artscapeレビュー

若だんさんと御いんきょさん『すなの』

2022年04月15日号

会期:2022/03/05~2022/03/06

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

安部公房の戯曲3部作『棒になった男』(1969)から毎年1本ずつ選び、同じひとつの戯曲を3人の演出家がそれぞれ手がける演出違いの3本を連続上演するシリーズを、3年間にわたり企画してきた「若だんさんと御いんきょさん」。これまでは30代の演出家を招聘してきたが、今年は現役作家の戯曲をお題に、20代の若手演出家3名を迎えて一新した。上演される戯曲は、コトリ会議の山本正典による短編『すなの』。ある午後、リビングで、テーブルに置かれた「砂がいつまで経っても落ちきらない不思議な砂時計」をめぐって夫婦が交わす会話劇だ。

「気づくと砂がいつのまにか上に上がっていて落ちきらない」と言う妻。「砂がピンクいからかな」と言う夫。だが砂時計のガラスも透明ではなく緑色をしており、「本当の砂の色」は「緑ひくピンク」か「ピンクひく緑」かで2人の意見は食い違う。砂の色を確かめようとして前のめりになった夫は、浮いたお尻の下に「幸せの丸いの」があると言う。そして「幸せの丸いのはピコピコはねてすぐにどこかに行ってしまう」とも。コーヒーを淹れに席を立った夫が突然つぶやく、「どこにもいかない」という意味深げな台詞。聞き返す妻に、「どこにもいかない砂」と言い直す夫。夫は、コーヒーを淹れる際に転がり落ちた「幸せの丸いの」を、「見つからないけど探す」。やがて会話は、お湯を沸かす機械が「電気ポット」か「ケトル」かで再び言い争いになり、「ケトルって何語? フランス語?」と言う妻に対し、夫は突然「ごめん」と謝り、「行きたかったな、フランス」とつぶやく。「こんなに静かな時間があったかな」「俺も覚えてない」という会話を最後に、砂が落ちる「すーーーー」という音だけが静かに響き続け、「真っ白い木の額縁に入った妻の写真」がテーブルの上にあることをト書きが告げる。

要所要所で夫の台詞は不穏さを暗示するが、2人のあいだに具体的に何があったのかは明示されず、会話の「余白」からどう解釈するかは演出家に委ねられている。この戯曲を演出する最大のポイントは、「砂時計」を舞台上にどのように存在させるかという点にある。3つの演出作品は、上演順に「砂時計」の実体化が進む一方、「砂が落ちきらない砂時計」が何を指すメタファーなのかをめぐって解像度が上がっていく構成が興味深かった。

1本目の木屋町アリー(劇団散り花)による演出は、舞台正面の壁いっぱいに「落ちる砂」の映像を投影。またト書きのナレーションを、舞台奥の暗がりに身を置く3人目の人物に語らせる。ストレートな演出だが、焦点が曖昧で未消化感が残った。2本目の葉兜ハルカ(でめきん/旦煙草吸)による演出では、「幸せの丸いの」を異化するような「白い立方体」が舞台上に散らばる。それは妻の手で捏ねられ、砂時計の形に実体化する。ラストシーンでは、白い立方体を積み上げて長方形のフレームを形づくり、その中に妻の顔が収まることで「遺影」が示唆される。



木屋町アリー演出『すなの』



葉兜ハルカ演出『すなの』


そして3本目の泉宗良(うさぎの喘ギ)による演出では、テーブルの上に実物の「砂時計」が出現した。泉演出が衝撃的なのは、「妻」役の俳優がマイクに向かって「すーーーー」という細い息の音を出し続ける点だ(「妻」の台詞はスピーカーから出力され、録音音声と会話する夫の様子は「不在感」を強調する)。「砂時計」とは字義通りには「不可逆的な時間の流れ」であり、夫の意味深げな台詞や「テーブル上の妻の写真=遺影」の示唆は、「砂時計=妻の命の時間」を暗示するだろう。「妻」がマイクに吹きかけ続ける「息」の音は、命の持続を示す「呼吸」そのものであり、その規則正しくもか細い音は、人工呼吸器から漏れる息の音をも思わせる。そして「砂時計をひっくり返す」夫の介入は、「妻の命の砂が落ちきるのを止めたい」という叶わぬ願望だ。だが、夫は「妻」の方を見ず、誰もいない不在の空間に向かって話し続ける。「こんなに静かな時間があったかな」「俺も覚えてない」というラストシーンの会話を冒頭と終盤で反復し、「妻」が舞台上から去った終盤では、同じ台詞が夫の一人言のように響く仕掛けは、すべてが夫の回想であることを示唆する。円環状に始めと終わりがつながる、出口のない閉じた時間。そのトラウマ的時間の「不在の中心」こそ、砂時計すなわち「妻の身体」の代替物にほかならないことを、幕切れのスポットライトは鮮やかに示す。それは同時に、「演劇とは表象の代行制度である」ことをメタレベルで宣言する。

このように戯曲の要請を鮮やかにクリアしてみせた泉演出だが、「砂時計=妻の身体」のメタファーには別の問題が浮上する。それは、女性の身体を物象化し、オブジェクトとして一方的に眺め、所有する視線にほかならない。「真ん中でくびれを描く砂時計の曲線のライン」は、まさに女性のボディラインのメタファーとして召喚されているのだ。「砂時計=妻」のメタファーを戯曲から読み解いて用いるのであれば、妻を喪った夫の切ない回想を超えて、そうしたジェンダーに対する視線の構造の暴力性を批評し、戯曲が内包する問題を内破していれば、泉演出の意義と射程はより深まったのではないか。



泉宗良演出『すなの』


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