2021年11月15日号
次回12月1日更新予定

artscapeレビュー

劇団速度『わたしが観客であるとき』

2021年01月15日号

会期:2020/12/18~2020/12/20

京都芸術センター[京都府]

2020年3月に予定していた舞台公演が延期となった劇団速度は、京都市内の路上を行き交う人々の光景と、そこにゲリラ的に挿入される俳優の行為を映像と字幕で記録/記述する映像作品をネット配信した(『景観と風景、その光景(ランドスケープとしての字幕)』)。そこでは、「歩く」「すれ違う」「振り返る」といった日常的な行為が、俳優の行為を指定するト書きのように「字幕」によって記述されることで、「路上の出来事を『演劇』のフレームに強制的に取り込む」暴力性が顕在化する。一方で、「映像の圧倒的な情報量」「行為の同時多発性」による言葉の追いつけなさは、その脆弱性を同時に露わにする。また、無人の上演会場が「歩く」「眺めている」「雨が降っている」という字幕とともに写し出されるとき、「不在のものの投影、二重化の眼差し」としての演劇が再びこの場に召喚される。このように「演劇」の原理的枠組みへのメタ的な思考を経て、改めて劇場で上演された本作もまた、出演者3人のきわめて個人的な語りの連鎖と共鳴を通して、サブレベルでは同時に常に「演劇」とその周辺について語るものだった。


舞台上には、上手奥から白い布のロールが床に転がっているだけで、ほかには何もない。この空虚な空間と対峙して見つめるように、客席と同じ向きで舞台前面に置かれた3つの椅子に出演者3人が座る。出演者のひとり、城間典子(記録映画作家)はヴィデオカメラをライブで回し、その映像は椅子の背後に置かれた小さな3つのモニターに中継される。目の前で起こる出来事、その記録、「過去」として固定され続ける「現在」と両者のズレ、視線とフレーム、視線の共有とその分断、不在と想起といった本作のキーワードが、ミニマルなつくりのなかに端的に提示される導入だ。



[撮影:小嶋謙介]


出演者3人は、順番に「舞台」に立ち、一見バラバラな個人的な語りを淡々と話し始める。瀬戸沙門(俳優)は、精神科の訪問看護師である父親についてのインタビューと、その仕事を「実演」してもらった経験について語る。通院が難しい精神科の患者と交わした会話を、「その人の言葉を預かる」気持ちで記録すること。遠い過去の出来事をつい昨日のことのように語る患者との会話は、一緒に「タイムマシン」に乗るような感覚であること。その仕事の「実演」に際し、他人を見る目で自分に向き合う父に感じた戸惑い。そこでは、自分が「俳優」としてその場にいられるまで待ち、肯定してくれる父の「視線」が重要だったと彼は結ぶ。



[撮影:小嶋謙介]


一方、城間は、カメラを構える自分が「透明な眼」になりたかったことと、身近な人ほどそれが難しいことを吐露する。城間が語るのは、7年前、統合失調症を罹患した友人と共同制作した映画についてだ。幻聴など自分の身に起きたことを友人自身が脚本化して自演し、城間が撮影した。城間は当時の撮影の様子を「『記憶の再演』の再演」として行なうが、手にしたカメラからモニターに中継されるのは、「無人の会場」の即物的な光景だ。「現在」しかカメラには映らないという残酷さと、その不在を想像力で埋めていくことについて、城間の語りを引き継ぐのが、畑中良太(ダンサー)の語る、かつて通ったゲームセンターの思い出だ。「そこに行くには、想像するか、夢を見るしかない」。

城間は数年間、その映画の編集をできないままだったが、最近、追加シーンを撮影したという。脚本もコンテもなく、「友人の家で家族と一緒にただ過ごす」撮影を経て気づいたのは、「ドキュメンタリー作家として『透明な眼』が理想だったが、自分との関係性もそこに織り込まれている」という事実だった。



[撮影:小嶋謙介]


「他者とどう向き合い、距離を取るか」、とりわけ家族や友人といった近しい存在であるがゆえの困難と、「役」やカメラといった媒介性の作用。それぞれ個人的な経験をバトンリレーのように語りつないだ3人は、終盤、椅子の向きを変え、客席と対面する。ラストシーンで、彼らが身を置く「舞台」は闇に沈み、「客席」は明るく照らし出される。この操作は、単純に「見る/見られる」という視線の反転というよりも、「いま目の前にいる相手、すなわち『観客』であるあなたとどう関係をつくるか」という切実な希求に思われた。彼らの語りのトーンは、「俳優としてのモノローグ」と「目の前にいる相手に向かって語りかける」の中間、「固定された台詞」と「いまここで過去を想起しつつ語ること」の狭間で不安定に漂っており、その揺らぎのなかで時々、こちらの目を見返してきたからだ。淡々と語る彼らの話を、(カウンセラーやインタビュアーのように)ただ傾聴に徹して受け止める時間は、親密とさえ言えるこの場限りの小さな共同体をともに立ち上げるための、長い助走の時間だった。その費やされた長い準備時間を共有することで、私たちはやっと、どのような関係性を結べるのかを摸索する端緒につくことができるのであり、それを可能にするのが「劇場」という場なのだ。


公式サイト: https://theatre-sokudo.jimdofree.com/

関連レビュー

劇団速度『景観と風景、その光景(ランドスケープとしての字幕)』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年04月15日号)

2020/12/18(金)(高嶋慈)

2021年01月15日号の
artscapeレビュー

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