発行日:2024/07/29
発行所:リトルモア
公式サイト:https://littlemore.co.jp/isbn9784898155912

奇妙なタイトルに思える。「誰のためのアクセシビリティ?」という問いに対する答えは一見したところ明らかだからだ。それはもちろん障害のある人のためのアクセシビリティだろう。ではなぜ改めてそれを問うのか。少しだけ迂回するかたちで話をはじめたい。

「一般的に、アクセシビリティは、障害のある人がない人にできる限り近づくことを目指して考えられていることが多い」。この文章を読んだ私がまず連想したのは同性婚のことだった。同性愛者にも異性愛者と同等の権利を。それはもちろん重要かつ当然のことだろう。しかし、そうして掲げられた「同等の権利」の影で、そこにたしかに存在しているはずの性と生のあり方の異なりは透明化されてしまう。

例えばたいていの場合、同性愛者のセックスは異性愛者のそれと単に相手の性が異なるだけのものと見なされている。酷い場合にはどちらが女役/男役かなどという問いが投げかけられたりもするが、そうでなくとも同性愛者のセックスが異性愛者のそれとは根本的に違うものなのだと想像されることは少ない。だが、そもそも同性愛者のセックスは異性愛者のそれのように生殖に関わる(可能性のある)行為ではない。自ずと行為のもつ意味や人生における位置づけも異なってくる。つまり、そこには同性愛者独自の文化と呼ぶべきものが存在するはずなのだ。

同性愛者に限った話ではない。性愛と恋愛・友愛との関係やそれぞれのもつ意味、あるいはパートナーシップへの指向などは個人個人で大なり小なり異なっていて、人と人との関係は本来、それらの異なりに基づいた多様なものであってよいはずだ。しかし、例えば異性愛規範に基づいた婚姻制度をベースとする社会においてはそれ以外の関係性は抑圧されてしまう。同性婚の法制化は、一方でそこにある抑圧を延命させることにもなりかねないものなのだ。さて、このとき同性婚は一体誰のためのものだろうか。

アクセシビリティとどんな関係があるのかと思われるかもしれない。だが、本書でも言及されているように「障害者文化とクィア文化は呼応し交差しながら発展している側面がある」。例えば障害者コミュニティのイベントなどでしばしばタイトルに冠されるというCripという言葉。それは「かつて蔑称として使われていた『cripple(不具)』を、当事者たちがプライドを示したり障害者の権利を訴えるような文脈で用いたりすることで、それらの言葉を当事者たちが肯定的に取り戻すもの」なのだという。ここには明らかにクィアという言葉が辿った歴史と響き合うものがある。それはマイノリティのマジョリティによる「包摂」への抵抗でもあるだろう。LGBTQというカテゴリ分けでさえ便宜的なものに過ぎず、近年では『われらはすでに共にある:反トランス差別ブックレット』(反トランス差別ブックレット編集部[青本柚紀、高島鈴、水上文]編)や『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』(アンジェラ・チェン著、羽生有希訳)、『ノンバイナリー』(マイカ・ラジャノフ、スコット・ドウェイン編、山本晶子訳)など、同じカテゴリに属すると見なされる個人の性/生の異なりを、その個々人によって「生きられた経験lived experience」を可視化するような本の出版も相次いでいる。

「誰のためのアクセシビリティ?」という問いにも同じ問題意識を見出すことができる。著者の田中みゆきは、アクセシビリティがマジョリティ側の基準でつくられ提供されるものである限り、それはエイブリズム(ableism、能力がある人が優れているとする考え方)から逃れることはできないのだと指摘する。だからこそ、本書はあるべきアクセシビリティを抽象的に語るのではなく、田中が出会ってきた障害のある人々の「生きられた経験lived experience」をいくつも取り上げ、あるいは障害のある人との協働によるプロジェクトの過程を具体的に記述していくことに重きを置く。

例えばAIとの絵画観賞ワークショップとその振り返りの様子を収めた3章「テクノロジーは観賞をアクセシブルにするか」。本書には鑑賞の対象となった絵画の図版も収められているため、読者である私もワークショップに立ち会っているかのような読書体験ができるのだが、それを通して明らかになるのは、人がそれぞれいかに異なるやり方で絵画を(ひいては世界を)捉えているのかということだ。AIによる絵画の描写は、しばしば頓珍漢と思われるほどに人間のそれとは異なっているがゆえにより一層、ワークショップ参加者の言葉を引き出し、それぞれの絵画の捉え方を点検するきっかけとして機能する。晴眼者と視覚障害者で捉え方が異なるのはもちろん、晴眼者同士・視覚障害者同士でもそれが大いに異なっているのは、そこにそれぞれ固有の身体と体験があるからにほかならない。

田中は「表現に関するアクセシビリティは、障害のある人がない人と同じように体験するということを超えて、さまざまな違いをもった人が自分の身体で主体的に物事を体験するとは一体どのようなことなのかを考える面白さ」をもつものであり、「障害の有無に関わらず、ひとつの体験の本質を考えることと、必然的につながってくる問い」なのだと言う。それは同時に「これまでの社会のあり方を再考することを迫る、大きな可能性を秘めている」ものでもあるだろう。抑圧のもとに蠢く多様性がいまある社会を転覆させる可能性を示す本書は、だからこそ恐ろしくも面白いのだ。

鑑賞日:2024/08/19(月)


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