会期:2024/05/26
会場:大阪市立芸術創造館[大阪府]
公式サイト:https://geijutsusozokan.jp/category1/20240526/

精神科の訪問看護師として大阪で働いてきた父親と、俳優の息子。「訪問看護の利用者の私宅を訪ね、初対面から次第にコミュニケーションを深めていく」という設定のもと、お互いに仕事の内容を再現してみせる。シンプルな構造だが、「毎週の訪問」という反復構造のうちに、訪問看護師と利用者、父親と息子、演じること/現実の関係性が曖昧に揺れ動き、コミュニケーションのあり方と、「演劇」それ自体に対するメタ的な思索が幾層にも折り重なっていく、秀逸な作品だ。

演出の野村眞人は、「劇団速度」として過去に演出した『わたしが観客であるとき』(2020)の一部で、この親子の関係を扱っている。ただし、舞台に登場するのは俳優の瀬戸沙門だけであり、訪問看護師である父親へのインタビューと、仕事を「実演」してもらった経験がモノローグとして語られた。スピンオフ的に派生した本作では、この二人の関係に焦点を当て、父親も実際に出演する。

舞台上には、やや距離を置いて対面する椅子が二つだけ。初老の男性が登場し、「初めまして。訪問看護師の瀬戸敏由紀です」と、俳優/息子に自己紹介する。互いに「瀬戸さん」と呼び合い、「初対面の利用者」を演じる息子との、あたりさわりのない雑談が続く。「瀬戸さんは、俳優の他にもお仕事をされていたのですか」という質問を受け、利用者/息子はゴミ収集の仕事をマイムで演じてみせる。トラック乗車、その日のルート確認、ゴミ袋の積み込み、同僚とのタメ口の会話。「過去の仕事を再現する」行為が、「演じてみせる」という俳優の仕事と重なり、二重化された「仕事の再現」が展開する。丁寧に礼を言い、「また来週」と退場する訪問看護師/父親。

ニ回目の訪問では、一週間の調子を尋ね、体温や血圧のバイタルチェックがされ、部屋に置かれたCDから「音楽好き」というコミュニケーションの糸口が見えてくる。三回目の訪問では、訪問看護師/父親がハーモニカと番号の振られた歌詞カードを持参し、好きな番号を選んで歌うよう、利用者/息子に促す。選ばれたのは、童謡「お馬の親子」。訪問看護師/父親がハーモニカでメロディを吹くが、相手は黙ったままだ。その沈黙は、「実際に利用者が戸惑っていた態度」の演劇的再現なのか? ハーモニカを吹き出す父親にノレない、息子の心理的距離なのか? どこまでが「俳優としての演技」で、どこまでが「現実の親子関係」なのかが曖昧になっていく。

ニ度目のトライで利用者/息子は歌を歌い、「よく声が出てましたね」と褒める声かけから、次第に心を開き、「近所にできたコーヒー専門店に、来週一緒に行く」約束が交わされる。だが、四回目、五回目の訪問とも、玄関のベルに応答はなく、電話にも出ない。心理的距離が縮まった訪問看護師にも会いたくないほど、精神的不調が大きいのか。

「不在」の理由は不明のまま、中盤では、「退職した父の自宅を息子が訪問する」シーンが展開する。「おやじって、どんな気持ちで訪問看護師やってた?」と尋ねる息子に、「GNS(グレート・ナース・セト)になりたかった」とボケをかましつつ、誠実に丁寧に答える父親(ちなみに元ネタは、90年代にTVドラマにもなった人気学園漫画「GTO(グレート・ティーチャー・オニヅカ)」である)。相手の苦しみや辛さを聞くことが多かったが、「利用者さんに手を伸ばす」のではなく、「実存的な苦悩を預かる」姿勢を大切にしていたこと。実際には現実的な応答しかできず、利用者の気持ちは本当のところはわからなかったこと。「訪問看護師の仕事を実演する父親と、利用者を演じる俳優の息子」というフィクションの枠組みが解除され、「現実の親子関係」に戻ったように見えるが、「相手の話を傾聴する」という精神科の仕事が、ここでは「息子」によって演じられてもいる。

このロールプレイの変容は、「なかなか心を開いてくれなかった、ある利用者の思い出」が語られるなか、「利用者との距離の遠さ」の再現へと重なっていく。初めはドアの隙間ごしに会話し、長い時間をかけて玄関の上がり口まで行けたこと。「対話するのは遠いけど、そこまでしか行けなかった」という述懐。訪問看護師/父親は、「対話するには遠い距離」がどの辺りなのかを示すため、椅子を移動させて座り、「玄関口に立つ息子/訪問看護師」と向き合う。「遠いね」「遠いですね」という会話には、利用者との心理的・物理的距離に加え、現実の親子関係も重なり合う(父親は、息子に対しても、利用者相手と同様に敬語で丁寧に話す姿勢を崩さない)。

終盤、ロールプレイは完全に逆転し、父親から腕時計を渡された息子が訪問看護師を、父親が利用者の役を担う。互いの立場を二重に交換して、初めて見えてくる景色と、それでも越えられない距離。利用者の座っていた場所に身を置いてみても、やはりわからないままの気持ち。息子/訪問看護師が指先でなぞる、見えない敷居の境界線。

実際の職業人が看護や介護という対人コミュニケーションの仕事を舞台上で再現し、ドキュメンタリーの手法で演劇をメタ批評する作品構造は、村川拓也の一連の作品(『ツァイトゲーバー』[2011]、『インディペンデント リビング』[2017]、『Pamilya』[2020])とも共通する。村川の作品では、「その日の観客のうちのひとり」が被介助者役を担う仕掛けにより、「リハーサルもなく舞台に上げられた素人のぎこちない表情や身体の硬さ」が、重度身体障害者や認知症の高齢者と重なり、「観客の眼差しこそが舞台上に(不在の)存在を現前させている」という演劇の原理を浮上させる。また、介護士が「わざわざマイクを持って発話する」介在性は、「コミュニケーション(の困難さや断絶)」という主題を提示する。特に、フィリピンから来日した外国人介護士が、担当した高齢女性に、自身の孤独や亡き祖母を重ね合わせていたことが語られる『Pamilya』では、「家族」「故郷」から切り離された者どうしの「国籍や血縁を超えた擬似家族」が示される。

一方、野村の本作では、舞台上で再現される「訪問看護師と利用者」の関係に、「実際の親子関係」が代入され、さらに息子が俳優であることで、関係性が何層にも多重化し、メタレベルを行き来する。それは、訪問看護という仕事の再現を通して、「演劇」を何重にもメタ的に見返す作業でもある。相手との距離がどの程度なら、「自然なコミュニケーション」が成立する/に見えるのか。「毎週の訪問」「同じ声かけ」「繰り返されるバイタルチェック」という反復構造は、「台詞や動作の再現可能性」という演劇の原理と接近していく。「利用者の言葉を預かる」という態度も、「他者の書いたテキストを引き受ける」という俳優の倫理的姿勢とリンクする。そして、「決まった時間が過ぎたら終了する」というルールも。「もう時間やし、行くわ」という最後の台詞は、「次の予定があるから」という息子のものでもあり、「予定時間終了」を告げる訪問看護師の言葉でもある。

幾度もの時間の切断とコミュニケーションの断層をはらみつつ、立場を流動化させながら言葉を交わし続ける二人。「目の前の相手にどう向き合うか」という問いが、看護の仕事、親子関係、メタ演劇という複層を往還しつつ、「丁寧な物腰と誠実さのなかに、時折ユーモア精神がのぞく瀬戸敏由紀というひとりの個人の人柄」がにじみ出てくることに、深い感銘を受けた。

関連レビュー

地域の課題を考えるプラットフォーム 「仕事と働くことを考える」(その2) 村川拓也『Pamilya(パミリヤ)』|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年01月15日号)
劇団速度『わたしが観客であるとき』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年01月15日号)
村川拓也『Pamilya(パミリヤ)』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年03月15日号)
村川拓也『インディペンデント リビング』|山﨑健太:artscapeレビュー(2017年12月15日号)
村川拓也『ツァイトゲーバー』|木村覚:artscapeレビュー(2013年03月01日号)

鑑賞日:2024/05/26(日)