会期:2024/06/07~2024/06/08
会場:ロームシアター京都 サウスホール[京都府]
公式サイト: https://rohmtheatrekyoto.jp/event/117810

前編でふれたように、『ライカムで待っとく』は、アメリカ統治下の沖縄/現代という二重構造の物語である。同様の構造は、劇艶おとな団『9人の迷える沖縄人~after’72~』(2015年初演)とも共通する。ただし、『9人の迷える沖縄人』では、「劇中劇」の入れ子構造と劇世界を区切る「暗転」により、過去/現在、フィクション/現実の境界は(終盤を除き)明確に保たれていた。「1972年の本土復帰直前の沖縄で、9人の市民が復帰をめぐる討論会に参加した」という設定のフィクションと、「その架空の討論会を演じる現代の沖縄の劇団員たちの稽古場」が交互に上演される。「休憩中の雑談」も「討論シーンの演技」同様に白熱し、異なる立場や世代間の差異と断絶が、沖縄の抱える矛盾や葛藤をあぶり出していく。

一方、『ライカムで待っとく』では、霊媒師が呼び出した佐久本が語る過去の回想シーンのなかに、いつのまにか浅野が入り込み、アメリカ統治下の沖縄と現代、死者と生者の境目が曖昧に混濁していく。佐久本をはじめ、彼の同僚や友人たちもなぜか浅野の顔を知っており、伊礼の祖父が遺した手記を基に取材しているはずの浅野自身が、「そっくりさん」である伊礼の祖父の取材を「再演」するかのようになぞり始め、両者は区別不可能になっていく(例えば、事件の関係者の生き残りである佐久本の友人の元恋人への取材を取り付けるが、浅野が会って話を聞くのは、高齢の女性ではなく、米兵相手の売春を理由に別れを告げられたことを語る若い女性だ)。瓜二つである浅野/伊礼の祖父の鏡像性とは、横須賀、厚木、座間、相模原など、沖縄に次いで米軍基地が多い神奈川県と沖縄の歴史的な共通性でもある。そして、浅野がこれから書こうとする記事は、もう既に誰かの手で書かれてしまって・・・・・・・・おり、その「物語の内部」にいることを、登場人物たちは半ば諦念とともに知っている・・・・・

「こういうふうになるよって、なってるから」「もうね、決まってるわけさ」「そういう決まりなんです」。繰り返し放たれる台詞は、二重の響きをもつ。①「沖縄についての物語は、本土・日本国家によって既に決定されたシナリオである」「語られるのは、本土が共感・消費可能な『期待される沖縄像』でしかない」という、沖縄が自身について語ることの困難さや、本土/沖縄の歪な権力関係。②より抽象的な次元では、「書かれた物語の内部にいる」ことを自覚している登場人物たちは、それが根本的に書き換え不可能であることもわかっているというメタフィクション性。

ここで、「米兵殺傷事件について伊礼の祖父が書いた手記を基に、浅野が記事を書く」という劇中の構造は、「伊佐千尋のノンフィクション『逆転』を基に、戯曲を書く」という、本作の劇作家・兼島拓也自身の投影でもある。「沖縄の物語」をめぐる、二重、三重のメタフィクション。あるいは、「メタフィクション」という迂回路を取らねば語りえないという困難な手続き。単なる作劇上の技巧ではなく、切実な希求と倫理がここにある。

[撮影:引地信彦]

終盤、浅野をはじめ現代の神奈川で暮らす人々と、1964年の沖縄の人々は、「ライカムのゴルフ場跡地に建つイオンモールのバックヤード」で一堂に会する。そして、浅野が書いているはずだった記事は、辺りに散らばるダンボール箱の中に「ちゃんと隠しといてよ」と念押しされる。過去に遡って書くはずだった記事は、「既に書かれた物語」として浅野自身を飲み込み、「ダンボールに死蔵されたままの未公表の手記」と同一化して、現在と過去がねじれたメビウスの帯のようにつながってしまう。

[撮影:引地信彦]

霊媒師が死者を呼び出す際、「写真」が必須アイテムであるように、本作において写真は、「死者」「過去」と密接に結びつけられている。ラストシーンでは、佐久本らアメリカ統治下の沖縄人たちと浅野の4人にカメラのフラッシュの強烈な閃光が浴びせられ、文字通り「shot(ショット/狙撃)」の二重性のうちに、「過去」「死者」の領域に閉じ込めてしまう。その暴力的な光はまた、舞台と観客席をほんのわずかな一瞬だけ、地続きに照らし出し接続するものでもある。あるいは、「フィクションへの没入」からの覚醒を、最後の瞬間に呼びかける閃光でもあり、極めて両義性を帯びている。

戯曲のレベルにおけるメタフィクション性は、上演・・のレベルにおいて、さらに上書きされる。本作における場面転換は「回り舞台」でなされるが、浅野が物語に飲み込まれ、書き換え不可能なことを自覚する終盤で、この「回り舞台」の回転が不穏なノイズとともに加速し始めるのだ。身体を張って、「回り舞台の回転」を文字通り止める浅野だが、必死の抵抗も虚しく、舞台は再び回転し始め、「物語を駆動させ続ける力」が背後に存在することを可視化する。

では、その「物語」の結末とはいかなるものなのか? そして、なぜ「浅野の記事/伊礼の祖父の手記」は隠され続けねばならないのか? なぜならそれは、「表の世界/本土が平和であるために、バックヤードに隠される犠牲の物語」だからだ。浅野=伊礼の祖父は、「この物語の決まり」として、浅野自身の中学生の娘か、孫としての伊礼か、どちらかが(おそらく米兵によって)連れ去られてレイプされ、犠牲として差し出すよう、決断を迫られる。「小さな犠牲をたくさん払って、平和を買ってるんですよこの国は」と、沖縄人のひとりは言い放つ。

逆に言えば、彼に課せられているのは、「父親」として「娘」を、「祖父」として「孫娘」(のそれぞれの純潔)を守らなければならないという二重の使命である。時制の混濁と分身的な重なり合いは、「父であり、祖父でもある」という家長の二重像を浮かび上がらせる。従って本作は、絶対的な家父長制の物語でもある。そこでは「物語の書き手」は、(浅野であれ、伊礼の祖父であれ)男性に占められ、「男(父あるいは祖父である家長)には、家族に属する若い女性(娘・孫娘)の純潔を守らねばならない」という「決まり」が課せられている。そして、この「家長」が「国家」と重なり合うとき、庇護されるべき「家族の属員=植民地」は、なぜ、若く、無力で、性的価値を備えた女性としてジェンダー化されるのかが問われねばならない。

また、性暴力の被害者の声が、「見えないようにバックヤードに隠されるべき」という決定が下される場が、すべて男性(佐久本、彼の友人と同僚、浅野=伊礼の祖父の4名)によって占められていることにも注意する必要がある(公演後の6月下旬から7月上旬、昨年から今年5月にかけて起きていた計5件の米兵や軍属による性的暴行事件を沖縄県警や外務省が公表していなかったことが報じられた。このことは、「物語と地続きの現実」を指し示し、あまりにも象徴的である)。不可視化されるのは、沖縄の物語だけでなく、ジェンダーの不均衡な構造による「もうひとつの声の抑圧」がここに交差しているのではないか。従って、「どのように物語の外部に出ることが可能か?」という問いは、沖縄と本土をめぐる物語であると同時に、家父長制と男性中心主義という物語への抵抗としても問われるべきである。

関連レビュー

劇艶おとな団プロデュース『9人の迷える沖縄人~after’72~』|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年06月15日号)
KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『ライカムで待っとく』|山﨑健太:artscapeレビュー(2022年12月15日号)

鑑賞日:2024/06/07(金)