[デザイン:Kai]

会期:2024/05/08~2024/06/16
会場:BUG[東京都]
参加作家:林修平、MES、FAQ?
企画:長谷川新(インディペンデントキュレーター)
公式サイト:https://bug.art/exhibition/spillover-2024/

BUGに行くのはおそらく二度目で、前回も有楽町方面から歩いて立ち寄り、その後東京駅へと向かっている。有楽町方面からやってくると、ビルの足下のベンチに人が点々といるのを目撃する。大きなガラスのカーテンウォールの中では、窓際のカウンター席で何かを飲む人のいるのが見えてくる。その人越しに、展示壁の裏側が見えている。この面には直接入れる入口がないので、そのまましばらく歩いてビルの端まで行ったらぐるりと回り込み、吹き抜けたアトリウムを抜け、エスカレーターの脇を通り過ぎ、BUGの入口へたどり着く。

右手にカフェカウンター、左手に窓際のカウンター席、いつもはそのままボカンと開いて見えているギャラリーの、右斜め手前に壁が増えている。追加された壁の手前(展示壁の裏面だ)にはカウンターテーブルが設けられ、色とりどりにきらめくアクリル板の天板と、その上に新聞のようなものが置かれている。FAQ?の「ZINEコーナー」だ。分厚いファイルにたくさんの紙が綴じられているのも小口から見えている。

椅子に座って、ファイルをめくる人がいたので、ひとまず壁の向こうへ回り込もうとする。FAQ?の一角はカフェのカウンター席と同じ明るさで、壁の向こうは薄暗い。荷物はよければこちらへ、とスタッフに声をかけられて、重たいバックパックをカフェカウンター脇の白壁に立てかける。大きな音が突然鳴ることと、モミガラが降ってくることを伝えられる。ラミネートされたハンドアウトも受け取った。

画面中央の壁が今回新設された展示壁。既存壁から斜めに伸び、窓側のカフェスペースとギャラリーを分けている。壁際がFAQ?「ZINEコーナー」/右がMES《サルベージ・クラブ》[筆者撮影]

壁で遮られて見えなかったところには巨大なタンクが置かれている。畜産業でエサを溜めるのに使われるものだ。このタンクが置かれた先の突き当たりの壁の頭上には、タンクの上部だけが壁掛けされている。二つのタンクの丸い口は開いていて、壁掛けされたタンクの下にモミガラが積もっていた。

右手の壁には3台縦に積まれたモニターと、足下に大型のスピーカー。モニターは点灯していない。

左手の壁には丸い円盤が掛けられている。タンクの中から声がする。女性の声でゆっくりとナレーションが始まる。絵本の情景描写のような、博物館の案内音声のようにも聞こえる。音声は切り替わり、男性の声が、形式ばった条文のようなものを読み上げる。くしゃみと共に、壁掛けのタンクの口からモミガラが降ってくる。スポットライトの光を受けてきらきらと降ってくる。豚の鳴き声が聞こえてきたり、左手の円盤にサーモグラフィーの中でうごめく何かが映される。

MESのラジオドラマ・インスタレーション《サルベージ・クラブ》(2024、作品時間21分)は、細長い空間に声を響き渡らせるが、向かい合ったタンクの丸い口の間で行き来している音として目には映る。例えばテニスコートで、ネットを挟んで行き交う黄色い球を、右から左へ左から右へとスイングの動作が行き来するのを、眺めるような★1

カチャッという、小さいが確かな音が鳴り、壁の高いところでプロジェクターの蓋が閉じられた。

MES《サルベージ・クラブ》のタンクの軸線とクロスする向きで、林修平《D.L.P. (animals)》のモニターとスピーカー。画面外の左に向かい合うタンク、右に円盤がある。奥の斜めの壁が、今回つくられた仮設壁[撮影:守屋友樹]

インターバルを挟んでこちらの作品が始まります、とスタッフが呼びかける。林修平の《D.L.P. (animals)》(2024、作品時間7分)は起動すると、足下のスピーカーからデスヴォイスと轟音が、モニターには髑髏のペイントを顔にほどこしてゆらゆらと揺れる人の姿が流れ始めた。轟音は、歪んだギターやベースの音のようで、デスヴォイスはその中に溶け込んでいる★2。モニターとスピーカーの対面の壁に背中を預けてしゃがんでいると、壁がビリビリと振動するのが感じられる。

そういえば背中の向こう、壁の裏で、ガラス沿いのカウンター席でカフェラテを飲んでいた人はどうしているだろうと思った。斜めの壁をぐるりと回り込んでも轟音は聞こえてくる。来たときと変わらず談笑する人たちがいる。ギャラリー内へ戻るとき、「ZINEコーナー」の斜めの壁、今回の展覧会のために設けられた展示壁の裏面に「遮音シート」の文字を見る。展示壁は頭上も横も空いている。このシートが機能的な意味で「遮音」するかというと……? と思いながら中へと戻り、モニターとスピーカーの対面にまた座り込む。

流れる音源は、バンドの編成のように聞こえたが、ドラムはなかったように思う★3。ビートはないが、映像内の人の揺れが、轟音の内にあるうねりや起伏を目に映す。恍惚とした表情のように見えるその人の揺れを見ていると、何かを語っていることまではわかっていても、背面で壁が振動し続けることを通じて、身体の正面もまたこの轟音を受けており、身体の表面が揺れているだろうことを考えてしまう。語りの意味を取っていくには、この距離は近すぎたのだろうか?

やがて轟音は、徐々に細くなっていき、フェードアウトではなく、各音が退場するように減っていき、消えていく。

FAQ?「ZINEコーナー」の先の細い廊下のような空間は、窓際のカウンター客席。有楽町方面からBUGヘ来ると、このカウンター客席と展示壁の裏面を見ながらビルを大きく回り込むことになる[筆者撮影]

斜めの壁を回り込み、FAQ?の「ZINEコーナー」に着席する。背後から、窓越しの明るさを感じながら、まずZINEを手に取る。『交換日記 Vol.1 性、生、そして抵抗』にはびっしりと文章が綴られている。途中に挟みこまれた読絵会の記録、年表、寄稿を経由して、次の日記へたどり着く。交換日記としての交換のターンを感じるまでには時間がかかるが、読絵会の鼎談のさまや、年表における時間経過、この紙面の外に応答する寄稿から、いくつものペースがあるのだとわかってくる。置かれたファイルには、ZINEにも付録されているプロフィールシートが綴じられている★4。これらプロフィールの持ち主たちがどんな日記を書くのかはわからない。ただ、記入日が今日よりも以前、2023年だったりすることに、ここに持ち込まれていない物事のほうが多いのだと、当たり前の事実を確かめる。そして、交換日記の投函の受け付けは、この後も続く交換があることを念押しする。これもまた、まだ持ち込まれていない物事だ。

長谷川新のキュレーターコメント★5には「いわゆる『電波漏れ』を意味するスピルオーバーは、その性質上、本来届けるはずの範囲を越境して、別の土地、地域、国家、人へと電波が届く現象を指す言葉です。行政権力や企業がどれほど労力を費やしても、電波は意に介さず国境を超え、地方区分を逸脱し、『受益者』の範囲を広げ続けます。想定されていなかった情報を受け取ってしまった者たちがこの世界にはそれなりにたくさんいるはずです(後略)」とある。

「スピルオーバーという現象をベースにして」いるこの企画だが、ここで聞こえていた種々の語りは、「本来届けるはずの範囲を越境」していたのだろうか? 東京駅近くのオフィスビルの1階にあるBUGが、意欲的なスペースの立ち上げと運営に取り組んでいることは、本展やさまざまな企画から伝わっている。しかし、震える展示壁はガラスのカーテンウォールから離れ、カウンター席の客にまでしか漏れる音は聞こえない。ホワイエの、静かだがうっすらノイズに満ちたような環境でも、それは聞こえなかったように思う。入館する前に、私に何かは聞こえていたか? 追加された斜めの壁は、BUGとBUGカフェに越境をもたらすが、それはあくまでテナント空間内に留まる話だ。だが、キュレーターコメントと各作品からは、これら作品が「電波漏れ」の源でありこの展示はスピルオーバーだ、と鑑賞者に短絡させかねない危うさがある。

《サルベージ・クラブ》で語られる豚たちの経験も、生き延びる器であったタンク も、《D.L.P. (animals)》の轟音の語りも、「ZINEコーナー」に並ぶ交換日記に書き留められた言葉も、そうして内へと持ち込まれたものだ。これらは会期の限りその状態を繰り返す。二つの作品はインターバルを挟みながら交互に音を鳴り響かせ、くしゃみはいつも同じところで起きる。モミガラは降り積もり、交換日記は投函され、プロフィールを増していき、種々のイベントがあり、日々異なる人が来場し、スタッフのシフトも入れ替わるが、展覧会という形式のなかで、同じ時が繰り返される。

このように時間と空間の関係を語るのはときにロマンチックだが、今回はそうではない。本展の会場構成は作品こそが「電波漏れ」の源と思わせるかのように、自立性を強められている。鑑賞者がいようといまいと、作品にとっては構わないのだ、と鑑賞の位置を探っていた私には感じられた。展示構成に強められた作品の自立性ゆえに、自分でここを訪れたにもかかわらず、たまたま遭遇してしまったという感覚がある。これは展覧会の技術であると同時に詐術とも言える。展覧会が宿命的にもつ、持ち込むことと、ある閉じた時空間での繰り返しは、「スピルオーバーが起きている世界」ではない。各作家が、この世界で起きているスピルオーバーを受け取ったとしても、展覧会に「電波漏れ」そのものは持ち込みえない。そこにまず現われるのは持ち込むための、あるいは持ち込もうとする作家の語り口だ。

だが、語りには、語られていることがある。語られることを聞き取り/読み取り、ガラスの向こうへ持ち出せるのはここにいる者だけなのだ。ここでようやく、タイトルが「陸路」であること、キュレーターコメントの締め「今日もどこかでスピルオーバーが起きているこの世界で、 林修平、MES、FAQ?それぞれの足取りを目撃してもらえたらと思います」の意味がわかる。

スピルオーバーは、文字通りでしかない。作品が、展示が、展覧会が比喩的にスピルオーバーになぞらえられたことはそもそもない。ただ、いくつかの状況を結んで、「電波漏れ」だとギャラリー内で短絡したのは私であった。

改めて、目撃したのは足取りと、足取りが可能にした持ち込みである。そして、そのことがスピルオーバーと展覧会の一旦の限界を知らせてくれる★6

電波は漏れるが、際限なく広がらない。私たちは線状にしか歩けない。しかし作家が持ち込めるなら、鑑賞者は持ち出すことができるはずなのだ。タイムフリーの配信とは違うやり方で。おそらくきっと。


注釈というより、思い出したことをメモしていきます。
★1──演劇カンパニー・新聞家(主宰:村社祐太朗)と《屋上庭園》(2019)にセノグラファーとして参加した。並んだ4名の役者が正対するのは小さなアクリル板で、役者の前(観客からは右か左)へと発し続ける言葉は、振動する音の波としては跳ね返らないものの、写り込みというかたちで役者に役者自身の姿をぼんやりと打ち返し続けている。客席選びのシステムや、「舞台」経由で着席する動線は、ときに鑑賞者の位置が存在しないようにも思える展覧会の形式を参照したものでもあった。語りの内容と同時に、語るさまをよく見ようとした結果のねじれ。
★2──DADABOTSという音楽ユニットは、AIにブラックメタルを生成させている。RELENTLESS DOPPELGANGER \m/ \m/ \m/ \m/ \m/ \m/ \m/ \m/ \m/ \m/ \m/ \m/ \m/ \m/(YouTube)では、2019年からノンストップでライブ生成・ストリーミングが続いている。ここではデスヴォイスの向こうに意味をなす語りはなく、声(らしきもの)も含めてすべてが一緒くたに耳へとやってくる。なおDADABOTSの楽曲では、ブラストビートなど、ジャンルに特有のドラムパターンが聞こえる。定期的に訪れるが、同時に再生している人は世界中で2、3名。その人数の少なさゆえか、人数に他者を感じるからか、聞きに行っているのに、遭遇してしまったという気持ちにもなる。
★3──グループ展「」(CSLAB、2024年6月17〜27日)でも林は同作を異なる仕様で出展していた。こちらでは振動装置が接続された木箱のようなスツールが客席として用意されている。尻越しに感じたのは主にベースの音で、壁の振動を背中から感じているときよりも轟音の組成をクリアに感じてしまった。同時に、デスヴォイスが語らんとすることをわずかに聞き取れたように思ったのも、こちらの展示であった。
★4──交換日記はしていなかったが、中学生の頃、生徒手帳の中の白紙のページをデコり合う文化があった。それは好きな曲の歌詞だったり、プリクラや好意の言葉であったり、なんでもないイラストでもあった。寄せ書きの派生かもしれないが、それはいつも春から夏にかけて起きていた。私も書かれたし、私も書いた。1ターンだけの交換が年に一度だけあり、それを胸ポケットにしまっていた。あれはなんだったんだろう。
★5──全文はこちら。合わせてぜひ読んでみてください。「スピルオーバー」は継続的な発表となるそう。引き続き注目していきたい。
★6──展覧会という形式に賭け所があるとしたら、確かにそこにいる人の存在だろう。鑑賞者はもちろんのこと、スペース運営のためにシフトを組んで在廊するスタッフのや各関係者のことも考えていきたい。作品が持ち込まれ、繰り返されることをまず可能にするのは、それに立ち会い続ける人の存在によるからだ。

鑑賞日:2024/06/14(金)


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