2019年08月01日号
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artscapeレビュー

新聞家『屋上庭園』

2019年06月15日号

会期:2019/04/26~2019/04/30

つつじヶ丘アトリエ[東京都]

新聞家はこれまで、村社祐太朗自らが戯曲を執筆・演出し上演してきた。既存の戯曲を用いて一般に開かれた公演を行なうのは今回が初めてだ。「一般に開かれた」とわざわざ断ったのは、そもそも村社演出による『屋上庭園』(作:岸田國士)は利賀演劇人コンクール2018で上演され奨励賞を受賞した作品であり、今回の上演はその改定再演だからだ。利賀演劇人コンクールで上演された作品がほかの場所で「再演」されることはそれほど多くないのだが、コンクールの成果を広く問う意味でもこのような「再演」には大きな意義があるだろう。

村社の「戯曲」はほぼ散文といってよい形式をとり、その上演に一般的な意味での会話はない。言葉は決して難解なわけではないが容易には意味が取りづらく、しかしそこが魅力でもある。上演においては俳優が他者としての言葉と対峙する様がクローズアップされ、それを観る私もまた、そのような態度を要請される。一方、『屋上庭園』は(およそ100年前に書かれた戯曲ではあるが)平易な言葉で紡がれる会話劇だ。同じ新聞家名義での公演とはいえ、両者の上演は相当に異なるものになるだろう、と思っていた。

だが考えてみれば、他者としての言葉に対峙するという意味では俳優の営為に違いはない。戯曲自体の言葉の質の違いを別にすれば、『屋上庭園』の上演から受けた印象は、新聞家のこれまでの作品のそれと驚くほど変わらなかった。『屋上庭園』という戯曲とそこに書き込まれた人々のことがこれまでにないほど「よくわかる」とさえ思わされたのは、新聞家が「他者」と徹底して向き合ってきたことを考えれば至極当然だったのかもしれない。

人の出入りや金の受け渡しなど、戯曲に書き込まれた必要最低限の動きこそ実行されるものの、演技はいわゆる「リアリズム」からはほど遠く、4人が寄り添い同じ方向を向いて立ち尽くす(記念写真を撮るかのような)状態が基本となる。その視線の先には透明のアクリルボードのようなものがあり(美術:山川陸)、そこには俳優たちの姿もうっすらと映り込んでいただろう。この配置自体、2組の夫婦が/夫と妻とが、互いに己を映し合う『屋上庭園』の構造、そして新聞家の実践それ自体を可視化するようでもある。

横田僚平、那木慧、菊地敦子、近藤千紘の4人の俳優の演技はきわめて解像度の高い「リアル」な情感を私のうちに呼び起こした。男女の配役はそれぞれダブルキャストになっており、2×2で4パターンの配役があったらしい。自身が見た回の配役こそが最適解であると思わされたが、おそらくいずれのパターンも等しく精度の高い、しかしそれぞれに異なった「リアル」を感知させる上演だったのだろう。一見したところ抑制されているように見える俳優の発話や挙動が、それゆえむしろ微細な差異を際立たせる。観客はそうしてそこにある「テクスト」とそれぞれに対峙する。新聞家の実践が決して特殊なものではなく、むしろ演劇原理主義的な側面を持つものであることをあらためて確認できたという点においても(それはつまり演劇の原理(のひとつ)をあらためて確認することでもある)有意義な体験だった。

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©三野新

©三野新

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©村社祐太朗

公式サイト:https://sinbunka.com/

2019/04/26(山﨑健太)

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