フォーカス

鑑賞と座り込み──いること、見ること、見えてくるもの

山川陸(アーティスト)

2023年04月15日号

直近で足を運んだ展覧会での経験を回想するとき、私たちの身体は、その空間にどのように関わっていたか思い出せるだろうか。展覧会の空間は、言わずもがな作品を鑑賞する行為を前提として設計された場所でありつつも、その環境を細かく観察し腑分けしていくとき、物理的な身体や時間を伴った鑑賞者の位置づけが明確に定義されていない展覧会に時折出くわしたりする。しかし一方で、「鑑賞」に留まらない、少し異なる質の経験をその場に立ち上げる企図をはらんだものに出会うことも増えてきた。
建築の領域を出発点に、展覧会の会場構成や舞台作品のセノグラフィにも携わるかたわら、ツアーパフォーマンス形式の作品の発表などもたびたび行なってきたアーティストの山川陸氏に、展覧会や上演における、鑑賞と空間の関係性に対する考察をご寄稿いただいた。(artscape編集部)

見ることの手前で

大きな部屋の中央に、背もたれのないベンチソファーが置かれている。クロームメッキの脚からは紐が伸びていて、その先には図録がつながれている。座ると身体が少し沈み込む。背を前に丸めて、図録をパラパラとめくる。顔を上げると、少し遠くに、図録にあるのと同じ作品が壁にかけられている。前で立ち止まり、覗き込む人がいる。部屋の中央では、どの壁もよく見えるが、どの壁からも少し遠い。

美術館で展覧会を訪れたらば、こんなベンチソファーに座ったことがあるのではないだろうか。

そこまでに何が起きるだろう。展覧会を訪れる。展示室の手前でチケットを提示し、ハンドアウトを受け取り、時にオーディオガイドの機器を装着し、まずタイトルとステートメントの書かれた壁の前へ立つ。そして、足を踏み入れる。平面作品が主であれば、壁に沿って歩くことが順路を示し、キャプションに振られた数字が逆順で現われると、自分が誤った順序で見ていることに気がつく。立体作品が壁から離れて部屋の半ばに置かれているならば、キャプションの数字にしか見る順序の手がかりはない。しかし正しく見て回れないと、部屋ごとの狙いが伝わらないし、部屋と部屋の連続、章立てにより伝えようとする全体像には至れない。順路は、単に交通整理の問題なのではない。展示には理想的な経験があることがわかる。それを、福尾匠氏(現代フランス哲学、批評)の言う〈「ひととおり」の鑑賞〉★1と本稿でも呼んでいく。

そんななか、ベンチソファーは、部屋の空いた場所に置かれている。休憩のためにそれは置かれていることが多い(ように感じる)。あるいはそれは、部屋と部屋の間の廊下に置かれていることもある。窓からただ外が見えたり、関連資料が置かれたり、時にほかの展覧会のフライヤーが置かれたり、展示の鑑賞からひととき離れることがベンチソファーの上では許されている。

映像作品の暗室には、柔らかなビーズクッションが置かれていることもある★2。 作家も、映像作品とその展示室が数少ない腰を下ろせる時間と空間であることを自覚し、その役割をつい引き受けてしまうことがある。鑑賞であり、同時にそうではない休息へ、来場した私の身体は座面の上で沈み込む。自身の拠って立つ制度を問い直すことのない展覧会は来場者に対してただ〈「ひととおり」の鑑賞〉を求める。ただ見続けることだけが想定されており、休みなく歩き・立ち続けるにせよ、(作品とは無関係な次元で)休息する場があるにせよ、座り込むことそれ自体は多くの場合無視されてきた。

鑑賞という作品への参与と、そうする身体、そして集まる人々との共同性について考えること。作品とされる範囲の内側だけがあるのではなく、制度も含めた外側にまで制作が関わっているということは、現代の芸術の避けられない前提だ。本稿では、私が直近に訪れた芸術祭と展覧会を通じて、鑑賞における見ることの手前、いることについて考えてみる。つまり、近代の美術館が前提としてきた、鑑賞の理想が、今日いかに変わってきているのかについて。個別の作品詳細には踏み込みきれないが、実際的な状況と鑑賞の関係を主に扱う。


ドクメンタ15──「リビングルーム」の座面と背もたれ

ドクメンタ15(ドイツ・カッセル市、2022年6月18日〜9月25日開催)ではよく座った。会場の外の腰掛け、会場間をトラムで巡る際の座席、坂道の途中で腰を下ろすベンチ、そして展示室内の至るところにある座面と背もたれ。

各会場の展示室はひと組のアーティストにより構成されていることもあれば、複数組で構成されていることもある。どちらにせよ大半のアーティストは自分たちの展示ごとに座面と背もたれを用意していた。座面と背もたれ、とわざわざ言うのも、そこには備品として支給されたような家具がほとんど存在しないからだ。映像作品が展示の多くを占めることが、座面と背もたれを必要とするのはよくわかる。どの作品形式にも増して、映像は一瞥してわかることはない(ことになっている)。映像作品は、作品のもつ時間尺が鑑賞の前提となっている。

尺のすべてに立ち会うことに意味がある場合もあれば、むしろ尺のすべてに立ち会えない・立ち会わないことに意味がある場合もある。後者は長大さや膨大さそのものあるいはそれに付き合うことの徒労に作品の力点が置かれ、すべて見れない・見ないものだな、という判断を促す構造が作品内容や展示方法により示される。だが、ドクメンタ15の作品群は基本的に前者の姿勢であり、また後者の姿勢に作者も鑑賞者も傾かないための試みだ

ドクメンタ15には非欧米圏からのアーティスト、それも主にコレクティブが参加した。それぞれがコレクティブゆえに、参加作家数でいえば総勢で1000名を超えるという。キュレーターとして招聘されたのは、インドネシアのコレクティブruangrupa(以下、ルアンルパ)。欧州主導の現代美術のシーンでも強い影響力を持つドクメンタの実行委員会が欧米の外からキュレーターを呼び、キュレーターがアーティストを集め(時に集まり)、アーティストのつくった展覧会場に来場者が集まる。ゲストとして呼ばれたルアンルパ、そして集まったアーティストは、ホストでもある。というより、あらねばならなかった。展覧会というかたちで自分たちの場所を形成し、そこへ来場してもらい、いてもらうということが実現しない限り、彼らはどこまで行ってもドクメンタ実行委員会に呼ばれたゲストでしかないからだ★3

実際のところ、どのような状況だったのか。滞在記の一部を掲載する。私は参加コレクティブのひとつ、Nhà Sàn Collectiveが会期中に運営していたドミトリーに滞在しており、そこは展示会場のひとつ、WH22の真ん中に位置していた。


7月24日(日)

朝、ベンチに腰掛けて歯を磨いたりなどしていると、WH22の展示を見に来た人々が通りすぎていく。ぼーっとしていると、ドイツ人の年配の女性に「文字ばっかりで全部読み切れないから、あなたここのアーティストだったら説明してくれないかしら」と話しかけられた。「僕は泊まらせてもらっているだけだから、中にいるアーティストに聞いてみます」と、キッチンにいたTanhに声をかけてみた。すると「僕たちが伝えたいことは全部書いてある。それをまだ読んでいないのなら、まず読んでくださいって伝えてほしい」と言われた。連日こうした声かけはあるんだろうし、まだ朝だし、それくらい素っ気ないものなのかもなと思い、言われたことを女性にそのまま伝えた。「今回のドクメンタは、どこに行っても文字ばっかり。不親切よね。Anyway, have a nice day.」

やり取りになんとなく釈然としないまま、まずは僕も展示を見ないとな、と思った。★4


文字というより、正確には、言葉が多いのだ。それは文字のかたちをとって壁に書き連ねられていたり、映像内のインタビューやナレーションといった語りのかたちで現われる。その多くは母語によるもので、字幕や翻訳を通じて意味が届けられることもあれば、原語のみでそもそも読み取れないこともある。

異なる前提の共有には時間がかかる。言語につまづきながら、まず内容を受け取ろうとし、それから考える。立ってじっと見るのは大変だ。それはとても疲れる。しかし、前提を共有することじたいが、そこから始めるしかないことが、ドクメンタ15では展示されていた。

だから、各所には座面と背もたれがある。木材でつくられたものや、廃材のようなものを組み合わせてソファのように仕立てられたもの、自身の街から持ってきたと思しきカーペットに座り込むものもある。映像や文字の向こうで語られる物事を画面の手前にもつなぐための小道具にすぎない、とはもちろんいえない物たちだ。


「ドクメンタ15」展示風景(筆者撮影)。各会場の材料にはカッセル市内で出る廃棄材料や不要家具などが用いられたそう。ルアンルパの映像作品。


ルアンルパは各アーティストたちに、いくつものキーワードを共有し、議論してきたそうだ。そのひとつ、「リビングルーム」は、家の中の半公共空間として存在したインドネシアのリビングルームに由来する。スハルト政権下で集会を禁じられたインドネシア人にとって重大だった、集まり、共にいることを支えてきたからだ。自分たちの展示を「リビングルーム」にすること、そして「ふだん自分の場所でやっていることをカッセルでやってほしい」ということがアーティストたちには伝えられたそうだ。展示スペースのあり方は、自国での活動をドイツで“世界の人々に向けて”報告・共有するという以上に、(彼ら彼女らのホームであれ、ドクメンタをホームにしてしまうのであれ変わらない)そこにいる人に向けて展示を行なうという、アーティストの取り組みの中核として見えることが求められていた。


「ドクメンタ15」展示風景(筆者撮影)。ビーズクッション、それに類するものも多く見られた。*foundation class*collectiveの冊子を読むスペース。


前述したように、ドクメンタ15では、尺をもつ作品はその尺で経験することで意味を持つと言える。どの作品も、その内容のすべてを見聞きしてなお、前提共有が終わったあとの始まりに過ぎないからだ★5。しかし、それにしては長すぎる作品が多いのも事実だ。例えばSubversive Film《Tokyo Reels》は、9時間を超えるパレスチナに関するドキュメンタリーの上映だ。私もすべての作品の尺には沿っていないし、会期中ずっと滞在していたとしても同様だろう。しかし、すべてを経験できないのだという諦めとそこからどうするかという問答は、一度向き合う姿勢を持ったうえでしかしえない。その膨大さと長大さを一瞥し、構造的問題としてだけ捉え、ニヒリズムに陥ることは避けなければならない。その抵抗のために座面と背もたれはあった、とあらためて言いたい。ビーズクッションですらも、ここでは来たる疲れを先取りして示しているようにも思える。しかし、嫌な感じはしない。そこにいて向き合うことを強いる、負荷に備える座面や背もたれ。見る前の、まずいるための設え。


「ドクメンタ15」展示風景(筆者撮影)。Trampoline Houseは各モニターに対してソファ、椅子を配置。もっともリテラルにリビングルーム的な展示。


なるべくいてほしいという意思は、座り込みの無視に代表される達成できなさを考慮しないかつての〈「ひととおり」の鑑賞〉の理想を反転したものと言える。そして、なるべく(多くの人に/長い時間)いてほしいというのは、実際のところ“本当に”達成はできず、その意味で、新たな理想とも言える。ドクメンタ15は、その理想を立ち上げる試み、その始まりにすぎない。しかしこれは理想の後退ではないはずだ。


ウェンデリン・ファン・オルデンボルフの舞台/客席

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」(東京都現代美術館、2022年11月12日〜2023年2月19日開催)もまた、座ることから始まるいること、そうしてようやく可能になる見ることにまつわる展覧会だ。オルデンボルフはオランダ出身で、ブラジルで過ごした経験や、インドネシアで母親が育ったことを背景に持つ。「作品が生い立ちのみに還元されてしまうことは望んでいません」★6と語るオルデンボルフだが、どのような前提を抱えてこれらの作品を展示しているかはまず触れておきたかった。映像に映る大勢のやりとりだけでなく、会場構成においても、来場者が異なる前提にアプローチするために鑑賞を機能させようとしている。

ここでも言葉は多くを担う。展示されていた映像作品の総尺は251分。この時間の尺とともに来場者がいることを支えようとするアーティストの意思は、会期中の再入場を受け入れる「ウェルカムバック券」の制度と、オルデンボルフ自身による会場構成に託されている。

入口でヘッドホンを受け取って最初に出会う《マウリッツ・スクリプト》(2006)では、開口部の設けられた壁を挟んで、二つの映像が流れている。片方では17世紀にブラジルを植民地支配していたオランダの総督ヨハン・マウリッツの手紙の朗読が、もう片方では彼の統治についての議論の様子が映される。どちらも、異なる背景を持つ複数の作品参加者によるものだ。オルデンボルフの作品を考えるキーワードとして与えられる「多声性」は、画面を超えて、植民地支配を巡る支配/被支配、過去/現代、オランダ/ブラジル……と音声の衝突としてさまざまに現われる。二つの向かい合った映像の間には展示室を斜めに横切る壁があり、その中央には四角い開口部がある。来場者の増加に伴いパイプ椅子が設置されたが、図録の記録写真を参照すると、その開口部に背中合わせに腰掛けて、それぞれの映像を見る人の姿が写っている。映像へ向き合う私の背後からは、つねに別の声が聞こえてくる。


「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展(東京都現代美術館、2022)展示風景[撮影:森田兼次]。左右の壁に映るのが《マウリッツ・スクリプト》(2006)。図録にはこちらと同じ構図の写真で、二人が背中合わせに左右の映像を見ているカットが含まれている


壁沿いに進んだ先のソファベンチは、空いたスペースに置かれたのではなく、積極的にスペースを占めるものだ。関連する書籍、資料に目を通し、聞こえてくる声を来場した私たちが重ねるために。そして廊下状の空間で別作品の写真のプリントと、次に現われる作品の書籍を目にして、また別の展示室へ足を踏み入れる。

暗く広い展示室には大小の画面が点在し、それぞれに異なる作品が映されている。始まりに展示された作品《彼女たちの》(2022)は、二人の女性文筆家・林芙美子と宮本百合子のテキストを主に扱う。合計5作品が展示されている大部屋の中で、日本語の語りが作品内で扱われることもあり、この作品を見られる位置に大勢の来場者が集まっている。スピーカーから音声の流れていた作品は《彼女たちの》と、だいぶ距離を空けて向かいあう《偽りなき響き》(2008)だけだ。


「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展(東京都現代美術館、2022)展示風景[撮影:森田兼次]。奥に見えるのが《彼女たちの》(2022)、見切れた左には《ヒア》(2021)、手前には《オブサダ》(2021)が映されている。


残りの3作品は音声の干渉を避けるべく、ヘッドホンでの鑑賞が前提となっている。ヘッドホンは入口に大量に用意されており、持ち運んだそれをひな壇に空いたイヤホンジャックへ挿して使う仕様だ。ひとまず座り、ジャックへ挿したヘッドホンから音声が流れることを確かめる。背もたれはないので、少し前かがみになったり、両手をついて後ろに反ったり、膝を抱えたりする。すぐ隣、前、後ろにも同じようにヘッドホンをして座り込んだ人がいる。ひな壇は劇場の客席のようで、正面では大きなスクリーンが光を反射している。

細長い島のようなひな壇からは別々の方向に映された3作品を見ることができる。木のフレームが島を分け、時に壁になり視界を遮っている。都度場所を少し移動して、ヘッドホンを挿し直す。

この島と、先述した《偽りなき響き》のスクリーンを越えた突き当たりにあるのが、《ふたつの石》(2019)だ。シングルチャンネルの作品で、スクリーンの両側に上下2段組の字幕モニターがある。ヘッドホンから聞こえてくるのは片一方の字幕だけに対応した音声だけだ。作品のつくりは、28分の映像が終わると頭に戻りループするが、重なる音声が1巡目と異なるというものだ。イヤホンジャックは2種類存在し、目の前の映像に対してそれぞれ異なる音声が流れている。つまり、ひな壇にいる来場者は、同じ映像に対して異なる音声を聞いており、それぞれの2巡目にもうひとつの音声を聞くこととなる。字幕だけが、この映像に対して二つの音声が用意されていることを示している。

遠目に、これまで見てきた作品を視野に入れながら、同時に読むことができず、しかし視野には入ってしまう字幕と、聞こえてくる片方の音声を照らし合わせる。目は字幕と2画面を捉えきれない。ここに来て、隣にいる知らない誰かと私の目線はバラバラになっていく。各々が各々、見聞きしているものをどうにか鑑賞すべき作品として組み上げようとする。


「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展(東京都現代美術館、2022)展示風景[撮影:森田兼次]。《ふたつの石》(2019)だけ独立した島としてひな壇が組まれている。ひな壇に座ると、ほかの作品が画面と字幕の間から遠目に見える。


この展示室は大きいが細長く、作品を見ていくと自然と最後に《ふたつの石》へと至る。それまで作品を見聞きしていたときの、それぞれがヘッドホンをつけていながら、同じように同じものを見ている、という共同体のような感覚はここで消えていく。

ひな壇に座り込むことは、客席に留まることではなく、舞台に上がることでもある。「やわらかな舞台」で来場者により上演されるのは、かつての〈「ひととおり」の鑑賞〉ではない。オルデンボルフの映像にいつも写り込む、その状況を成立させようとするカメラクルーや舞台裏のように、私はまず席を選び、イヤホンを挿し、そしてよく見ることで、自分の鑑賞を立ち上げようとする。オルデンボルフが想定したであろう〈「ひととおり」の鑑賞〉とは、来場者と作品・作家のある種の共同作業それ自体だ。一方、オルデンボルフの作品において、映像に映る物事と、映像の手前で来場者が「演じる」ことは近しい質を持つ。この鑑賞は、制作の続きに位置し、終わることがない★7


座り込み、そして──……

こうした現代の展覧会に近い意識をもつ現代演劇の実践として、新聞家(主宰・村社祐太朗)の公演を挙げておく。独特の発券システムや公演会期の設定、広報の仕方、そして上演時間に比して観客との意見交換の時間が長い、といった公演の諸要素をプラクティカルな実践対象としていることが一貫している。時に10分台の上演に対して1時間以上の意見交換会が催されることもあり、上演の時間とそれを見ることだけが重視されてきた公演を見直し、そもそもそこに人が集まり、まずいるということから、公演を自らが要する理由も含めて思考し続ける実践だ。一見するとリーディングとも言えるような、抑制された身振りでテキストを読み上げる俳優の姿は、その語りを通じてテキストをそのままにいかに伝えられるかという試みでもある。見る、聞く、それ以上に、来場者は俳優とともにそこにいることを自覚する★8

そもそも、舞台芸術の鑑賞の前提は、大型の劇場や映画館における正面舞台(あるいはスクリーン)と客席という空間構成、安心して座り続けられるクッションを備えた座席に埋もれることにいまもある。しかし現代の舞台芸術は、そのような場での上演ばかりではない。パイプ椅子に、見ることに特化した座席の快適さでもって鑑賞者の身体を消し去ろうとする劇場の力を引き継ぐのは難しい。だからだろうか、劇場的な空間制度を前提とした上演を、制度の外にある場で鑑賞し続けることは時に辛い。パイプ椅子、あるいは平台の上に置かれた薄いクッション、立ち見。身体的な負荷は、語られる物語に勝ることがある。ゆえに現代、上演は上演単独では存在しえない。公演の枠組みから問い直し、上演を取り巻く空間(客席、受付、通路、駅からの道のり……)と時間(開演前、トイレ休憩、終演後のトーク……)を含み、そこにある鑑賞する個々人の身体をないことにはできない。

しかし、展覧会における座り込み(=〈「ひととおり」の鑑賞〉から外れる休息行為)と、公演における座り込み(=〈「ひととおり」の鑑賞〉を実現するための身体性の剥奪)は、異なる観点からそれぞれの分野で長らく無視されてきた。今日、そこにいること、その身体を含んだ鑑賞の理想と立ち上げの試みを同時に示すことは、分野を越えた関心事と言えるはずだ★9

あらためて、かつての〈「ひととおり」の鑑賞〉があるとするのは今日難しい。そもそも、それをそのままに経験する者が存在しないためだ。ないから理想なのだとも言えるが、そこに人間を想定しない鑑賞は世界の何をも変えはしない。それゆえまず〈「ひととおり」の鑑賞〉を人間がいかに立ち上げられるかが現代の芸術の試みたりえるのだが、鑑賞という行為は作品からの能動性だけでも、来場者からの能動性だけでも成立しない★10。より具体的で個別の来場者たちと対峙するうえでは〈「ひととおり」の鑑賞〉を立ち上げる試みじたいが鑑賞の理想そのものなのだと言える。どこまで行ってもわかりきることがないと知っている私(たち)が、いかにして「ひととおり」と思えるか。いや、思えるようになれそうか?

個々人の経験はひと連なりのものに過ぎないが、それを個々人の「ひととおり」であると短絡的に理解するのもまた違う。ドクメンタ15やオルデンボルフ展からわかるのは、展覧会という機会が完結しない試みにもなりうるということだ。だから、今日ありうる展覧会や公演とは、それぞれのひとつらなりが集まり・絡まり、それぞれに対峙する世界の「ひととおり」の、その端が見えてくる場ではないか。ここから始めれば、「ひととおり」と思えるところまでいつか行けるかもしれないと。

座り込み、まずいること、見ること、そして見えてくるもの。鑑賞は始まった、このまま続く。





★1──本稿の執筆にあたり、ドクメンタ15、オルデンボルフ展とともに思い出していたのが福尾氏による大岩雄典「スローアクター」展評(ウェブ版美術手帖、2019)および、「鑑賞の氷点と融点──Surfin’ 展評」(グループ展「Surfin’」ウェブサイト、2017)である。どちらの評も、特定の展評であると同時に、鑑賞についての見直し、インスタレーションを評すること、キュレーションの有無がもたらす構造的差異など、現代美術の展示全般を見るうえで重要な指摘がなされている。
「スローアクター」展評において福尾氏は「展覧会は物をちゃんと見るということをさせる装置であり、広報やステートメントが文化的なわれわれを引き寄せるいっぽうで、作品やキャプションの配置は一定の見かたを誘出することでわれわれをいたわる。額縁におさまった絵画が壁に架けられているということがすでに、とりあえずはその正面に立てば良いのだと、ひとつの安心を提供するものでもある。文化的な焦燥に駆られた疲労と安心のエコノミーのなかで、はじめから質は量に敗北している。これは『網羅する』ということへの幻想の解体に対応している」と今日の鑑賞の前提を示している。そして、「展示における『ひととおり』の鑑賞を設定することと、展示において『ひととおり』の鑑賞がいかにして立ち上がるかを実験の対象とすることのあいだには、それこそ質的な差異がある。つまり、疲労と安心のエコノミーに乗るのか、そこから批判的な距離を取ろうとするのかという違いがそこにはある」と指摘している。特に「『ひととおり』の鑑賞がいかにして立ち上がるかを実験の対象とすること」は、程度の差はあれど、現代の芸術の実践の前提と言ってもよいだろう。
本稿がまず初めに書くのは、福尾氏の言う前者に該当する美術館での展示のことだ。そのうえで、後述するドクメンタ15、オルデンボルフ展を、後者の展開として扱う。

★2──「スローアクター」展評では「極端な弛緩、重力への最大限の妥協を形象化するものへと身を浸し映像作品を眺めることは、明るい部屋に直立不動で絵画を眺めることと対照をなしている。疲労と安心のエコノミーは硬直と弛緩の勾配に同期しないまでも、この二極の姿勢が示す可動域は、そのエコノミーを設定するときのひとつの指標となる」と、また「Surfin’ 展評」では「日常的な動作、だらしない身体を展覧会という空間にいかに導入・配置するかという試みは、例えば映像作品の上映空間にビーズクッションが置かれているという近年の美術館ではよく見かける光景にもすでにみることができる。しかしこれだけであれば、長い映像を疲れずに観るための配慮という以上の意味を持ち得ない。つまり、これは鑑賞という行為の公共性の縮減ではあり得ても鑑賞でないものが鑑賞に反転するという逆方向の運動は起こり得ないのだ」と言及がある。この指摘に共感していただけに、ドクメンタ15を回りながら、これまで経験したクッションや椅子と異なる印象だったことが気になっていた。

★3──ドクメンタという枠組みに乗る時点で欧米主導のアートシーンの現況を再生産しているという批判は十分可能だ。しかし、枠組みに乗ったうえで枠組みの反転を目論むことも現代美術には可能であり、実際に現地の様子は(さまざまな論争が起きたことでむしろ明らかになったが)単なる再生産とは言いがたいものだった。ドクメンタの規模で枠組みの反転を試みたことに、私は素直に勇気づけられた。メディアでは各会場の設えやアクティビティばかりが報じられたが、常設展示のある美術館・博物館の会場利用や、カッセル市内のエリアへの理解と会場のプロット、移動の設計など、丁寧に設計された芸術祭だった。ゆえに、各論争においては、会場内の状況や起きていること(=作品でいうところの内側)だけが議論の対象になってしまったともいえる。対象を切り出さずに広く長く、時間をかけて話し合うことを求めていたドクメンタ15の求めた状況とは対照的な論争のあり方だったと感じる。

★4──桂川大+山川陸「会場を構成する──経験的思考のプラクティス(その4)滞在記:ドクメンタ15」(建築討論、2022)。2022年の1年間、建築家の桂川大氏と、展覧会の会場構成を対象とした連載を共同執筆した。建築家、学芸員による企画展の会場構成の分析を経て、複数会場・複数主体による会場のあり方を考察するため、ドクメンタ15を取り上げている。

★5──藤村龍至氏(建築家)は2017〜19年当時、「議論とは、互いの前提を明らかにすることです」と研究室の学生に伝えていた。藤村氏は設計プロセスを研究対象のひとつとし、市民参加の公共建築・プログラムにも多数取り組む。議論により互いの前提を明らかにする(そしてそこから共同することが始まる)という姿勢として私は理解し、参与や共同性を考えるときにいつも思い出す。

★6──カタログ『ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台』(torch press、2022)p.92

★7──「鑑賞者の間にも、さまざまな関係性を生み出したいと考えています。誰もがみな舞台上でのそれぞれのあり方を持っています。それは覗き見的なものとは違って、ある構図の中に自分の立ち位置を得るということです」(同カタログp.104)。インタビューでは本展に限らず、オルデンボルフが会場構成をいかに考えているかの回答が収められている。

★8-1──今回は紹介に留めるが、従来の制度の外で、舞台芸術における〈「ひととおり」の経験〉を新たに立ち上げようとする試みを総じる言葉として、渋革まろん氏(批評家)の言う〈ポスト劇場文化〉を挙げておく。新聞家の実践は一見従来的な公演形態にも見えるが、同語で例示される諸実践との呼応を感じる。〈ポスト劇場文化〉については渋革氏のこちらのテキストを参照してほしい。

★8-2──筆者は新聞家が2019年に発表した『屋上庭園』『フードコート』にセノグラファーとして通年で共同した。村社氏は「わかったことにしない」「短絡しない」という姿勢を稽古でも、上演でも、意見交換会でも一貫しており、その点で「ひととおり」というものが存在せず、そもそも完結しないものとして扱っているように思える。

★9──いわゆる上演の多くが、上演中に席を立つ自由を奪われているという点は、再考しきれない制度のひとつだ。一方、両分野における議論の重なりを通じて、座り込む以外の方法でいる時間を稼ぐような分野横断的な展覧会/公演の増加にも注目したい。例えば劇場のホールだけでなく各所を用いるイマーシブシアターの形式で全館でのパフォーマンスを巡る小林勇輝主催「Stilllive: Performance Art Summit Tokyo 2021-2022──衛生・変身・歓待」(ゲーテ・インスティテュート、2021年10月17日)、クラブを比喩としパフォーマンスの内に来場者を招く敷地理『Hyper Ambient Club』(ロームシアター京都、2022年5月4-6日)、『Hyper Ambient Club 2023』(CCO クリエティブセンター大阪、2023年2月24-25日)。パフォーマンスアート/パフォーミングアーツのあわいにあるこれらは、その鑑賞を展示における移動を伴うものへと変える。また藤倉麻子の物流型展覧会「手前の崖のバンプール」(東京湾、2022年5月28-29日)では、来場者は移動する船上で時に振り付けられながら、経過する時間に身を晒すことになる。これはツアーパフォーマンスとも呼びうるものだろう。これらの実践はすべて、筆者は残念ながら未鑑賞であり、アーカイブや関係者・鑑賞者からの聞き取りを踏まえた紹介ではあるが、関心を寄せるものとしてここに取り上げる。

★10──「Surfin’ 展評」は「インタラクション、参加、関与engageを称揚する私たちの時代の芸術は、『鑑賞』という次元を『モダニズム』というレッテルのみによって無み(※編集部注:原文ママ)することができるかのように振舞ってはいないだろうか。この展覧会は、私たちの能動性が対象から脱−関与disengageするミニマルな折り返しとしての鑑賞の氷点/融点へと私たちを誘い込む。はじめから鑑賞されるべきものとして額縁のなかに収まるのでも、関与されるべきものとして私たちの能動性に依存するのでもなく、私たちの関与が鑑賞へと滑り込み、オブジェやイメージに対する別様の関与可能性をつかのま反射するこの地点にあるミニマルな鑑賞こそが、私たちがここまで見てきたようなプライベート/パブリック、内部/外部、物質/情報、現実/インターネットなどの二項の往還や重ね合わせを可能にしていたものであるだろう」と締められている。ドクメンタ15、オルデンボルフ展を福尾氏が指摘する「インタラクション、参加、関与engageを称揚する私たちの時代の芸術」と見なすことは可能かもしれない。しかし、ここでの作品なるものたちは「鑑賞されるべきものとして額縁のなかに収まるのでも、関与されるべきものとして額縁のなかに収まる」のでもなく、座面と背もたれ、そこにまつわるさまざまな身振りや仕組みといった具体的な形でもって、来場者に向かってくる(人間以外に託された)能動性を有していた。作品なるもの、その展示環境もまたこちらへ能動的に関わってくるものだったと言えないか。その点で「Surfin’」に見られた「ミニマルな鑑賞」とはまた異なるかたちの、実験の結が展覧会の内には出ないが何かを前進させるために機能する今日の鑑賞として、本稿で取り上げた経験を捉えることができるのではないだろうか。



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