会期:2024/03/08〜2024/03/17
会場:こまばアゴラ劇場[東京都]
公式サイト:https://whey-theater.tumblr.com/

その名の通り「何かを生み出すときに捨てられてしまったもの」を描き続けてきたホエイの5年ぶりの新作『クチナシと翁』(作・演出:山田百次)。タイトルの「クチナシ」は舞台となる集落の名前だ。青森県津軽地方、国道から奥羽山脈に向かって20キロほどの場所にあるというその集落の名は、大昔に都落ちしてこの地にやってきた村の祖先たちが苗字を変え、自らの過去についても口をつぐんでいたことに由来するのだという。かつては厄除けとして、その先祖を模したとも伝えられる一対の巨大な藁人形──その名もまたクチナシという──が村の入り口に立っていたらしい。そんな来歴を体現するかのように、舞台となる公民館の一室の壁際には、部屋を取り囲むようにしてカカシが並んでいる。客席に足を踏み入れた観客はまずそのカカシに目を奪われ、やがてどこからか聞こえてくるボソボソとした声に気づくことになる。それはカカシに紛れるようにして座っているカドヤのジッコ(以下ジッコ、山田百次)の声だ。ジッコはどうやら村の来歴らしきものを語っているのだが、その強度の津軽弁を十全に聞き取れる観客はほとんどいないだろう(しかしこの後もほぼ全編が津軽弁で展開される)。意味の取りづらい、誰に向けられているのかも判然としないその語りに耳を傾けるうち、観客はカカシとともに物言わぬ聴衆のひとりとなって『クチナシと翁』の物語がはじまる。

©︎Nagare Tanaka

クチナシ地区公民館、またの名をクチナシの里文化伝承センターと呼ばれるそこでは、カミのバサマ(以下バサマ、三上晴佳)とシモのお母さん(以下シモ、成田沙織)がカカシをつくっている。それは村おこしとして10年前にはじまった「カカシフェス」のためなのだが、どうやら村内でも温度差があるらしく、オゲヤのせがれ(以下オゲヤ、河村竜也)などは「いぢいぢケンカするぐれえだらやらなくてもいいべ」と消極的だ。一方、バサマは地域おこし協力隊として村にやってきた自称アーティストの元柏(斉藤祐一)に大きな期待を寄せている。元柏のカカシで村に多くの人を呼べるはずだというのだ。

クチナシの集落に住むのはいまや30世帯ほど。移住してくる者があっても仕事や育児の問題は大きく、高齢化する住人のなかには介護が必要な者もいる。公民館にはほかにも15年の引きこもり期間を経て現在はジッコの世話をしているカドヤの孫(以下カドヤ、中田麦平)、若い頃に村を出たきりだったものの離婚して赤子とともに最近村に帰ってきたマスヤのせがれ(以下マスヤ、武谷公雄)、夫のUターンで役場の臨時職員になった小山内(赤刎千久子)らが出入りし、交わされるやりとりから浮かび上がる人間関係には狭い集落ならではの濃密さとそれゆえの摩擦が見え隠れする。

©︎Nagare Tanaka

何か大きな出来事が起きるわけではない。2場ではバサマの葬儀の日の、3場ではカカシフェス当日の様子が描かれるが、基本的には集落の人々の会話が淡々と積み重ねられていくばかりである。だが、そうして交わされる会話を通して各々が抱える事情や思いが少しずつ明らかになっていく。すべてが丸く収まるような劇的な大団円は訪れないが、互いの事情を知っていくなかで人間関係もいくらかは解きほぐされ、少しずつ変わっていくだろう。

葬儀の日、バサマの好物だった菊のおひたしをみんなで食べる場面は象徴的だ。新参者の元柏は「食べるんですね。ああいうの」と言いつつ「独特の風味が良い感じ」などと好意的な感想を言ってみたりもするが、クチナシで生まれ育ったオゲヤは「ワぁ、そったに好ぎでねえ」とにべもない。この町が好きだという元柏の言葉に対してもオゲヤは同じ言葉を返すだろう。一方、同じく新参者の小山内は「食べ慣れないものは口にしたくない」と菊には手をつけないが、カモシカなどの動物に多く遭遇できる田舎にはテンションが上がっているらしい。長く住んでいるからといってその土地や地のものが好きだとは限らず、地のものを好まないからといってその土地が嫌いだとは限らない。そんな当たり前の事実はしかし、地元の人間と新参者という二項対立を立てた途端に見過ごされがちなものでもある。観客もまた、ともに時間を過ごすなかでステレオタイプの枠には収まらない個人としての登場人物の性格を見出していく。それに呼応するかのように、3場に入ると登場人物の多くが下の名前を名乗り/呼ばれはじめる。

©︎Nagare Tanaka

そもそも、住む人のほとんどが長内(オサナイ)という苗字を持つこの集落において、人は例えばカミのバサマやオゲヤのせがれといった屋号と続柄の組み合わせで呼ばれており、そこに個人としての名前が登場することはなかった。新参者である小山内でさえそのとばっちりを受け、オサナイでなくコヤマウヂと呼ばれる始末だ。彼女の夫はそのことに嫌気が差し、インスタグラムのアカウント名をノットコヤマウヂとしているらしいのだが、小山内は「苗字は苗字」「ヤスコはヤスコ」と軽やかだ。もちろん、小山内の応答には、結婚に際して女性の側が改姓を強いられることがほとんどだという日本の現実も影を落としているだろう。だが、苗字や屋号ではなく名前で人を呼び、呼ばれるとき、そこには既存の関係を解きほぐし新たな関係を結ぶための契機がある。シモが若い(?)移住者である元柏の前で若やぎ、「ユリコって呼んで」と要求する場面は微笑ましいが、それだけではない。「ワだって、ちゃんとした名前あるんだはんで」というユリコの言葉には大いに見るべきものがあるだろう。カテゴリーで括るのではなく個人として人と向き合うこと。それがすべてを解決するわけではないが、そこからしかはじまらないこともあるのだ。これはクチナシの集落の問題に限った話ではない。

©︎Nagare Tanaka

鑑賞日:2024/03/17(日)


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