カジミール・マレーヴィチ《黒の正方形》
1915年、キャンバス・油彩、79.5×79.5cm、ロシア、トレチャコフスキー美術館蔵
Photo Fine Art Images/Heritage Images/Scala, Florence
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蜂蜜の国の黒い記号

秋は空が高く美しい。今年(2024)の残暑もまだ厳しいが、中秋の名月は9月17日、夜空をのんびりと眺めてみるのもいいかもしれない。地球の空はつながっている。ロシアのウクライナ侵攻開始から2年半が経過し、先行きが見えないがウクライナの空は、国旗に反映されるほど青色が鮮やかだ。映画『ひまわり』(1970)のロケ地にもなった花と空がきれいなウクライナ。我が家ではその風景のラベルがついたウクライナ産の蜂蜜が大活躍している。ウクライナのキエフ近郊に生まれた画家カジミール・マレーヴィチの代表作《黒の正方形》(ロシア、トレチャコフスキー美術館蔵)を見てみたいと思った。

《黒の正方形》は文字通り、黒い正方形が描かれているだけの絵なのだが、二つの疑問があった。なぜ、全面を黒にしなかったのか。なぜ、正方形なのか。そもそもこれが絵画なのかという問題もあるが、絵画としてどのような解釈ができるのか探求してみたかった。黒い絵画については、全面黒色だけの村上友晴(1938-2023)の《無題》を見ていたが、マレーヴィチの《黒の正方形》は、村上の《無題》とは異なって、白地の上に黒の正方形を描いており、白・黒の2色になっている。記号のような黒の四角形(■)にどのような意味があるのだろうか。武蔵野美術大学准教授で美術批評家の沢山遼氏(以下、沢山氏)に《黒の正方形》の見方を伺いたいと思った。 沢山氏は、論文「絵画と全方位──マレーヴィチ、リシツキー、モンドリアン」(『今、絵画について考える』水声社、2023)のなかで《黒の正方形》について今日的な論考を発表している。東京・小平市にある武蔵野美術大学鷹の台キャンパスへ向かった。


沢山 遼氏

読書と芸術

JR国分寺駅からバスで20分ほど、大学は夏休みで人影が少なく、がらんとした校内に射す日差しがより強く感じた。1982年生まれの沢山氏は、岡山県倉敷市で育った。10代の半ばに美術に関心をもち始め、大原美術館へは自転車で通っていたという。「美術館でクレー (1879-1940)やセザンヌ (1839-1906)の絵を見ると最初は異様な感じがした。そこには一般化できない特異性がある。しかしそれは作家の身体的な癖や個性のようなものではなく、もっと大きな思考に結びついているように思えた。そうした作品には、何かがありそうだという予感がしていたし、その予感は、すでに作品のなかに内蔵されているとも感じていた。何でもひとりで完結するものが好きで、高校生の頃は、本を読んで生きていけたらいいななどと、非現実的なことを考えていたように思う」と沢山氏は述べた。

大学は、3年生のときに美術評論家の高島直之先生やキュレーターの岡部あおみ先生が教鞭を執られていた武蔵野美術大学へ、京都造形大学(現 京都芸術大学)から編入し、2005年に卒業。武蔵野美術大学の大学院へ進み、2007年造形研究科修士課程を修了した。その後、知人から出版社を紹介してもらいライターなどで過ごしていたが、2009年には美術出版社主催の「第14回芸術評論募集」に「レイバー・ワーク──カール・アンドレにおける制作の概念」と題する評論を提出して第一席となった。そして月刊(当時)『美術手帖』の展覧会レビューを担当することになり、文章力が鍛えられた。批評家を目指していたわけではなかったが、期せずして美術批評家になった。「芸術的な問題と哲学的な問題の両方に関心をもってきた。いま振り返って考えると、芸術や書物によって世界の見え方が変わり新鮮だった。世界の見え方が変わる、とは、言い換えると芸術によって感覚や感情がつくりかえられるということ。文章を書くことに特別な関心をもったことはないけれど、機会を得て批評を始めるようになった」と沢山氏。昨年(2023)に東京造形大学の特任准教授となり、今年(2024)現職に着任した。

昔からマレーヴィチは意識していた作家で、宇宙の問題に興味をもち始めたこの2年ほど前からさらに関心が深まったという。沢山氏は「ロシア宇宙主義★1という思想とマレーヴィチらロシア・アヴァンギャルド★2の作家たちとの関連から、抽象絵画についての新たな視点が開けてくると思った。ロシア宇宙主義というのは、モスクワのソクラテスと呼ばれたロシアの思想家で宗教哲学者ニコライ・フョードロフ(1829-1903)が始祖となった思想で、ロシアの芸術家たちに脈々と影響を与えており、フョードロフとマレーヴィチに共通する、宇宙をコントロールするという考えに関心を持ったことがマレーヴィチの作品について改めて考えるきっかけだった」という。

《黒の正方形》は、本作品を含め全部で4点存在するが、4点ともサイズや比率が異なっており、すべてロシア国内にある。ロシアへまだ行ったことがないという沢山氏は、非常勤講師として大学で教え始めた頃、実物を見たことのない《黒の正方形》をどのように解説したらよいかわからず、謎めいた絵画だったという。「よく言われるのが、タブラ・ラサや、マレーヴィチ自身の言うゼロに還元するというもの。しかし、自分で説明するときにどうしたらよいかを考えたときに、宇宙との関係から《黒の正方形》を考えていく独自の糸口が見つかった」と沢山氏は述べた。

★1──ロシアで19世紀後半から20世紀にかけ、宗教思想家ニコライ・フョードロフが始祖となった思想的潮流で、進化する科学技術により人間は不老不死を手に入れ、亡くなったすべての人も復活し、宇宙に居住するようになるという考え。
★2──1890年代から1917年の社会主義革命を経て1930年代初頭までの、ロシア帝国・ソビエト連邦における一連の前衛芸術運動の総称。

最後の未来派絵画展〈0,10〉

マレーヴィチ(本名カジミール・セヴェリーノヴィチ・マレーヴィチ)は、ポーランド人の父セヴェリン・アントノーヴィチと母リュードヴィガ・アレクサンドローフナの間に、1878年2月26日、ロシア帝国のキエフ近郊で生まれた。労働者階級だった父は製糖工場で働いていた。少年時代は嵐、雷、稲妻を好み、晴れた夜は飽きずに星を眺め続ける子供であったという。キエフ美術学校に入学。初めて油絵を描いたのは、母がひと揃いの絵具を購入してくれた15歳のときだった。1896年一家はクルスクに引っ越す。1901年にカジミーラ・ズグレイツと結婚するもやがて解消。1904年モスクワの絵画・彫刻・建築学校に入学を志望するが、許可が下りず翌年からモスクワ芸術家協会創立者のひとりであるF.レルベルクのスタジオへ通う。

1909年精神科医の娘ソフィア・ラハローヴィチと再婚。セザンヌ、フォーヴィスムキュビスムの影響を受け、ロシア・アヴァンギャルドを展開してきたマレーヴィチは、1913年前衛オペラ『太陽の征服』(台本:アレクセイ・クルチョーヌイフ、音楽:ミハイル・マチューシン)の美術を担当する。

1915年にはペトログラード(サンクトペテルブルク)のドヴィチナ画廊で開催された「最後の未来派絵画展〈0,10〉」で、ラテン語の「至高、最高」に由来する色彩と形式の宣言「スプレマティズム(絶対主義)」を声明文で発表し、《黒の正方形》を含めた40点の幾何学的抽象絵画を展示した。イワン・クリューン(1873-1943)らも参加したこの展覧会では、素材そのものを前景化させて後の構成主義の土台を築いたウラジーミル・タトリン(1885-1953)と、抽象画により統一的世界をつくり上げるマレーヴィチのスプレマティズムという、ロシア美術における二大潮流が激しくぶつかり合った。

スプレマティズム宣言

1915年刊行の小冊子『キュビスムからスプレマティズムへ』が最初のスプレマティズム宣言だが、1928年のバウハウス叢書『無対象の世界』がスプレマティズム理念の集大成と言われている。マレーヴィチ自身は、舞台の背景や人物の衣装に正方形のモチーフを配したオペラ『太陽の征服』の上演年(1913)をスプレマティズム誕生年としているが、進化した《黒の正方形》の展示をもってスプレマティズムは多くの人に名前が知れ渡り、本作はスプレマティズムの始まりを告げる絵画として捉えられている。

1917年ロシア革命が勃発。1919年ヴィテプスクへ移り、マルク・シャガール(1887-1985)が校長を務める人民芸術学校で教鞭を執る。1920年、新しい時代の新しい絵画を主張するスプレマティズムを、実用的な分野へと応用していくことを目的とする芸術家グループ「ウノヴィス(UNOVIS)★3」を創設。娘ウーナが誕生し、1922年にペトログラードに転居する。1923年ペトログラード美術館より4部門の責任者に任命される。同年、妻ソフィアが死去。1925年ナターリヤ・マンチェンコと三度目の結婚。1927年ベルリン美術展で特別陳列され、翌年バウハウスより著作集『無対象の世界』が出版された。

その後、レニングラード(サンクトペテルブルク)へ戻り、国立美術史研究所で研究。1930年国立美術史研究を追放され、レニングラード美術学校で教えていたが、逮捕されて数日間尋問される。1932年ロシア国立美術館より調査研究所のポストを与えられ、亡くなるまで在籍したが、晩年は不遇だった。スターリンが政権を掌握し、芸術政策が反動化するにつれて、自画像や家族の肖像など具象絵画に戻る。1935年5月15日、エル・リシツキー(1890-1941)ら弟子たちに慕われながら、癌のためレニングラードにて死去。享年57歳。弟子のニコライ・スエチン(1897-1954)がデザインしたスプレマティズム様式の棺に納められた。長い葬列に並んで進む霊柩車には黒の正方形が飾られ、遺骨はモスクワ郊外の別荘地ネムチノフカに埋葬された。

★3──UNOVISはロシア語のよく見られる省略形で、元の言葉(uchilishche novovo iskusstva)には「新しい芸術の確立者」の意味がある。

 

黒の正方形の見方

①タイトル
黒の正方形(くろのせいほうけい)。英題:Black Suprematist Square


②モチーフ
黒の正方形。


③制作年
1915年。マレーヴィチ37歳。


④画材
キャンバス・油彩。


⑤サイズ
縦79.5×横79.5cm。


⑥構図
画面中央に黒い四角形が正面向きに配置されている。この黒の正方形は四つの辺の長さと四つの内角の大きさがすべて等しい厳密な正方形ではなく、右上方と左下方に少し伸びた形をし、黒と白の境界線には揺れがあり、動きが感じられる[図1]



図1 揺れる境界線(《黒の正方形》部分)


⑦色彩
黒、白(赤、緑、ライトブルー、ダークブルー、イエローグリーン、ピンク、ローズ、ヴァイオレット)。モノクローム絵画であるが、実際にはひび割れた箇所からさまざまな色彩が見える。黒はすべての印刷物の色を象徴し、白はすべての光の色を象徴する。


⑧技法
油彩。完成していたスプレマティズム絵画の上に、黒い正方形を筆で平面的に描き、その後に白の縁取りを描いた。黒い絵具のひび割れから下層の絵具の色がほのかに見えるが[図2]、白い絵具の下層からも絵具が透けて階層構造になっていることがわかる。指紋が数カ所残るなど、急いで仕上げたことが示されている。



図2 ひび割れにのぞく色彩(《黒の正方形》部分)


⑨サイン
なし。


⑩鑑賞のポイント
黒い正方角が、白い正方形の中に収まるようにして描かれている。マレーヴィチの標榜した絶対主義というスプレマティズムを体現した無対象絵画であり、黒の正方形によって純粋な感覚を表現した。絵画の本質である色彩を彩りの対象ではなく、色彩をエネルギーとして自立させようとし、また正方形を「形のゼロ」「生きた堂々とした幼児」「新しい芸術の顔」「芸術における純粋な創造の第一歩」と形容した。マレーヴィチは「正方形=感覚、白い地=その感覚の外部にある無」と表記して、無である白い画布から黒い正方形のフォルムを浮かび上がらせた。このフォルムはマレーヴィチにとってはシンボリックなものではなく、生命をもつ自立的な運動であり、ひとつの実在であった。絵画と切り離せないフォルムを浮遊させようとして、地上的な絵画を無化させる方向に歩んだ。絵画における新しいリアリズムへ、新しい時代の感性、無対象の純粋な感覚を直接表現した。それは従来の人類の絵画実践のすべてを黒い闇のなかに葬り去ると同時に、新たな芸術の出発点でもあった。マレーヴィチを代表する究極の抽象絵画である。



方位をもたない絵画

《黒の正方形》の着想は劇的なことで、急いで描いたという。新しいキャンバスを用意する間もなく、完成していた絵の上に黒い絵具を塗り潰して描いた。「絵具を塗る作業に気持ちが追い付かず、切迫した状況が画面の指紋に残っている。『自分の前に雷が落ちているようだった』『一週間くらい寝食を忘れてしまった』と言うほど、マレーヴィチにとってはショッキングな出来事だった」と、静寂に見える画面とは異なる制作の様子を沢山氏が教えてくれた。

《黒の正方形》の見どころについて沢山氏は、「色がないところを含めてすべてに意味がある。白と黒は無彩色のため、ある意味すべての情報が飽和している状態。三原色の光を集めて重ねると白い光になるし、あらゆる画像や絵具の色を集めて重ねると黒に近づく。そういう意味でいうと極端な二つの飽和状態。光と闇に分かれているとも言えるし、あらゆる情報がこの絵の中にすべて入ってしまって、エントロピーが極大まで増大している状態。ある種の臨界が見どころとも言える」と述べた。

さらに沢山氏は、正方形のキャンバスの中央に、黒い正方形を描いた点が画期的だったと指摘する。重力を克服した絵画、どの方向でも成立する絵画。世界で初めての無対象絵画であったというよりも、むしろ世界で初めて方位をもたないことに自覚的に取り組んだ絵画だったのではないかという。「無対象であることと無方向であることを同時に実現しており、《黒の正方形》は、上下左右の別を廃棄し、平等性を有する。回転しても同じ図像が現われるということは、上や下といった局所的な方向性をもたない宇宙の空間的な原理と近い。マレーヴィチは飛行機や無重力に関心をもっていた。《黒の正方形》が展示された「最後の未来派絵画展〈0,10〉」の写真を見ると、《黒の正方形》は展示室の隅の上、ロシア正教のイコン画が掛けられる位置にあり、天井から観者を見下ろしている。壁を離れて、飛び立つように取り付けられ、浮遊した無重力性を感じさせる。《黒の正方形》を見るということは、無重力に向けて感覚が解放されて、逆さまから絵を見ている感じになる。それと見ている人自身が宇宙空間を遊泳しているような感じも生まれると思う。宇宙空間の問題と関連して、全方位性という観点から《黒の正方形》を考えることも必要だろう。オペラ『太陽の征服』では、登場する人々は頭を下にして(逆さまになって)歩き、飛行士やタイムトラベラーが登場する。そこでは時間や空間の階層や秩序(順序)も回転するように入れ替わってしまう。太陽の惑星の動きのことを公転、レボリューションと言う。マレーヴィチにとっては政治的な『革命』のレボリューションと、芸術的な『革命』のレボリューションと、天体の『公転』のレボリューションがつながっていた」と沢山氏は語った。


沢山 遼(さわやま・りょう)

武蔵野美術大学造形文化美学美術史研究室准教授、美術批評家。1982年岡山県生まれ。2005年武蔵野美術大学造形学部芸術文化学科卒業、2007年同大学大学院造形研究科修士課程修了。2023年東京造形大学造形学部絵画専攻領域特任准教授、2024年より現職。専門:近現代美術/美術批評。2020(令和2)年度 文化庁新進芸術家海外研修制度研修員として、ニューヨークに滞在。2023(令和5)年度 文化庁アートクリティック事業ディレクター。主な賞歴:「レイバー・ワーク──カール・アンドレにおける制作の概念」によって第14回芸術評論募集第一席(美術出版社、2009)。国際美術評論家連盟会員。主な著書:『現代アート10講』(共著、武蔵野美術大学出版局、2017)、『絵画の力学』(書肆侃侃房、2020)、『今、絵画について考える』(共著、水声社、2023)など。


カジミール・マレーヴィチ(Kazimir Malevich)

ロシアの画家。1878~1935年。製糖工場で働くポーランド人の父と母のもと、現ウクライナのキエフ近郊に生まれる。キエフ美術学校に入学。1901年カジミーラ・ズグレイツと結婚するもやがて解消してしまう。1904年モスクワに出て、翌年F.レルベルクのスタジオへ通う。1909年精神科医の娘ソフィア・ラハローヴィチと再婚。セザンヌやキュビスムの影響を受け、1913年前衛オペラ『太陽の征服』の美術を担当。1915年絶対主義「スプレマティズム」を宣言し、幾何学的抽象絵画を発表。1917年ロシア革命勃発。1919年ヴィテプスクへ移り、シャガールが校長を務める人民芸術学校の講師となる。1920年スプレマティズムを実用的に拡張していく「ウノヴィス(新芸術の主張)」を創設。娘ウーナ誕生。1922年ペトログラード(サンクトペテルブルク)に転居。1923年ペトログラード美術館より4部門の責任者に任命される。妻ソフィア死去。1925年ナターリヤ・マンチェンコと再々婚。1927年デッサウ・バウハウスに迎えられ、翌年著作集『無対象の世界』が出版される。レニングラードへ戻り国立美術史研究所で研究。1930年国立美術史研究を追放され、レニングラード美術学校で教えていたが、逮捕されて数日間尋問されるなど晩年は不遇だった。1932年ロシア国立美術館より調査研究所のポストを与えられ、亡くなるまで在籍した。スターリンが政権を掌握し、退廃芸術の取り締まりが厳しくなるにつれて、自画像や家族の肖像など具象絵画に戻った。1935年5月15日、弟子たちに慕われながら、レニングラード(サンクトペテルブルク)にて癌のため没。享年57歳。代表作:《黒の正方形》《白地の上の白い正方形》など。


デジタル画像のメタデータ

タイトル:黒の正方形。作者:影山幸一。主題:世界の絵画。内容記述:カジミール・マレーヴィチ《黒の正方形》1915年、キャンバス・油彩、縦79.5×横79.5cm、ロシア、トレチャコフスキー美術館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:トレチャコフスキー美術館、Scala、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Jpeg形式50.0MB、300dpi、8bit、RGB。資源識別子:コレクション番号=scala_H760148(Jpeg形式50.0MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。情報源:(株)DNPアートコミュニケーションズ。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:トレチャコフスキー美術館、Scala、(株)DNPアートコミュニケーションズ。


画像製作レポート

《黒の正方形》の画像は、DNPアートコミュニケーションズ(DNPAC)へメールで依頼した。後日、DNPACからの返信メールより、作品画像をダウンロードして入手(Jpeg、50.0MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。作品画像のトリミングは2点、掲載は1年間。
iMac 21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって、モニターの色味を調整する。作品を所蔵するトレチャコフスキー美術館のWebサイトに掲載されている作品画像を参考に、Photoshopで明度を調整した(Jpeg形式50.0MB、300dpi、8bit、RGB)。拡大して黒い絵具のマチエール(材質的効果)を探そうと試みたが、下地の絵具の影響によるひび割れしか確認できなかった。白い絵具の方はタッチが多様で均一でなく、動きがあることがわかった。
セキュリティを考慮して、高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」を用い、拡大表示を可能としている。


参考文献

・中原祐介「白の逆説──浮遊する形のゆくえ」(『美術手帖』No.385、美術出版社、1974.9、pp.70-91)
・カジミール・マレーヴィッチ著、五十殿利治訳『無対象の世界』(中央公論微絨出版、1992)
・ジャン=クロード ・マルカデ著、五十殿利治訳『マレーヴィッチ画集』(リブロポート、1994)
・セルジュ・フォーシュロー著、佐和瑛子訳『現代美術の巨匠 マレーヴィチ』(美術出版社、1995)
・John Milner, Kazimir Malevich and the art of geometry(Yale University Press, 1996)
・原田勝広「マレーヴィチ 黒い正方形の神話」(『美の巨人たち 天才、その華麗なる懊悩』、日本経済新聞社、2000、pp.143-161)
・『週刊美術館:小学館ウィークリーブック モンドリアン/マレーヴィチ』第 50号(小学館、2001.2)
・Andréi Nakov, Kazimir Malewicz: catalogue raisonné(Adam Biro, 2002)
・大石雅彦『マレーヴィチ考:「ロシア・アヴァンギャルド」からの解放にむけて』(人文書院、2003)
・タチヤナ・ヴィクトロヴナ・コトヴィチ著、桑野 隆訳『ロシア・アヴァンギャルド小百科』(水声社、2008)
・ジル・ネレ著、Toshio Miyamoto訳『カジミール・マレーヴィチとシュプレマティズム:1878-1935』(タッシェン、2009)
・沢山 遼『絵画の力学』(書肆侃侃房、2020)
・マレーヴィッチ著、宇佐美多佳子訳『零の形態:スプレマチズム芸術論集』(水声社、2000)
・藤枝晃雄『モダニズム以後の芸術:藤枝晃雄批評選集』(東京書籍、2017)
・沢山 遼「絵画と全方位──マレーヴィチ、リシツキー、モンドリアン」(『今、絵画について考える』、水声社、2023、pp.121-161)
・ボリス・グロイス編著、乗松享平監訳『ロシア宇宙主義』(河出書房新社、2024)
・Webサイト:桑野 隆『ロシア・アヴァンギャルド再考』2024.9.5閲覧(https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/sympo/Proceed97/kuwano.html
・Webサイト:「The Black Suprematist Square 1915」(『Tretyakov Gallerye』)2024.9.5閲覧(https://my.tretyakov.ru/app/masterpiece/8403


掲載画家出身地マップ

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2024年9月