artscapeレビュー

若だんさんと御いんきょさん『鞄』

2020年04月15日号

会期:2020/03/06~2020/03/08

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

安部公房の戯曲『棒になった男』(1969)の第1景『鞄』に対して、3人の演出家がそれぞれ演出した3本を一挙上演する企画。演劇ユニット「若だんさんと御いんきょさん」によるシリーズ企画第2弾であり、昨年は第2景『時の崖』が上演されている。演出違いの3バージョンを見比べることで、戯曲に対するアプローチや解釈の振れ幅が浮き彫りになり、ひとつの戯曲の多角的な鑑賞を通して、多様な読みや上演可能性に開かれた創造的な器としての戯曲のあり方が立ち現われる。


『鞄』は、夫が家の中に置いている鍵のかかった不審な旅行鞄をめぐって、気味悪がる「女」(妻)と「客」(女友達)が交わす会話劇。不審な物音や呟き声を立てる鞄の中身について、女は虫かミイラかもしれないと妄想し、「何をしていてもこの音がまとわりつく」と嫌悪する。女友達がヘヤピンで鍵をこじ開けようとするが、生きているかのように奇妙な物音がして二人は飛び退く。行動の決断力も責任も持とうとしない女は、友人の自尊心を刺激して開けさせようとしたり、どこかに捨ててきてほしいと頼み、心理的な駆け引きが展開されるなか、錠前の外れる音がする。「あとは、あなたの心の錠前だけね」と言い残して友人は去るが、女は鞄に鍵をかけ、夫の帰りを待つあいだ、ラーメンの出前を注文する。


リアルな手触りの会話劇から、「鞄」のもつ不条理性を立ち上げるにあたり、「鞄」をどう解釈し、どこまで具現化/抽象化するか。この最大のポイントをめぐり、三者三様のアプローチが分かれたことが興味深い。実物の「旅行鞄」を舞台上に持ち込んだのは、合田団地(努力クラブ)。エスカレートする苛立ちとディスコミュニケーションの閉塞感が出口を求めて暴走していく回路が、「会話劇」だが対話相手と向き合わず、二人の女優それぞれが客席に向けて放つモノローグ的な発話の掛け違いとして提示された。感情を喪失したような平坦な棒読みやひきつった笑いの肥大化は生理的嫌悪感をかき立て、対人的な感情の出力がコントロールできない、非人間的な狂気へ近づいていく。「ほかにも苛立たせる物音はあるのに」と言う友人が列挙する「飛行機や車の轟音、風の音」は効果音として流れるのだが、「食事は毎日あげているの?」「家の中で来る日も来る日もこの音に悩まされている」といった台詞は、「具現化されていない音」、すなわち赤ん坊の泣き声を想起させ、妻に一方的にのしかかる育児の負担を暗示する。二人の女の背後で所在なさげにテーブルに座っていた男は、「ヘヤピン」を腹に刺され、女たちの感情の暴発が乗り移ったかのようにうめき声を発し続け、遂に自壊して「鞄」に変容を遂げる。女たちもまた、座っていた椅子にそれぞれ旅行鞄を置いて立ち去り、「鞄」からはなおも機械的な発声の声が聞こえ続ける(ように見える)。自分自身が「怖れや不安」の対象と同一化し、非人間性の塊と化す戦慄的なラストであると同時に、「本来そうではないもの」が「そうであるフリ」をする齟齬を最大化して提示することで、「演劇」へのメタ的な身振りともとれる。



合田団地演出『鞄』 [撮影:manami tanaka]


一方、「主導権を奪おうと互いに牽制し合う二人の女の駆け引きに、実効的な支配力を及ぼし続ける男」という構図を採用したのが、河井朗(ルサンチカ)。河井演出では、俳優の身体性や動きの抽象化により重きを置き、静かな緊張感のなかに粘着質の生理的な体感の生々しさがじわじわと迫ってくる。対面して左右対称やユニゾンで動く2人の女は、自己の鏡像か分身のようにも見え、「彼女たちにはその存在が見えない」男は、異物として疎外されている/侵入してくる。押さえた発話や身振りの浮遊感のなかに、引力と斥力、磁力のような見えない力の作用や流れを可視化する手つきが洗練されていた。



河井朗演出『鞄』 [撮影:manami tanaka]

田村哲男による演出は、3本の中では最も戯曲に忠実でありつつ、ジェンダー転倒という変化球を投げてきた。だが、その仕掛けによって新たな解釈の端緒を開きつつ、最終的に自ら閉じてしまっていた点が惜しまれる。田村演出では、「妻」役をあえて男優が演じることで、関係性は定位せずにつねに揺らぎ続ける。彼らはゲイカップルなのか? あるいは「私たち、昔はうまくいってたじゃない」と言うシーンでは、バイセクシュアルとして女友達とかつて恋人関係だった可能性が浮上する。さらに、「女言葉でしゃべるが外見は男性」を字義どおり受け取るならば、この「妻」はMale to Femaleのトランスジェンダーという見方も成立する。そこでは、彼/彼女を悩ませ脅かす「鞄から聞こえる異音」は、ホモフォビアあるいはトランスフォビアの謂いとなる。



田村哲男演出『鞄』 [撮影:manami tanaka]

「仕事の帰りが遅い夫」を待ちながら女友達とおしゃべりして抑鬱を晴らそうとする、「家庭内で夫を待つ妻」。それをあえて男優が演じることで、(50年前という時代差に埋め込まれた)ジェンダー描写の偏向が露わとなる。その偏向は、「ゲイカップル」がヘテロセクシュアルのカップルを前提とした性別役割分業を踏襲していることや、トランスジェンダーがどこまでジェンダー規範や性別役割分業を内面化するのかといった問いの喚起によって、より浮き彫りとなる。

だが、ラストシーンでは、背後のスクリーンに「森友・加計学園」「マイクロプラスチック」「CO2排出量」「グレタ・トゥーンベリ」「非正規雇用」「子供の貧困」「原発再稼働」といった単語が次々と投影され、「鞄」の中身が「現代社会の時事問題」に短絡的に限定されてしまう(そこには「LGBTQ」に関する単語は不在である)。関係性の揺らぎ=想像力を投企できる演劇的余白や、セクシュアリティ・ジェンダーをめぐる問題圏、クィアな読解につながる萌芽はあったものの、掘り下げられないまま、「大きな事象」の羅列の中に拡散してしまったことが惜しまれる。



田村哲男演出『鞄』 [撮影:manami tanaka]


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