[東京都ほか]

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時は流れ2023年10月、東銀座にオープンしたギャラリー「SHUTL」(シャトル)には黒川紀章の「中銀カプセルタワービル」が2棟移設されている。ギャラリーの壁面の多くはガラス張りなので、ホワイトキューブというよりも、カプセルが鎮座したガラスの箱といった様相だ。そのカプセルの両方ともに入室できるのだが、片棟はほぼ当時の内装のまま。原状復帰さえできれば作品を中で展示できる。とはいえカプセルは質量的にも、文脈としても重い。しかしそれは柔軟に、軽やかに扱われていた。わたしが見たのはスペースディレクターである黒田純平の「伝統のメタボリズム〜見立て〜」展だ。

キュレーションによる観覧体験の軽やかさの発生は端的に言えば、本展でカプセルの中の青色の絨毯が、ただただ海として扱われていたことに由来するだろう。その壁に掛けられている石場文子の写真作品(石場文子《three of white things》)は、海から見える客船の窓の中の一室。青い絨毯の上にある灰色の寝具はさながら岩礁であり、その上には、松井照太によるアクリルにピンと浮かぶ岩がある(松井照太《F=mg (F=support medium) “水石” #1》)。岩とアクリルの境目に溜まる水雫はこの海から齎されたのだろうか。カプセルの外にある勝木杏吏の藍色の金属の波紋は作品名通り海を湛えるし(勝木杏吏《海染(壁掛け)》)、金属の反射に目を凝らすように仕向けられた後は、佐貫絢郁の黒のマチエール(佐貫絢郁《no title(数人)》)を貪欲に眺めること、そしてその形象を思うがままにしてよいのだという観賞の自由の肯定へスライドさせられていく。極めつけは、倉知朋之介がカプセルの窓枠を「チョコチップクッキー」の型とみなしたことだろう(クッキーの裏側では映像作品の《チョコチップクッキー&ミルク》が投影されていた)。

「伝統のメタボリズム〜見立て〜」展示風景。左から、勝木杏吏《海染(壁掛け)》、佐貫絢郁《no title(数人)》[撮影:山根かおり]

このキュレーションは、作品の細部へと観賞者の視線を促すという意味で作品に対して祝福しようとすると同時に、観賞者に対して作品が何であれ何に見えるかという(フォーマリズムというよりも)唯物論的な観賞行為の自由を祝福しようとする好例だろう。

この展覧会は形象的連関での観賞を促すこと自体に複数の意図があったため極端ではあるが、この「形象的連関」自体はキュレーションの常套手段だ。その大きな効果は先に述べた通り、「作品自体への気づきをアシストする」ことにある。これは最近の大型展でも非常に効果的に実行されていたし、写真作品の多くもこの形象的連関によって動的な世界を構築してきた。

「伝統のメタボリズム〜見立て〜」展示風景[撮影:山根かおり]

例えば、「恵比寿映像祭2024 月へ行く30の方法」の2階会場。壁の仕切りもないまるで広場のような空間に、なかなかの作品数が点在していたのだが、それが見やすかったという驚きがあった。具体的には、壁伝いで右回りなら作品のコンセプト上の連続性が異なる時代と地域の作品たちをつなげ、後半につれ次第に形象上の連続性が観賞をアシストするようになっていた。キュレーターは観賞者の心身の疲労度合いを想定しながら、物量の強弱、情報量のコントロールを行なう。これはインスタレーションを行なう作家が作品ごとで検討する要項と限りなく同質だ。


(「キュレーションと「形」に関わること③」へ)
※後日公開予定

執筆日:2024/05/08(水)