときにウィーンまで行った後、西洋中世美術史の木俣元一先生に話をしたところ「大学にベラスケスの文献が少なく、いまからスペイン語の本を注文すると卒業論文には間に合わない」と言われてしまった。そして、先生が勧めてくれたのがヴァトーだった。杉山氏の嗜好を先生は察していたのか、ヴァトーも好きだった杉山氏は即答でヴァトー研究を決めた。

ヴァトーの好きな点は、「かわいらしさ」だと杉山氏は明言する。「ヴァトーは人物が中肉中背というか、ちょうどいい感じのかわいらしさがある。ヴァトーの描いた衣装をもとに、『ヴァトープリーツ』というファッション用語ができるくらい当時のモードを反映している。女性のドレスはファッショナブルでもあるし、シルクの輝きが本当にきれい。ヴァトーの絵は、キラキラとした宝石箱を見ているようで、物質的なテクスチャーに魅力がある。見て楽しめ、目を喜ばせてくれる。目が喜ぶという発想は、実は18世紀的。美術批評家ロジェ・ド・ピール(1635-1709)が『絵画原理講義』で言っていて、それをいち早く体現したのがヴァトーだと思う」。

杉山氏が学生だった1984年、ヴァトーの生誕300年記念回顧展がワシントン、パリ、ベルリンであり、国際シンポジウムも開かれて一気にヴァトー研究が進んだという。杉山氏は、著名な美術史家でヴァトーの研究者であるピエール・ローザンベール(1936-)の論文を参考に卒業論文を書き上げ、卒業論文の面接では、初期・中世キリスト教美術の研究をされていた辻佐保子先生から「絵の中の彫刻」というテーマを提案してもらった。杉山氏は修士論文、博士論文ともに、そのテーマでヴァトーをまとめ、2005年に博士号を取得した。

《シテール島への巡礼》の実物を杉山氏が初めて見たのは、大学3年生の春休みだったという。「作品を修復する前で、ニスが変色していて現在の状態より暗く、メランコリックな感じがした。しかし、上流階級の人が着ているシルクの服がエレガントに表現され、その筆使いは繊細で軽やかに感じられた」と第一印象を述べた。

色彩派ルーベンスに没頭

ジャン=アントワーヌ・ヴァトーは、1684年パリから約200キロ、ベルギーに近いヴァランシエンヌに、屋根葺き職人の家庭に生まれた。細やかで美しいレースの産地として有名な町だった。

ヴァトーは、10歳から絵を学び始め、1702年18歳のとき画家を志してパリへ出る。演劇好きなこともあり、舞台装飾家クロード・ジローの助手となった。1707年には優れた室内装飾家のクロード・オードランに師事し、リュクサンブール宮殿やラ・ミュエット宮殿の装飾を手掛けた。また色彩派で、連作《マリー・ド・メディシスの生涯》(ルーヴル美術館蔵)など、群像を巧みに描いたバロック美術を代表する画家ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)の研究に没頭する。1710年26歳、王立絵画彫刻アカデミー★1のローマ大賞を目指してコンクールを受けたが、2位に留まった。

1715年、ヴェルサイユ宮殿を建て、文芸のうえでも黄金時代を築き、太陽王と呼ばれたルイ14世が死去する。同年ヴァトーは大富豪で収集家でもあった新興ブルジョワジーのピエール・クロザと出会い、北方絵画の名品やヴェネツィア派のイタリア絵画を見せてもらい、古典絵画を学んだ。

アカデミーの入会は5年前から認められていたが、1717年に《シテール島への巡礼》を描いて、ようやくアカデミーの正会員となった。シテール島を主題とする作品がヴァトーには本作以外に2点ある。フランクフルトのシュテーデル美術館に所蔵されている1710年頃の《シテール島への船出》と、ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿にある1719年頃の《シテール島への船出》だ。

★1──1648年ルイ14世のもとで設立されたフランス美術界の最高権威を示す機関、アカデミー・デ・ボザール(Académie Royale de Peinture et de Sculpture)。画家、彫刻家、建築家のための王立美術団体。

雅宴画の創始者

《シテール島への巡礼》のタイトルについて、ヴァトーがアカデミーに提出した当初は「シテール島の巡礼」だった。しかし、従来の絵画のどの範疇にも入らないため、アカデミーが「雅やかな宴(フェート・ギャラント:雅宴画)」と修正していたことが、アカデミー議事録から明らかになっている。このことはしばらく忘れられており、画家でありアカデミーの会計官とサロンの陳列委員も兼務していたジャン・シメオン・シャルダン(1699-1779)が、アカデミーが所蔵していた本作に、1775年「シテール島への船出」と名づけた。そして1795年にルーヴル美術館のコレクションとなる。その後、ヴィーナス像が描かれている画面手前がシテール島ではないか、とさまざまな解釈が生まれ、「シテール島からの船出」などと呼ばれたが、現在、ルーヴル美術館では「シテール島への巡礼」または「シテール行きの乗船」と表記している。 雅宴画とは、フランス中世文学『蕃薇物語』などに描かれた宮廷恋愛の世界を継承しており、上流階級の紳士淑女が庭園や宮殿テラスに集い、音楽や娯楽、会話を楽しみながら展開する恋愛模様を描いた雅な風俗的絵画のことである。造形的には16世紀ヴェネツィア派の絵画や、17世紀北方風俗画から全体的な構図の影響を受けている。雅宴画の先例としては、流行の画家と呼ばれたフランドルの風俗画家ヒエロニムス・ヤンセンス(1624-93)の《熱い手》(1660/70、ルーヴル美術館蔵)に見られるが、ヴァトー自身は、ルーベンスの《愛の園》(1630-35頃、プラド美術館蔵)の木版画を見ていたようだ。17世紀の古典的な枠組みのなかで、新しさを取り込んだヴァトーは、雅宴画の創始者となった。

17世紀までは文学的なテキストを前提とした大画面の歴史画や物語画が主流であった。18世紀からは多様性の時代となり、何でも受け入れて描かれるようになる。そのため絵画は文学性が希薄となり、サイズの小さい風俗画が出てきた。ヴァトーはこの潮流を捉え、前世紀の雄大荘重の流動的なバロック絵画に対して、軽快で曲線的、装飾的なロココ★2絵画を確立した。デッサンに優れ、色彩による生気と機知と魅力に溢れたヴァトーの作風は、優雅でありフランス的な特質を示している。

ヴァトーは1719年、胸を病み療養のためイギリスへ渡った。しかし、ロンドンの冬は厳しく1821年パリに戻る。長く患っていた肺結核によって、パリ近郊のノジャン・シュル・マルヌにて36歳で早世してしまう。生涯独身だったが210数点の作品が残された。

★2──フランス語の岩(roche)と貝殻(coquille)との合成語ロカイユ(rocaille)から派生した語。庭園の洞窟風の空間、噴水に用いた石、貝殻による装飾を指す用語。複雑な渦巻、花飾り、唐草などの曲線的モチーフの装飾を意味する。非対称、優雅さ、遊戯心を特徴とする様式であり、18世紀初めから中頃に流行した。

 

シテール島への巡礼の見方

①タイトル
シテール島への巡礼(してーるとうへのじゅんれい)。英題:Pilgrimage to the Island of Cythera


②モチーフ
8組のカップル、ヴィーナスの彫刻、キューピッド、漕ぎ手、犬、船、丘、城塞、木々、山、海、島。


③制作年
1717年。ヴァトー32歳。


④画材
キャンバス、油彩。


⑤サイズ
縦129×横194cm。アカデミーの審査に出品するためのサイズ。


⑥構図
緑に囲まれた丘を前景につくり、中景に青い水辺、後景に白い山という古典的な遠近法構図。丘が緩やかな曲線を描き、右側に巨大な木々を配し、左半分は眺望がパノラマ的に広がっている。


⑦色彩
白、緑、青、赤、茶、ピンク、黄、黒など多色。優しく淡い色調が親しみやすく、印象深く余韻を残す。


⑧技法
油彩画。デッサン帳からさまざまなポーズの人を選び、寄せ集めてアレンジする。下絵を描かずに、薄塗りの優しいタッチで即興的に描き始める。絵具を混ぜずに、異なる色を小さなタッチで並べて表現した19世紀の印象派に通じる、点描風の筆跡を残すような筆法を使っている。近景に暖色、遠景に寒色を置く。暖色は前進、寒色は後退するという心理的な作用を使った色彩遠近法。


⑨サイン
なし。


⑩鑑賞のポイント
ヴァトーが、王立絵画彫刻アカデミーに入会するために制作された公的な作品。ギリシア神話で美と愛の女神ヴィーナスが辿り着いたシテール島★3が主題である。独身者がシテール島を巡礼すればよき伴侶が得られるという。ここがシテール島なのか否かは判然としないまま鑑賞者に委ねられている。恋の成就役であるヴィーナスとその子キューピッドは、神話画の要素を担いながら、恋愛の諸段階や心理を暗示し、甘美な夢の世界に誘う。愛の勝利を祝すかのようなピンクの蔓薔薇と青い昼顔が巻き付いたヴィーナスの彫像の前で、跪いて愛をささやく紳士に淑女が扇子を広げて応え、男性のマントには矢の刺さったハートの刺繍が見える[図1]。右から3組目のカップルには忠誠のシンボルである犬が描かれ、恋の成就を表わす。画面左手の船には、赤い絹のスカーフがあしらわれ、ギリシア神話の勝利の女神ニケと花綱飾り、上空には恋心を起こさせるキューピッドたちが飛翔する[図2]。秋の夕陽に霞む入江の彼方に山々が連なり、ほのかに憂いを含む詩情が漂う。矢筒が立てかけられたヴィーナス像から左へ、3組の恋人たちの誘い・躊躇・承諾という恋愛のプロセスが描かれた、と彫刻家のロダンは言う。丘の稜線によって、カップルたちは二集団に分かれているが、右から左に行くにつれ親密になっていき、最終的には漕ぎ手の待つ船に乗り込む。ドレスの光沢は素材の物質的な表現だけでなく、女性の感情のきらめきでもある。男性的な王権時代から軽快で優雅な貴族時代に入ってきたといっても、女性の地位がまだ低かった当時、男女一緒の姿が社会性を帯びたユートピア思想の表現として受け取られていたかもしれない。ヴァトーは、劇作家ダンクールの喜劇『三人の従姉妹』を観劇して、シテール島の構想を思いついたといわれる。現実と非現実が交錯する曖昧で幻想的な世界。そのあわいに表われるはかない真実、かげろうのような一瞬の美をヴァトーは見事に捉えた。雅宴画の創始者であり、曲線的・装飾的で甘美なロココ美術の先駆者であるヴァトーの代表作。



図1 愛を語る紳士とシルクの服を着た淑女(《シテール島への巡礼》部分)



図2 飛翔するキューピッド(《シテール島への巡礼》部分)


★3──南ギリシアのラコニアの沖にあるキュテラ(フランス語:シテール)島のこと。伝説によると海の水の泡から生まれた愛と美の女神ヴィーナスが流れ着いた島。



愛の巡礼

杉山氏は、《シテール島への巡礼》について「海の向こうにシテール島があって、恋人たちはこれから船に乗って巡礼に行くところだろう。愛がテーマのため、ここにヴィーナス像があってもまったくおかしくない。逆に言えばヴィーナスがいるこの島がシテール島にもなるが、私にはこれからシテール島へ巡礼に向かうように見える。ヴァトーは一回つくった油絵でも、同じ絵柄のバリエーションを展開したり、同じポーズをした人物を別の絵でも転用するなど、繰り返し(リペティション)を用いながら作品を制作する。また、ヴァトーは露骨な表現がほぼない。オブラートでくるんでいるような、はっきりしない曖昧な要素が多く、ヴァトーの特質となっている。そのあからさまではないところ、ニュートラルで汎用的な感じがいいと思う。登場人物は直接的に意思表示をしていない。例えば、ヴァトーの雅宴画にはたびたび描かれる庭園彫刻が、人物の心理を代わりに物語ることもある。絵を見る人に気持ちを委ねる。ヴァトーは具体的な説明というよりは暗示、ほのめかす感じで伝えてくる。その意味では、ここはシテール島であり、シテール島でない。恋の成就する島に渡り、伴侶を得ようとする男女、その愛の巡礼が描かれている」と語った。


杉山奈生子(すぎやま・なおこ)

愛知産業大学大学院造形学研究科教授。1966年愛知県名古屋市生まれ。1989年名古屋大学文学部哲学科美学美術史学専攻卒業。同年株式会社福武書店(現ベネッセコーポレーション)に入社、1995年退社。1997年名古屋大学大学院文学研究科美学美術史学専攻博士前期課程へ入学、1999年同博士前期課程修了、同年博士後期課程へ進学するとともに、日本学術振興会特別研究員(DC1、1999-2002)、2002年博士後期課程満期退学。2005年名古屋大学大学院にて博士号(文学)取得。同年同大学院文学研究科 21世紀COE(Center of Excellence)研究員、2007年同研究科グローバルCOE研究員、2011年愛知産業大学大学院造形学研究科デザイン学専攻准教授、2021年より現職。専門:18世紀フランス美術史学。所属学会:国際18世紀学会、日本18世紀学会、日仏美術学会、美術史学会。主な論文・訳著書:『アントワーヌ・ヴァトーの雅宴画における彫刻表現について』(博士学位論文、名古屋大学、2005)、ロバート・カミング著『深読み美術館:ハンドブック』(共訳、六耀社、2003)、ミランダ・ブルース=ミットフォード著『サイン・シンボル大図鑑』(共訳、三省堂、2010)、『聖性の物質性』(共著、三元社、2022)など。


アントワーヌ・ヴァトー(Antoine Watteau)

フランスの画家。1684~1721年。北フランスのヴァランシエンヌに屋根瓦職人の息子として生まれる。幼い頃から絵を描くことに才能を示し、1702年18歳でパリへ向かい、舞台装飾家クロード・ジローの弟子となる。1707年パリでもっとも優れた室内装飾家クロード・オードランに師事し、色彩に関心をもってルーベンスを研究。演劇の鑑賞とデッサンを続け、1715年大富豪の収集家ピエール・クロザと出会い、フランドル派とヴェネツィア派の絵画を学ぶ。1717年《シテール島への巡礼》を制作し、アカデミーに提出、正会員となる。1719年肺結核治療のためイギリスへ渡る。1721年パリに戻り、ノジャン・シュル・マルヌにて死去。享年36歳。ロココ美術を象徴する雅宴画の創始者。代表作:《シテール島への巡礼》《ヴェネツィアの祝宴》《メズタン》《ピエロ》《ジェルサンの看板》など。


デジタル画像のメタデータ

タイトル:シテール島への巡礼。作者:影山幸一。主題:世界の絵画。内容記述:アントワーヌ・ヴァトー《シテール島への巡礼》1717年、キャンバス・油彩、129×194cm、ルーヴル美術館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:ルーヴル美術館、GrandPalaisRmn (musée du Louvre)、Gérard Blot 、AMF(アジャンス・デ・ミュゼ・フランセ)、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Jpeg形式107.1MB、300dpi、8bit、RGB。資源識別子:コレクション番号=RMN091002139、画像番号=09-1002139(Jpeg形式113.0MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。情報源:(株)DNPアートコミュニケーションズ。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:ルーヴル美術館、GrandPalaisRmn (musée du Louvre)、Gérard Blot 、AMF、(株)DNPアートコミュニケーションズ。


画像製作レポート

《シテール島への巡礼》の画像は、DNPアートコミュニケーションズ(DNPAC)へメールで依頼した。後日、DNPACの返信メールから、作品画像をダウンロードして入手(Jpeg、113.0MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。作品画像のトリミングは2点まで、掲載は1年間。
iMac 21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって、モニターを調整する。作品を所蔵するルーヴル美術館のWebサイトの作品画像を参考に、Photoshopで色調整を行い、作品の周囲を切り取った(Jpeg形式107.1MB、300dpi、8bit、RGB)。色彩が繊細で淡い色調だったため、カラーガイド・グレースケールの指標がほしかった。世界の美術館を代表するルーヴル美術館所蔵の作品には、すべてカラーガイド・グレースケールがあると思っていたが、意外にもないものが多い。
セキュリティを考慮して、高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」を用い、拡大表示を可能としている。


参考文献

・Hélène Adhémar『WATTEAU:sa vie―son œuvre』(Pierre Tisné、1950)
・高階秀爾+中山公男編著『ルーヴル美術館(現代教養文庫348)』(社会思想研究会出版部、1961)
・坂崎坦『西洋近代美術史』(風間書房、1962)
・坂崎乙郎『世界の美術11 ワトーとロココ美術』(河出書房新社、1964)
・ピエール・シュナイダー著、タイムライフブックス編集部編、中山公男日本語版監修『ワトー:1684-1721』(タイムライフインターナショナル、1969)
・高階秀爾『名画を見る眼』(岩波書店、1969)
・Jean Ferré監修『WATTEAU 3 Catalogue』(Artistiques Athéna、1972)
・野口栄子「ヴァトー『シテールへの船出』の題名について」(『大手前女子大学論集』第9号、大手前女子大学、1975.11、pp.54-68)
・池上忠治著、嘉門安雄+中山公男監修『ファブリ研秀世界美術全集7 プーサン/ワトー』(研秀出版、1976)
・坂本満編集解説、中村真一郎特別寄稿『グランド世界美術 第16巻 ワトーとロココ美術』(講談社、1977)
・中山公男解説、座右宝刊会編『世界美術全集 第17巻 ワトー〈愛蔵普及版〉』(集英社、1979)
・島本浣「ヴァトー作《シテール島への船出》──アカデミーとの関係の中から」(『帝塚山学院大学研究論集 第18集』、帝塚山学院大学、1983、pp.59-74)
・図録『WATTEAU 1684-1721』(Ministère de la culture、1984)
・池上忠治「不人気ヴァトーがルーヴル入りするまで ルーヴル収集秘話XⅡ」(『芸術新潮』No.436、新潮社、1986.4、pp.64-67)
・Texts edited by François Moureau and Margaret Morgan Grasselli『ANTOINE WATTEAU(1684-1721) The Painter, His Age and His Legend』(CHAMPION-SLATKINE、1987)
・中山公男編著『ヴァトー全作品』(中央公論社、1988)
・ジェイムズ・ホール著『西洋美術解読事典──絵画・彫刻における主題と象徴』(河出書房新社、1988)
・図録『18世紀珠玉のフランス絵画展』(東京富士美術館、1991)
・大野芳材「果てしなき宴、終わりなき劇場 ヴァトーと雅宴画」(『世界美術大全集 第18巻ロココ』、小学館、1996、pp.77-88)
・ユッタ・ヘルト著、中村俊春訳『ヴァトー《シテール島への船出》 : 情熱と理性の和解』(三元社、2004)
・木村泰司『名画の言い分 巨匠たちの迷宮』(集英社、2009)
・『RA:Royal Academy of Arts magazine』No.110:Spring(Royal Academy of Arts、2011)
・尾崎彰宏監修『ルーヴル美術館の名画 フェルメールと「風俗画」の巨匠たち──なぜ「天文学者」はキモノを着ているのか?』(小学館、2015)
・高橋裕子『西洋絵画の歴史2 バロック・ロココの革新』(小学館、2016)
・伊藤已令「ヴァトー《シテール島の巡礼》──愛の国への旅立ち」(『絵画と表象Ⅱ──フォンテーヌブロー・バンケからジョゼフ・ヴェルネへ(フランス近世美術叢書Ⅴ)』、ありな書房、2016、pp.143-180)
・有地京子『西洋絵画がもっと愉しくなる! マンガでわかるルーヴル美術館の見かた』(誠文堂新光社、2019)
・木村泰司「読むだけで教養が高まる西洋美術史 第15回 ロココ三大巨匠ヴァトー、ブーシェ、フラゴナール」(『Best Partner』No.375、浜銀総合研究所、2020.3、pp.36-41)
・柴崎信三『絵画の運命 美しきもの見し人は』(幻戯書房、2020)
・杉山奈生子「ロココ絵画に描かれた彫像の生動性──信仰から愛好の対象へ」(木俣元一+佐々木重洋+水野千依編『聖性の物質性:人類学と美術史の交わるところ』、三元社、2022、pp.266-292)
・Webサイト:杉山奈生子「アントワーヌ・ヴァトーの雅宴画における彫刻表現について」(『名古屋大学学術機関リポジトリ』2005.6.30)2024.4.5閲覧(http://hdl.handle.net/2237/11188
・Webサイト:「Pèlerinage à l’île de Cythère」(『LOUVRE』)2024.4.5閲覧(https://collections.louvre.fr/en/ark:/53355/cl010061995


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2024年4月