2020年03月15日号
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artscapeレビュー

KYOTO EXPERIMENT 2019|アミール・レザ・コヘスタニ/メヘル・シアター・グループ『Hearing』

2019年12月15日号

会期:2019/10/24~2019/10/25

京都府立府民ホール “アルティ”[京都府]

イラン出身の脚本家・演出家、アミール・レザ・コヘスタニによる、非常に緻密に構築された構造を持つ会話劇。男子禁制の女子寮で「部屋から男の声が聞こえた」という告発のドラマが、相互監視社会、冤罪やデマの心理、トラウマ的な記憶の反復、女性差別、そして死者との対話への希求といったテーマを浮上させる。さらに、ヘッドセットのビデオカメラによるライブ映像の投影、観客席を含む劇場空間を上演の一部に組み込む秀逸な仕掛けにより、虚実の境界や時空間を曖昧に攪乱させ、「遠く離れたイラン(の閉鎖性や抑圧)」と「日本の劇場という今ここ」を鮮やかに接続させていく。

事件の発端は、イスラム教の戒律に従い、男性の出入りが禁じられている大学の女子寮で、「ネダの部屋から男の声が聞こえた」という匿名の密告の投書だ。規則違反の疑いをかけられたネダと、密告を疑われたサマネの2人は、寮の監督生に代わる代わる呼び出され、尋問を受ける。ネダとサマネの言い分は食い違い、証言は二転三転し、サマネは密告の投書を書いたのは自分ではないと頑なに否認し、別の学生の名前を挙げる。また、監督不行き届きとなる自身の身を案じて保身に走る監督生も、事件の夜に無断外泊していた(公然の)事実が明らかとなる。誰もが秘密を抱え、想像で(しかないからこそ)膨らんだ妄想がデマとなり、疑心暗鬼や対立が深まっていく。また、「監督生」役の俳優が、舞台上ではなく観客席にいる演出は、相互監視社会や閉鎖的な集団内部での責任転嫁が、安全に隔離されたフィクションの内部ではなく、(傍観者という名の共犯者である)観客自身が属する共同体の問題であることを突きつける。

ここで秀逸なのは、同じ台詞が何度も反復され、次第にズレを生じさせながら、パラレルワールド的な複数の事態を分岐的に再生させていく構造だ。そのリフレイン/差異の手法は、「視点が変われば見えるものが違ってくる」という事態(=黒澤明『羅生門』[原作は芥川の小説『藪の中』『羅生門』])を突きつけ、「唯一の真実」を拡散的にぼやけさせるとともに、安定した線的な時間軸を撹乱させ、トラウマ的な記憶が反復し続ける時空のループにはまり込む。「確定された過去」など存在せず、あるのはただ、不確かな複数の可能性がもつれあった交錯だけだ。だが私たちは、誰の(悪夢的な)記憶、誰の(「過去を書き換えたい」という)願望を見ているのか。



Photo by Kai Maetani, Courtesy of Kyoto Experiment.



こうした不穏な構造を支えるもうひとつの秀逸な仕掛けが、俳優が装着したヘッドセットのビデオカメラの映像がスクリーンに投影される(ように見える)というものだ。それは、「語り手の視点をリテラルに投影する」という了解を(その視野の限定性も含めて)観客の意識にまずは植え付ける。だが真にスリリングなのは、この前提事項が(秘かに)崩されるプロセスだ。「2分だけ、サマネと2人で話したい」と監督生に言ったネダは、サマネとともに舞台上から姿を消し、「どこへ行くの」「付いてこないで」という2人の声だけが流れる。無人の舞台上には、無言で階段を降りていくネダの後を執拗に追う、不安定に揺れるカメラの映像が流れる。青みがかった暗い色調、不鮮明さ、「ノイズ」の混入は、いかにもそれが「ネダを追って階段を降りるサマネの視線」のライブ中継であるかのような装いを与える。だが、映像の端に、階を示す「6、5、4、3……」という数字がよぎることに注意しよう。劇場の物理的空間と地続きであると見せかけた、「7階建ての大学寮」というフィクションの空間への転移。それは、「ネダを追うサマネの視点」の追体験ではあるのだが、スクリーンに投影された映像自体はライブ中継ではありえず、別撮りされたものである。「映像」の信憑性を逆手に取り、現実とフィクションの境界を曖昧に攪乱させる仕掛けは、「(監視カメラの)映像は不鮮明で顔が分からないから、証拠にならない」という(繰り返される)劇中の台詞ともメタ的に共鳴する。



Photo by Kai Maetani, Courtesy of Kyoto Experiment.


ここでは、ビデオカメラ=俳優の身体との一体化/乖離が同時に起こっているのだが、このトリックが戦慄的な効果を上げるのが、後半のシーンだ。「早くネダを呼んできて」と命じる監督生に、サマネは「ネダは来られない」と応じる。そこに、「来たわよ」というネダの声だけが響き、無人の舞台上のスクリーンには「舞台上から観客席を眺める」ビデオカメラの(不穏に歪んだ)映像が映し出される。幽霊の付けたヘッドセットカメラのライブ映像。物理的身体は見えなくとも、「幽霊」は舞台上を歩き、彼女の視線は実体化され、私たちはその眼差しに晒された自分たち自身を見る。ここで「来たわよ」という台詞の効果的なリフレインは、劇の進行に従って二重、三重の意味を内包し、複数のレベルを往還する。「呼び出しに応じて来た」という物語上のレベル。同時にそれが冒頭の登場とともに発せられていたことを思い返せば、「俳優の身体が舞台上に現われた」というリテラルなレベルとしても機能する。そして幽霊の出現を告げる宣言。

このネダの「幽霊」とサマネは時空を超えて会話し、「事件」後のネダの人生が語られる。15年が経ち、「今」は34歳の主婦となり、子どもを育てていると語るサマネは、自分の軽率な行動の赦しを乞う。一方ネダは、寮を追い出され、保守的な管理体制に反発し、イランからスウェーデンへと出国するが、デモに参加して負傷した迫害の事実が立証できず、強制送還されてしまう(子どもの死産も暗示される)。彼女の死の理由が強制送還にあるのか、死産のショックなのか、それらが複合的に絡んだ自殺なのかはわからない。ただ、「ここでは自転車を買って配達係をしている」と語るネダの声と街路を滑るように映していく車載カメラの映像は、つかの間の解放感に満ちている。それは、女性が自転車に乗ることを禁止するイランでは叶えられない、ネダの願望が投影された世界だ。トラウマ的に反復される記憶に亀裂を入れるように、邂逅と赦しと解放の時間が訪れる。



Photo by Kai Maetani, Courtesy of Kyoto Experiment.


終盤では再び時空が巻き戻り、「リュックを背負って大学寮を出ていく」ネダとサマネの会話が再現/反復される。「ここから出ていく」というネダの台詞には、何重もの意味が胚胎する。女子寮から、女性に抑圧的な社会から、イランからヨーロッパへ、そして「舞台上から」の文字通りの退場。だが、(私たちが「彼女の死」という事実を通して既に知っている)その「脱出」の失敗は、ビデオカメラの映像によって上書きされる。舞台を降り、扉を開け、劇場のロビーをさ迷うも、「出口の外」へは出られず、閉じ込められたままの視線。「上演の終了」とともに私たち観客は悪夢にはまり込んだような出口なしの時空間から解放され、「外」に出られるが、そこには舞台上と同様、見えない無数のネダたちが蠢いている空間なのだ。いやそれは、終盤、ヘッドセットカメラを舞台上で「交換」したサマネ──彼女もまた、主婦として家庭内という倦んだ閉域を生きる者である──のさ迷う視線でもある。本作では、ヘッドセットカメラは何度も手から手へと「交換」され、語りの主体も交換可能なものとして不安定に揺らぐ(サマネと会話を交わすネダの「幽霊」の語りは、客席に座る監督生役の俳優が担う)。カメラの視点(見る・目撃する主体)も、語りの主体も人称的輪郭が曖昧に溶け合って融解し、「見る主体」であるべき私たち観客をも取り込んでしまう。日常空間を反転させて飲み込んでしまう恐るべき構造を持った本作は、抑圧された女性たちの見えない亡霊が徘徊する世界として、現実空間の「見え方」を介入的に書き換える。


公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2019/

2019/10/25(金)(高嶋慈)

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