会期:2024/08/24~2024/08/25
会場:THEATRE E9 KYOTO[京都府]
公式サイト:https://askyoto.or.jp/e9/ticket/20240824

同じ戯曲を3人の演出家がそれぞれ演出した3本を連続上演するシリーズの7回目。企画は「若だんさんと御いんきょさん」(演出家の田村哲男とコトリ会議の若旦那家康によるユニット)。1~3回目は安部公房の戯曲3部作を、4~6回目は現役作家の山本正典(コトリ会議)の短編戯曲を上演した。毎回、演出家によって戯曲へのアプローチや解釈の違いが際立ち、「同じものの繰り返しではなく、まったく違うものを3つ見た」と感じる。「3つの異なる視点」の並置によって元の戯曲の構造がより立体的に見えてくると同時に、「演出とは何か」という根本について考えさせる点に、本シリーズの意義と醍醐味がある。

シーズン3となる今回は戯曲から離れ、中島敦の短編小説『山月記』(1942)を基に若手演出家3名が創作を行なった。小説の舞台化は、単に粗筋をなぞればよいのではなく、本質的な困難が伴う。(舞台上では発話されない)「ト書き」と「会話/モノローグ」で成り立つ戯曲に対し、小説は「地の文」と「会話」で構成される。状況説明や風景とリンクさせた心情描写を担う「地の文」をそのままナレーションとして処理すると、説明的になってしまう。また、小説では、一人称/三人称の視点の違い、「視点人物」と「主人公」の使い分けなど、戯曲とは根本的に構造が異なる。さらに、近代小説の場合、台詞としてそのまま発話すると、現代口語演劇との齟齬が出てしまうという困難が伴う。特に、唐代の中国を舞台とした『山月記』は難解な漢語が散りばめられ、二重、三重の「翻訳」を要する。

『山月記』は唐代の設定だが、努力か才能か、理性か狂気か、芸術至上主義か生活かという葛藤を描く点で、中島自身が投影された「近代的自我としての芸術家の内面的苦悩」を描く。若くして科挙に合格した秀才の李徴 りちょう は、官職を辞して詩作に専念し、詩人として名を残そうとするが、評価されず生活に困窮し、下級官吏に再就職する。だが、自分より劣る俗物たちに仕えることが自尊心をさらに傷つけ、発狂して虎となってしまう。その数奇な変身譚が、偶然通りかかった旧友で、官吏として出世した袁傪 えんさん に対して語られる。草むらに身を隠した李徴の声が語る、虎になる(=理性を失う)苦しみ。才能不足が露呈するのではないかという「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」から、他人と切磋琢磨する努力を怠った結果、才能を空費して獣と化したという自責の念。虎となっても試作への執着を手放せない李徴は未発表の詩を暗誦し、後世に伝えてほしいと託された袁傪は涙で別れる。

今回の上演でも、三者三様の演出方法の違いが際立った。1本目の大川朝也(劇団白色)による演出は、物語をほぼ忠実になぞったストレート版。導入としてはわかりやすいが、「物語の復習」以上の意義を見出せず、小道具の使用に矛盾や詰めの甘さを感じた。例えば、「谷川に映った自分の姿を見て虎になったことを知る」語りで、「スタンドミラー」に向き合う俳優の身体を鏡に写してしまう ・・・・・・・・ 一方で、「草むら」を模したパネルからは、なぜか「ぬいぐるみの虎の手」が顔を出す。2本目の下野佑樹(演劇創造ユニット[フキョウワ])による演出は、原作では深堀りされない「李徴と袁傪の関係」を焦点化し、ラップの技量を競い合う「MCバトル」に置換した。3本目の駒優梨香(世界平和書店)による演出は、「李徴の内面の告白の聞き手」を担う袁傪をバッサリ切り捨て、「虎になった李徴の混沌とした内面世界」を、ダンサーによる身体表現と、声楽と打楽器による幻想的な音楽劇として抽象化した。

大川朝也演出[撮影:駒優梨香]

駒優梨香演出[撮影:駒優梨香]

本稿では、2本目の下野演出に着目したい。「MCバトルへの置換」は変化球に見えるが、単に斬新さやポップさ狙いではなく、『山月記』という小説の核を掴んだうえで、最終的には「マッチョな男らしさ」への問題提起を示唆するからだ。なぜ、『山月記』はMCバトルに置換可能なのか。李徴が作る「漢詩」は「韻を踏む(押韻)」の規則で成り立ち、ラップのリリックに呼応する。また、「MCバトル」という形式により、原作が内包する「バトル」の多重性がクリアに浮かび上がる。官吏としての出世を競う競争社会の俗世間。だが、「高尚な詩(芸術)の世界」にも、「詩人として評価され、後世に名を残せるか」という熾烈な生き残り競争がある。虎すなわち獣の世界は、まさに弱肉強食だ。

下野佑樹演出[撮影:駒優梨香]

下野演出はさらに、「(物語構造に潜む)主役争い」をメタ視点から仕掛ける。『山月記』は視点人物である袁傪の視線で物語が進むが、「内面の葛藤」が描かれる近代小説の「主役」は李徴である。「あのとき言えなかった言葉」をビートにのせてぶちまける「MCバトル山月記」でまず口火を切るのは、「俺こそ主役」と奪還を図る袁傪だ。読者がみんな思っているように、「聞き手役」に俺は甘んじたくない。そこから、男のエゴ、嫉妬、プライドがガチンコでぶつかり合うバトルが展開する。原作でも李徴が「今の心情」を即興で詩作したり、李徴が暗誦した過去の作品を聞いた袁傪が「どこか欠けるところがある」と思う場面がある。下野演出では、李徴のラップを聞いた袁傪が同様に「お前のリリック、うまいと思うんだけどなんか響いてこない」「評価されたいんだな、それしかないんだなって」とディスりを繰り出す。だが、それは「本心では李徴の凄さを認めているからこその嫉妬」の裏返しでもある。「マイク」を床に置き、対話/MCバトルから逃げようとする李徴に、袁傪は執拗に言葉を投げ続ける。袁傪自身も役人として働きながらあきらめずに詩作を続けているというオリジナル設定が加えられ、「ごまかすな」「本当にやりたいなら苦しんで書き続けろよ、豚野郎」と挑発する。

それは、照明が切り取る「バトルフィールドの矩形」が象徴するように、「お前のことを誰よりも本当に理解しているのは俺(だけ)」という2人きりの世界であり、限りなくホモセクシュアルな感情に近い男同士の関係だ(李徴は黄色と黒の虎カラーのパーカーを羽織るが、袖口には「I MISS YOU」と書かれたタグが付いている)。中島敦が約80年前に書いたホモソーシャルな関係を、下野演出は抽出し、挑発、罵倒、エゴとプライド、愛憎が渦巻く「マッチョなMCバトル」に置換し、増幅してみせる。終盤、李徴は「本当は、傷ついた俺の弱さをわかって欲しかった」という「言えなかった言葉」を吐き出す。それは、「男らしさ」の脅迫観念や承認欲求に抑圧された「弱さ」の自己肯定に見える。だが、暗転後、ラストシーンでは袁傪がひとり残され、「あのときこんなふうにぶつかり合っていれば、お前は虎にならずに済んだだろうか」とつぶやく。すべては袁傪の妄想にすぎなかったという皮肉のなかに、マッチョな世界からの離脱という希求を読み取ることも可能だろう。

下野佑樹演出[撮影:駒優梨香]

鑑賞日:2024/08/24(土)

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