会期:2024/10/26~2024/10/27
会場:京都府立府民ホール“アルティ”[京都府]
公式サイト:https://kyoto-ex.jp/
(中編より)
中編で見たように、KEX前半のプログラムでは、ケア労働に従事する女性たちの匿名化と抑圧の一方で、ユートピアとしての男性コミュニティ、クィアな越境の力と快楽を示す男性同士のダンスという、ジェンダーをめぐる分断や不均衡性が浮上した。こうした事態に対するひとつの応答として感じられたのが、終幕を飾ったアミール・レザ・コヘスタニ/メヘル・シアター・グループ『ブラインド・ランナー』だ。
イラン出身の劇作家・演出家、アミール・レザ・コヘスタニは、2019年のKEXで、男子禁制のイランの大学の女子寮を舞台に、相互監視社会、冤罪やデマの心理、女性への抑圧、デモや移民の強制送還を、現実/フィクションの境界を巧みに揺さぶる手法で描く『Hearing』を上演している。余白を残した抑制的な台詞、リアルタイムの映像を駆使した秀逸な演出は、本作でも健在だ。
開演前から、ほぼ何もない舞台上では、女性と男性が距離を置いて向かい合い、軽いストレッチの「準備運動」をしている。冒頭、下手と上手に別れた二人は、それぞれ英語/ペルシア語で黒板に言葉を書きつけ、言葉遊びのように単語の一部を書き替えていく。「Based on an actual story(実際にあった話にもとづく)」という英語の一文は、storyがhistoryに書き替えられ、actual→factual→factへと変形される。文字の消去と書き替えは、ライブカメラで舞台正面に映像中継される。また、日本語字幕を注視すると、英語/ペルシア語では次第にズレが生じ、最終的に英語では「fact」に、ペルシア語では「fiction」という相反する単語に帰着する。事実とフィクションは二項対立ではなくグラデーションをなしていること、ひとつの言葉のなかに潜在的な意味の内包や分岐性を聞き取ること、イランおよび言語圏の内/外ではものの見え方が異なること、そして「中継カメラ」の重要性を静かに告げる導入だ。
アミール・レザ・コヘスタニ/メヘル・シアター・グループ『ブラインド・ランナー』(2024)[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT]
会話が進むと、女性は政治犯として刑務所に収容されたジャーナリストであり、一週間に一度の面会に訪れる夫との、カメラで監視されたガラス越しの会話であることがわかる。刑務所内で孤独と憔悴をつのらせる妻と、(女性への抑圧を含めて)その苦痛を想像できず独りよがりな苛立ちをぶつける夫。距離を縮めるはずの言葉を交わせば交わすほど、「見えないガラスの壁」が分厚くなっていく。中継カメラはまず監視カメラとして君臨し、「何もできず、ただ見つめる両眼だけの存在になった」と訴える妻の身体を、「両眼のクローズアップ映像」として文字通り切り取る支配力を行使する。
[© Benjamin Krieg]
一方、外の世界で夫は、脱落者が出るなかでも、抗議行動として「囚人解放マラソン」に参加している。また、「音楽や読書、セックスよりも、マラソンが最も恋しい」と言う妻も、刑務所の短い廊下を折り返して走りながら、「何にも遮られず走り続ける自由」を希求する。本作の背景には、2022年9月以降、イランで高まったヒジャーブ着用義務への抗議デモがある。ヒジャーブの着用が正しくなかったとして警察に取り調べを受けたジーナ・マフサ・アミニが暴行で死亡した。この事件をSNSに投稿し逮捕されたニールーファル・ハーメディーが、スポーツと女性の権利を訴えるジャーナリストであり、夫とともにアマチュアのマラソンランナーであったことが、本作の着想源になっている。
アミール・レザ・コヘスタニ/メヘル・シアター・グループ『ブラインド・ランナー』(2024)[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT]
自由を求めて走り続けること。壁にも何者にも邪魔されず、引き返すことなく走り続けたい。その切実な希求は、後半、パリーサという盲目の女性へと引き継がれる。抗議デモに参加し、治安部隊のゴム弾に撃たれて失明したパリーサは、パリ・パラリンピック2024での視覚障害者マラソンに参加するため、伴走するガイドランナーを探している。ガイドランナーはただ一緒に走るのではなく、スピードや呼吸を合わせるための練習が必要だ。練習時間や金銭面で渋る夫は、妻に説得され、パリーサとともにパリのレースへ出場することを決める。
見事メダルを獲り、「勇気をたたえる勲章」を授与されることになったパリーサだが、「まだやり終えてない、もうひとつのマラソンがある」と夫に持ちかける。それは、終電と始発列車のあいだの5時間半で、イギリスまでの38kmの海底トンネルを走りきって亡命する、命を賭けたマラソンだ。それは同時に、イギリスの議会で不法入国移民を強制送還する法案が可決されることに対する、命がけの抗議デモでもある。出発前、「サプライズプレゼント」としてヘッドセットのビデオカメラをパリーサの頭に付ける夫。終盤、手を握って立つ二人の前に、暗いトンネルの映像が映し出される。そこに、出発前のパリーサがビデオに吹き込んだモノローグがオーバーラップする。「私は、命がけで母国を脱出したわけではない、恵まれた移民です。勲章を授与される私は、もっと苦しんだ大勢の人々が受け取るべき正当性を奪いたくありません。彼らへ関心を向けてもらうため、今夜、もう一人の人とデモを決行します。授賞式には、このデモの記録映像を流してください。走ることは、外の世界と私をつなげる唯一の言語でした」……。「記録映像」は、轟音と、迫り来る2つのライトに闇を引き裂かれて終わる。
[© Benjamin Krieg]
演出のポイントは、妻/パリーサの輪郭が曖昧に重なり合う一人二役と、ライブカメラの巧みな使用にある。妻/パリーサの演じ分けは、「後者を目を閉じた状態で演じる」という極めてシンプルな仕掛けだ(クローズアップのライブカメラが「演じ分け」を補足する)。「両眼だけの存在」にされた刑務所内で、それでも孤独な抵抗として廊下を往復して走り続けること。両眼を奪われても、自由への希求として走ることを止めないこと。イランの刑務所内/パリのレース会場、世界と隔絶された閉域/賞賛やマスコミの注目を受ける「表舞台」という離れた場所にいる彼女たちを、シスターフッドとしてつなぐのが「走ること」だ。デモへの参加と報道。「抑圧と闘っている」のは女性たちだが、本作が描くのは、「傍観者」だった男性が彼女たちの「伴走者」へと変容するプロセスでもある。本作は、女性たちの連帯に対して、男性が「伴走者に
こうした選択と変容を証し立てるのが、(ライブ)カメラの複数の役割だ。自由を奪う象徴だった刑務所内の監視カメラから、撃たれた目の代わりに、自由に向かって走る行為の証言へ。そして、ライブカメラのもうひとつの重要性が際立つシーンがある。序盤の面会シーンの合間には、妻と夫が、舞台上を平行線上に走るシーンが挿入される。二人が走る方向は同じだが、それぞれ反対側から撮っている映像がスクリーンに重ねられることで、二人はすれ違いを繰り返し続けているように見える。だが、夫がガイドランナーを引き受けた中盤では、二人が舞台上で走る向きは逆方向だが、映像上では互いが互いの伴走者のように重なり合う。妻/パリーサの重ね合わせに加えて、「夫がガイドランナーとして呼吸を合わせて走る練習」のように見えてくる。カメラの第三の機能は、想像力の要請である。それぞれ異なる場所で走っていても、「走ること」を通じた連帯は可能なのだ。作中、パリーサがSNSに投稿した詩の朗読が何度も反復される。「自由を求めるなら/ロープをつかめ/独立を求めるなら/連帯せよ」。
[© Benjamin Krieg]
ここで、「目を撃たれた犠牲者」が女性であり、その手を引くガイドランナーが男性であることは、男性であるコヘスタニ自身の自己弁護や「主導権はやはり男性」という事態に見えるかもしれない。だが、映像のなかで曖昧に重なり合って走る二人は、「どちらが先導者か」はもはやわからない。ただ、共に走ること。刑務所の内/外のボーダー、国境のボーダー、そしてジェンダーというボーダーを超えて、伴走者として連帯できる。それは、(想像力を介して)可能だということを、本作は示している。
関連レビュー
KYOTO EXPERIMENT 2019|アミール・レザ・コヘスタニ/メヘル・シアター・グループ『Hearing』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年12月15日号)
鑑賞日:2024/10/26(土)